あなたがわたしにふれた22のはなし
◆恐怖と愛撫◆
視線が、痛い。
部屋の隅に設えられた掃き出し窓の傍らに立ち、影のように存在感を消している男は、確かに歴戦の戦士らしく、完全にその気配を断っている。太陽が地平の彼方に溶け落ちようとするこの時間、薄闇の浸食した室内では、なおのこと目立たない。
けれど、彼女には。痛いほどに感じる肌の刺激、その視線に焼かれてでもいるような感覚に全身を蝕まれ、忘れることなど到底できるわけがない。
「――以上が、本日のご報告でございます」
落ち着いた声音で、古参シスターがそう結ぶ。その正面の執務机に座り、まだ生乾きの髪をひとまとめにして、常よりも一回りちいさくなったような頼りない印象の彼女が、すがるようにまなざしを上げた。
シスターの報告が終わってしまったら、向き合わなければならない。
部屋の隅から炎のような視線を向けてくる、彼――怒れる恋人と。
必死に訴える彼女の視線を受けて、幼少のころから彼女を扶育していたこころ優しい古参シスターは、わずかに逡巡する様子を見せた。けれど、彼女は慈悲深い反面、幼い主君を是々非々で導く使命を身に刻んでいる。厳しいけれど澄んだまなざしで彼女を見つめ返し、静かに一礼した。
「……それでは、わたくしはこれで失礼いたします。大教母様におかれましては、お大事にお過ごしください」
「――……はい」
元より、シスターが救ってくれるとは思っていなかった。なにしろ、彼女は古参シスターの諫言を愚かにも退けて、軽率な行動をとってしまったのだ。――怒れる彼と一緒になって彼女をぎゅうぎゅうに絞らないだけでも、十分に優しいといえる。
観念したように項垂れる彼女を一瞥し、古参シスターは静かに踵を返した。途中、部屋の隅にたたずむ彼の方へちらと視線をやり、けれどもなにも言わず黙って部屋を出る。いまさらなにを言ったとて、彼の怒りを鎮められるとは思えなかった。
唯一、彼をなだめ、怒りと見まごうほどのこころの痛みを癒せるのは、世界中にただひとりと心得ていた。
ふたりきりになった室内に、やがて窓から差し込んでいた西日が儚くも消え去ると、完全な闇が訪れる。その間、一言も発さない彼からの重圧に耐えかねて、彼女は恐る恐る席を立ち、電飾のスイッチの方へと歩を進めようとした。
「止まれ」
「っ」
一歩踏み出したその足が、端的な低い声によって地面に縫い付けられる。喉が干上がるような恐怖心に、彼女の全身が震えた。暴力や恫喝によって害されることなど毛ほども案じていないのに、ただ一言命じられただけで、魂から囚われてしまう。
棒のように突っ立ったままの彼女の方へ、彼がゆっくりと近づいていった。
すぐ傍らまで来たその視線は、相変わらず鋭く強く、生き物のように彼女の身体を這い上る。静かな動作で彼が動き、彼女の湿った髪の先をつまんだ。茶褐色のやわらかなそれは、先ほどまで芯から冷える湖の水をかぶっていた。――全身の体温を奪われ、蝋人形のように真っ白に変わった肌と、青白く染まっていたくちびるは、いまはもう湯浴みによってあたためられて、生きた色を取り戻している。
それを確かめるように、彼のおおきな手のひらが彼女のほほからくちびるをゆっくりと撫であげた。その肌の感触に、こわばっていた彼女の身体が徐々に力を抜き、安らいでいく。どれほどに恐ろしく怒りを向けられようとも、この手にふれられれば容易く溶けてしまう。
その隙に乗じてか、彼は思いがけない速さで彼女の身体を横抱きに抱えた。無造作で迷いのない動きで踵を返すと、そのちいさな身体をソファの上に放り投げる。
スプリングのきいた上質なソファは、彼女の体重を難なく受け止めて軽く跳ね返した。驚きと衝撃に声も出せずにいた彼女は、次に自分の足を掴む彼の手の感触にようやく悲鳴を上げる。
「ちょっ……若!」
「うるせえ」
