あなたがわたしにふれた22のはなし




 うっすらとした灯りがゆるゆるとまぶたににじむ。
 泥のように重い身体がゆっくりと覚醒していくのを、マルーは他人事のように感じながらまどろんでいた。
 無意識のうちの反応で、ぴくりと指先が震えた。その感覚が刺激となって、ぼんやりと脳が動いてゆく。緩慢な動きでそっとまぶたを開くと、ぼやけた視界いっぱいに見慣れた光景が広がっていた。
 殺風景な部屋は、そこここに彼の生活が見える。散らかすというほどではないけれど雑然としていて、お気に入りの香水と筋トレ用の器具が並んでいるような無頓着さがおかしかった。
 昔はもっと、子どもらしいものであふれていた部屋が、いつのまにかすっかり『男の居場所』になっていることに、なんとなく落ち着かないものを感じて寝返りを打つ。
 自分が横になっているこのベッドだって、だいぶおおきく変わっていた。大柄な青年が悠々と寝転がれるそこは、小柄なマルーではまるで泳ぐように広く、鼻をうずめたシーツから、彼の残り香が立ち込めてきて胸が苦しい。
 その嗅覚の刺激が引き金となり、昨夜のことを克明に思い出して、急に動悸が激しくなった。真っ赤に染まった熱いほほを両手で抑えると、肌に触れるシーツの感触にはっとする。
 敢えて確認するまでもなく、一糸まとわぬ状態でベッドの中にいる自分に、マルーはじたばたと身もだえたい衝動にうめいた。
 それからようやく我に返り、慌てて上半身を起こした。胸元をシーツで隠しながら部屋中を見回すが、どこにも彼の気配はなく、ほっとしたような猛烈に寂しいような、複雑なため息が出る。
 あ、と気づいて時計を見やると、ちょうど早朝の申し送りの時間だった。新たに手に入れたギアパーツの調整が昨夜のうちに行われており、その報告と確認で朝が早いんだ、と彼が言っていたことを思い出す。
 そんな予定だったくせに、彼はちゃんと眠れたのだろうか。
 またも昨夜のことを思いだしそうになり、マルーは慌てて首を振る。ひとりで悶々としていると、どんどん深みにはまってしまいそうだったので、とにかくさっさと支度をして、自室に戻ろうと動き出した。
 その途端、じんわりと重い腰と明らかに違和感を訴える身体の奥に硬直した。普段使わない筋肉が強張っていて、ちゃんと歩けるか不安になる。そんなふうになった原因を考えそうになって、マルーは慌てて首を振り、自分の身体に鞭打つように敢えてさっさとベッドを降りた。
 思ったよりもちゃんと立てたことにほっとして、きょろきょろと視線をさまよわせる。誰もいない彼の部屋とはいえ、一糸まとわぬ姿で立ち歩くのは抵抗があったので昨夜着ていた服を探すと、何故かきちんとソファの上にまとめられていて、始まりはあそこだったな、と懲りずに余計なことを思い出して赤面した。
 シーツを身体に巻き付けて、ずるずるとそちらへ向かう。その途中、姿見の前を通りかかってふと視線を引かれた。
 白いシーツに包まれている、華奢な骨格の少女。『女』というには未成熟で、年齢よりもずっと子供っぽい体つきに、マルーはしばし目を奪われる。
 どこからどう見ても、貧相で魅力に乏しい。女性らしい魅惑的なラインも、抱き心地の良い肉付きも、なにもかも備わっていない。ただ細いだけの棒のような身体の、どこに彼が魅力を感じてくれたのだろうと、改めて疑問に思った。
 けれど、昨夜のことは夢ではない。どれほど信じられなくても、確かにあったことなのだと、鏡の向こうの少女が保証する。
 昨日までとなにも変わらないはずなのに、昨日とは決定的になにかが違っていた。
 これが、愛する人と肌を重ねるということなのか。マルーは、書物やシスターたちのコソコソ話で蓄えた耳年増な知識では決して知り得なかった事実に、気恥ずかしいような、誇らしいような、迷子のように心細いような、複雑で幸せで、少しだけ泣きたくなる感情にため息をつく。
 先ほどは彼がいないことにほっとしたけれど、いまはただ、力強い腕に抱きしめてほしくてたまらなかった。
 けれど彼には、大切な役割がある。四六時中彼を独占することなどできるはずもなく、そもそもそんなことをしたいわけではない。
 ただ、いまだけは。
 初めて夜を共に過ごし、朝の光の中彼の香りの染みついたシーツに包まれて目を覚ましたいまだけは、自分の傍にいてほしかった。
 願ってしまうことすら罪になるような想いに、マルーは自嘲するように唇を噛む。鏡の向こうで寂しそうな顔をしている少女に、わがままはダメだよ、と改めて呟いた。
 ――肌を重ねたことで、欲張りになってしまった気がする。
 こんなことではいけない。厳しく自分を戒めようと、鏡面を再び見やった時、マルーはふとなにかに気づいて目を瞬いた。
 ゆっくりと、姿見に近づく。身体を覆うシーツが床をすべり、すこしだけ乱れた棗の髪が丸い肩に揺れて擦れた。
 鏡に映る自分の、白く光る喉から首、胸元にかけて違和感があった。じっと目を凝らすと、濃淡の違う赤い点が、至るところにちりばめられている。
 見慣れないその症状に、マルーはふと眉を寄せた。蕁麻疹とか、虫刺されとか、そういうものを想起したけれど、どこかがなにか……違う。
 痛くもかゆくもないその赤いしるしに指を滑らせ、マルーは突然思い当って声を上げた。
「——あっ……!」
 溢れるように思い出した、昨夜の光景。切れ切れのそれは、羞恥と興奮と混乱に苛まれて不明瞭だけれど、肌に散る赤い痣のいくつかに覚えがあった。
 真っ赤になって震えながら、マルーは彼のくちびるが刻んだしるしに手のひらをあてる。喉から首、胸、そしてきっと、シーツに隠れた身体中、至るところに同じような痣があることを確信し、その時の感触や息遣いまで精巧に思い出してぺたりと座り込んだ。
 どうしようもない恥ずかしさと、胸の底からわき上がる幸福感に、めまいがした。
 女性として、なにひとつ魅力を持ち得ない貧相な自分だけれど、彼が愛してくれたことを、強く信じられる。初めての朝、隣で一緒に目覚めてはくれなかったとしても、彼の想いは自分の身体中に確かに刻み込まれていた。
「——……ふふ……」
 マルーは自分の身体を抱きしめるようにして、真っ赤な顔で笑みをこぼす。
 泣き出してしまうような胸の熱さを感じながら、彼の香りに包まれて、ただ強く、しあわせを噛みしめていた。





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