あなたがわたしにふれた22のはなし
◆痛いほどの◆
空一面を覆う黒い雲。この国で一番空に近い場所は、晴天ならばどこまでも広がる美しい蒼に包まれる最高のロケーションだが、ひとたび天気が崩れると、すぐ傍にある雷雲がまるで地獄の入り口のような、本能的な恐怖すら呼び起こす。
だから、荒天の時はほとんど誰も、好き好んでここ――ニサン聖堂の天辺近くにある、この国で最も高いだろう場所――には来ない。
来るとすれば、それを知っている者だけ。
ひと目を忍ぶ必要のある、たとえばいまの――マルーのような。
「…………」
バルコニーに続く大窓の桟にちょこんと腰をおろして、マルーは膝を抱えて空を見ていた。いまにも底が抜けそうな、どんよりとした雲。そのうちにぽつぽつと雫が落ちてきて、見る間にこの国を覆っていくだろう。
四季の移ろいのある緑豊かなニサン法王府にとって、いまは大地の潤う大切な雨の季節――そのこと自体は喜ばしい大自然の営みだけれど、マルーにとっては少しだけ、厄介な時期でもあった。
「――……、痛……」
公務のない日に着る、簡素なワンピースの裾からのぞく白いふくらはぎに手を伸ばして、マルーはちいさくため息をついた。
いまはもう、ほとんど目立たない傷跡。数年前、大切なものを護るために負ったその傷は、戦う力を持ち得ない非力な彼女にとって、何物にも代えがたい勲章だ。
――たとえそれで、大切な者を深く哀しませていたとしても。
「……」
この傷を、彼はとても悔いている。言葉にも態度にも出さないけれど、マルーは肌で感じ取っていた。マルーが傷つくことを、なによりも誰よりも恐れる従兄。ちいさなころからまるで信仰のように、彼女のことを護り続けてきた、恋人。
だから彼の前では、決してこの傷のことを思い出させるような真似はできない――したくない。
……と、思っていたのに。
「……マルー」
だいぶ前から、石回廊を渡ってくる独特の足音が届いていた。彼のブーツが奏でる音に、マルーの心臓はだんだんと熱を帯び、どうして、とか、まさか、とか、そういう感情が芽生える前に、こころはすでに喜んでいた。
顔を上げ、声のした方へ向くと同時に、おおきな窓へと叩きつけるように雨が弾ける。
そして、雷鳴が。
「若……」
稲妻の嘶きに、マルーの言葉がかき消える。彼女の方へと足早にやって来たバルトは、湿った金の髪からちいさな雫をこぼしながら手を伸ばした。
「なにやってんだ……こんなとこで……」
激しい雨の音が、ふたりの会話を妨げる。バルトが伸ばしたてのひらが、マルーのほほを包み込むと同時に、マルーの伸ばしたてのひらも、湿った彼の髪を撫でる。
「若こそ……どして、ここに……?」
「あー……時間ができたもんだから、ちょっと寄ったんだが」
ここ来る前に、郊外でひと雨降られた。そう言って犬のように首を振り雫を飛ばす彼を見上げて、マルーがくすくすと笑う。
「――アヴェからここまで『ちょっと』の距離なの?」
「……視察のついでだよ、ついで」
うそぶくように言いながらも、バルトの手のひらがゆっくりとマルーの前髪をかき上げる。彼女のまろい額から頬にかけて、薄暗がりでもはっきりとわかる血色の悪さを見てとって、凛々しい眉根が寄せられた。
「――具合、悪いのか」
「あ、ううん……違うよ、だいじょう……」
反射的に首を振って笑おうとした瞬間、古傷が抗議するようにずきんと痛む。まるで、彼に対する欺きを責めるようなおのれの身体に、マルーは思わず眉をしかめた。
そのわずかな反応を見てとって、バルトが素早く視線を下げた。窓の桟に膝を立てて座る、彼女の細いなめらかなふくらはぎを、確信を持った瞳で見つめる。
「――若、」
慌ててスカートの裾で隠そうとするより早く、バルトのおおきな手のひらがマルーのふくらはぎを掴んだ。ひんやりと冷たい雨の空気にさらされていたそこは、おおきくて暖かな手のひらに覆われると、うめき声があがるほど心地よく、マルーは無意識のうちに詰めていた息を吐く。
硬くてごつごつとした手は、恐ろしいほど正確に傷跡を覆っていた。もう何年もまともに目にしていないのに、ほとんど消えかけた傷の位置を、彼は忘れていなかった。
そのぬくもりは魔法のように痛みを和らげ、マルーは白い顔をうつむかせて笑った。
「……ありがとう、若」
「……いつもか」
「え?」
「いつも、雨の日は痛むか」
その静かな問いかけに、マルーは口をつぐむ。肯定するのは弱さの証のようで、けれど否定するのは彼を欺くことだ。無言でいる彼女の傍らに立っていたバルトは、そのまま静かに膝を折った。
跪き、彼女の足に手をあてたまま視線を低くしたバルトは、わずかに目を瞠ったマルーの眼前で、ゆっくりと身を折った。
「――!」
手のひらをあてていた白い肌に、バルトが触れるか触れないかのくちづけを落とす。彼の湿った金の髪がふくらはぎをくすぐり、その微妙な感触にマルーの鼓動が跳ね上がった。
驚きと羞恥に言葉が出ないマルーの前で、バルトは普段の彼からは信じられないほど繊細な仕草でくちびるを離すと、再びそのおおきな手のひらで傷跡を包む。
言葉では表せないそのにじむような愛の仕草に、マルーは思わず彼の首に抱きついていた。
「――……ごめん、ごめんね、……若」
「……謝るな」
こころからそう言って、バルトはマルーを抱きしめる。マルーはちいさな顔を彼の首筋にうずめて、その手のひらを背中に回した。
かつて、自分を護って傷ついたそこを、いま彼がしてくれたように、癒してあげたい。互いが互いに感じている、この複雑で痛いほどの愛で、それぞれの傷を消し去ってしまえればいいのに。
こころからそう願いながら、マルーはバルトのおおきな身体を、すがるように、護るように抱きしめていた。