獣が唸るような声で呟くと、彼は細くしなやかな彼女の右足首を掴み、ぞんざいに持ち上げた。薄い素材のワンピースはその動きに合わせて当然まくれあがり、極めて不適切な部分までなめらかな肌がさらされた。あまりの羞恥に、彼女が涙声になる。
「や、やだぁ、っ……」
しかるべく手を伸ばし、スカートで肌を隠そうとする慎ましさなど歯牙にもかけず、彼はじっくりと検分するようにその白い足首を凝視する。鼻先に持ち上げたそこには、いまはもうどんな傷跡も見当たらず、彼にしてみればおもちゃのようにも思えるちいさな足のつま先までも、ただひたすらに白くうつくしい。
「――っご……ごめんなさい、若……心配かけてごめん……」
その時、震える声で彼女が謝罪した。彼が冷たく視線を向けると、羞恥と後悔に青白く色を失った恋人が、茶褐色の湿った髪をソファに遊ばせて、潤んだ瞳を向けている。
いつもならば無条件に甘やかしてやりたくなる心細げな風情に、けれど彼は仮面のように静かで高慢な無表情を返した。
「――お前が飛び込む必要、なかった」
静かな言葉に、彼女はわずかに震える唇をゆっくりと開いた。
「……そう、だけど……あの時、なにも考えられなくて、気がついたら体が動いてたんだ……」
「なんのための護衛だ。お前につけた一ダースの僧兵はただの飾りか」
「……ごめんなさい……」
切り込むような鋭い問いに、何も反論できずにただうつむく。心底反省しているような健気な様子に、彼のまなざしがようやく少し、和らいだように見えた。
「……冬の湖に飛び込んで、無事で済んだのは奇跡だ。……お前も、お前が助けたあのガキも」
「……うん」
諭すような声音に頷いて、彼女は静かに目を閉じた。瞼の裏には、彼女の姿をひと目見ようと無茶な姿勢で桟橋に立ったニサン正教信者の少年が、湖に落ちていく光景がいまでも鮮明に浮かんでくる。
その瞬間、本当になんの躊躇もなく助けに走ってしまった、自分の姿も。
――――大教母様ッ!!
突然の国主の狂態に、その場は地獄のように混乱した。何人もの護衛が、シスターが、大教母という国の宝を助けるために湖へと飛び込んだ。その結果、少年を救出するために命を危険にさらした人間が何重にも膨れ上がった最悪の結果を招いた。
そのことを思い、彼女はこころの底から反省し、我が身を罵った。その身に負った責任と人命の重みを、改めて噛みしめる。折悪しく――否、折よく来訪していた恋人の激怒も、当然のこととすべて受け入れていた。
そんな彼女の殊勝さに、彼は計りがたいまなざしを向けた。素直に反省し、おのれの軽率さで巻き込む人命の重みに改めて喘ぐ彼女を許したいと思うこころと、慰めたいと願うこころ――けれど、拭いきれず内在する、彼女を喪うかもしれなかった恐怖と絶望。
荒れ狂う二律背反に苦しむ彼は、血の通う彼女の暖かな肌に触れなければなにをしでかすかわからない我が身に従った。
「……っ」
少年を助ける際に負った切り傷の名残を追うように、彼のくちびるがその足を滑る。高く上げられた右足は、彼の肩先にかかとをつけた体勢で強く戒められていた。スカートは腰までたくし上げられ、しなやかな太腿のラインが隠しようもなくさらされている。
ソファの上で仰向けにされた彼女の足の間に片膝をつく彼は、ゆっくりと動いた。ぴんと張った彼女のアキレス腱をついばみ、舌先をくるぶしで遊ばせる。そのたびに、彼女の足はなめらかな楽器のように震えた。
「――わか……」
華奢な腓骨に添うようにくちづけを続ける彼に、彼女がたまらなく声を上げる。針のように細い碧玉の瞳が窺うと、宵闇に沈んだ白い顔が熱に浮かされたような表情でこちらを仰ぎ見ていた。潤んだまなざしと熱い吐息をこぼすくちびるが、これ以上は待てぬと無言で希う。
さしあたっての嗜虐心が満たされた彼は、まぶしいほどに白い彼女の足の甲にくちづけながら、彼女の望みを叶えるべくその手を伸ばした。