あなたがわたしにふれた22のはなし




 ちいさな歌が聴こえる。
 まるで沼の底にいるような身の置き所のない不快感の中、美しい天上の音色にも似たその音に導かれ、バルトはゆっくりと意識を浮上させた。
 ぼんやりとゆがむ視界が徐々に開かれる。世界がたわんでいるのは、自分の瞳が濡れているせいだと気付き、ほとんど無意識に腕を動かして目を擦ろうとした。
「……だめ」
 優しくとがめるような声。かすれるほどちいさなそれとともに、バルトの指がそっとなにかにとらえられた。やわらかくて少し冷たい、細くてちいさなそれは、かすかに震えているバルトの手指をそっと包み込んで、もとの通り暖かな布団の中へと導く。
「……ほら、気持ちいいでしょ?」
 その言葉の通り、冷たい布で優しくまぶたと額をぬぐわれた。バルトはぼんやりとしたままそっと目を開き、先ほどよりもクリアになった視界に映るものを見つめる。
「――……マ……ルー」
「ここにいるよ」
 優しく優しく呟いて、マルーはそっとバルトの顔中を冷たい布で拭く。熱を持つ彼の肌はしっとりと汗ばみ、布ごしにもそれは焼けるようだった。
 高熱を発した原因は昨日の戦闘によって受けた傷によるもので、傷口はエーテルでふさがったものの、内部組織の自己修復に伴う発熱までは避け得なかった。それでも、十分な対策と療養態勢が功を奏し、この熱さえしのげば回復は早いと医師のお墨付きもある。
 バルトはぼんやりと事の経緯を思い出し、全身を支配するこの倦怠感と不快感を極力意識から締め出そうと努めた。
「……どん……くらい……」
「寝てたか? まる一昼夜たったよ」
「……航路……」
「危険領域は脱して、予定通り近辺アジトに停泊してる」
「……」
「若の他に、重傷者はいないよ」
 打てば響くような答えに満足して、バルトはかすれたため息をついた。そんな彼の乾いたくちびるに、なにか細長いものが当たる。
「お水だよ。飲める?」
 そっとあてがわれた吸い飲みを含み、そこから流れてくる少量の水で口中を潤した。熱による不快感が少しやわらぐと、バルトは再びまぶたを開く。
 やわらかなオレンジ色の電飾に照らされたマルーが、すぐ傍でこちらをのぞき込んでいた。ふっくらとしたほほに影が差し、おおきな目の下には見間違えようもない黒ずみが見える。
「――……も、寝ろ……」
 バルトが言うと、マルーは少しだけバツが悪そうにほほ笑んだ。
「ボクはちゃんと寝てるから平気だよ」
「……ウソ……つけ」
「……バレたか」
 ぺろりとちいさな舌を出し、マルーが悪戯っぽく笑う。それからバルトの胸に手を置いて、トン、トンとリズムを取った。
「ほら……もう、眠って、若」
「……」
 子供をあやすような仕草に、むっと眉を寄せようとしたけれど、あまりに心地よすぎてため息しか出なかった。とろりとまぶたを閉ざしたバルトの耳に、先ほど聴こえていたちいさなメロディーが届く。
 その懐かしい子守唄は、幼い記憶を呼び起こした。

 ――バルトのちいさな額を撫でる、細くてあたたかな誰かの手。いつも差しのべられていたそれは、あどけない彼の世界のすべてだった。

「――……」
 じわりとなにかがにじんでくる。閉ざしたまぶたの裏が熱く、あふれそうになる感情を逃がしたくて、バルトは無理やりしかめ面を作った。
「……やめろ、それ」
「あれ? この歌、嫌い?」
「……ガキじゃねえんだ……」
「よく眠れるかなって思ったんだけど……」
「……やめてくれ」
 思いがけず弱々しい声が出て、バルトは我ながらぎょっとした。その微妙な空気に気づき、マルーの手のひらがバルトの胸を再び叩く。
「うん……じゃあ、おとなしく寝てくれる?」
「……」
 駄々っ子をあしらうような声音に、不満を感じてもどうしようもない。バルトはとにかく眠りの世界に逃げ込むために、意識を集中させた。
 彼の呼吸が穏やかに深くなり、険しかった表情が少しずつ緩んできたころ、マルーは汗に濡れた金の髪を額から持ち上げて、その寝顔を見守った。
「――もう、心配させないでよ」
 思わずのように呟いて、マルーがため息をつく。彼女は必死に取り繕っていたけれど、バルトが負傷して帰艦した時から、一瞬たりとも緊張が解けず、眠るなんて言語道断。高熱にうなされる彼の枕辺で、ありとあらゆる祈りの文句を唱え続けた。
 ようやく峠を越したとはいえ、まだまだ気は抜けない。マルーは再びにじみ始めたバルトの汗をぬぐうべく、手桶の中にひたしていた布を絞ると、そっと彼の顔へと手を伸ばした。
 その時、眠っていたはずの彼の手が、思いがけない速さで彼女のそれを掴んだ。
「……いいから、おまえも寝ろ」
「わか……」
「……俺は、どこにも行かねぇから」
 かすれた彼の囁きに、マルーは熱いものを飲み込むように息を止め、それからゆるゆるとほほ笑む。
「――……うん、わかったよ」
 バルトにつかまれた手をそっと外し、そのかわりやわらかくそれを握る。わずかに怯んだような彼の閉ざされたまぶたに、願いを込めるようなくちづけを落とした。
「一緒に、寝ようね」
「――……」
 ピクリと震えた金の睫毛は、けれど開かれることなく沈黙する。先ほどよりも赤くなったような彼のほほを優しくぬぐい、マルーはそっと彼の傍らに頭を寄せた。
 発熱する熱い身体に寄り添って、決して離すまいと手を握るマルーは、世界で一番安心できる場所でいつの間にか眠りに落ちていく。
 次に目覚めた時、きっとこの手は繋がれたままだと確信しながら。





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