あなたがわたしにふれた22のはなし




 探していた人物をやっと見つけて、マルーは嬉しげにほほ笑んだ。
「若」
 心地よい風の通るバルコニー。眼下にニサンの町並みを一望できるそこは、ニサン聖堂の天辺近くにある、この国で最も高いだろう場所。
 特段高所恐怖症というわけではないけれど、それでも足が竦みそうになるマルーとは違い、バルトはなんの気負いもないような様子で、手すりに背中を預けていた。
「探したよ、なんでこんなところにいるのさ」
 しっかりした大理石の床と、バルトの胸ほどもある高さの太い手すりに守られているとはいえ、岩城の上空は風も強く、バランスをとるのも一苦労だ。マルーは普段の装いとは違う大教母用の執務服のすそを押さえながら、そろそろと従兄へ近づいた。
「……天気が良かったからさ」
 ぐっと顎をそらして高い空を仰ぎながら、バルトが呟く。彼の傍らまでやってきたマルーは、眼下に広がる空と国を見つめた。
「そうだね、いいお天気。このぶんだと、砂嵐の心配もない……かな」
 緑豊かなニサンの街の、はるか遠くにうっすらと広がる金の砂漠。あの向こうに、彼の戻るべき場所がある。
 刻一刻と近づく別れの時を意識しながら、けれどもマルーはことさらに明るい声で続けた。
「結局、一番最後になっちゃったね、若たちがアヴェに帰るの」
「まぁな。それぞれの落ち着く先を確かめてからじゃねーと」
 当たり前のようにそんなことを言って、どこまでも苦労性の戦艦艦長は長い金の髪を気持ちよさそうに風に揺らしながら仰向いている。
「……これから大変だけど、でもきっとだいじょうぶ。みんな、ひとりじゃないもんね」
 滅亡に瀕していた世界は、さまざまなものを失った。けれど、残されたものもたくさんある。人々はいままで以上に手を取り合って、きっと復興を果たせるだろう。
 希望を胸に刻み込むようなマルーの言葉に、バルトはなにも言わず空を見つめている。その沈黙に、マルーはふとなにか違和感のようなものを感じて、そっと従兄を仰ぎ見た。
 手すりに背中を預けて、無防備に喉をさらすバルトの横顔は、こちらの角度からだと眼帯が邪魔をして表情が読めない。引き結ばれたくちびると、尖った顎の線から隆起した喉仏までが、見慣れているはずなのに見知らぬ男のように見えて、マルーは思わずその手を伸ばした。
「……どうした?」
 掴んだ太い腕は熱く、確かに彼が生きていることにほっとする。マルーの華奢な手のひらでは指も回らないそれに、彼女はすがるように力を込めた。
「わ……若も、シグや爺や、みんなを困らせたらだめだよ?」
 必死にいつも通りを装って、小生意気な口調でからかうマルーを見下ろして、バルトの碧眼がそっと細くなる。その大人びた表情になおさら焦って、マルーは考えもなしにしゃべり続けた。
「これから、ボクたちふたりとも忙しくなるね。アヴェもニサンもボロボロになってるし……まずは、国民を集めて生活の立て直しを考えなきゃ。ウェルス問題もあるし、キスレブやシェバトとの連携も整えなきゃだし、やることは山積みだよね。みんなの力を借りながら、ボクもがんばるよ……」
 機関銃のようなマルーの言葉は、次の瞬間ニサンの風にさらわれた。吹き付けられたそれが、バルトの金の髪をすくい上げ、マルーの視界にきらきらとした光が散らばる。
 同じ風がマルーの棗の髪もさらい、彼女のおおきな瞳を覆った。思わず目を瞑り、振り払おうとした華奢な手首は、けれども熱いてのひらにつかまれて止まった。
「わか……」
 なにかを言おうとしたマルーのくちびるが、熱いものに押しあてられる。それは固く、懐かしい香りがして、自分の両肩を包み込む鋼のような強さも、息ができないほどしめつけられる苦しさも、なにもかもが恐ろしいほどに胸を満たした。
 目を開けると、浅黒い腕がある。バルトの熱い鼓動が、直接ほほに響いていた。それでようやく、抱きしめられていることに気づいたマルーは、驚くよりも先に、安堵で涙が出そうになった。
「……あんま、しゃかりきになんじゃねーぞ」
 おおきな手のひらが、マルーの後頭部を包んでいる。その声は、押しつけられた彼の胸から直接響いてきた。マルーは全身全霊を彼の身体に預けたまま、なんの不安もなく笑った。
「だいじょうぶだよ。若もね?」
「俺はいいんだよ。そんなヤワじゃねえ」
「ボクだってヤワじゃないよ」
「いーや。おまえは無理して突っ走り過ぎんだよ」
「それ、そっくりそのまま返すから!」
 鼓動が重なるほど密着しているのに、ふたりの間に流れる空気はどこまでも家族のようにやわらかい。マルーはようやく自由になった腕を思い切り伸ばして、バルトの背中をしめつけた。
「……若がどうしても辛くなったら、ボクが飛んでってあげる」
「……そうかよ」
「砂漠を越えて、誰よりも早く駆け付けるよ」
「頼もしいな」
「もちろん! だってボクは、若の一番の子分なんだから……」
 そこまで言いかけた時、不意にマルーの身体に自由が戻った。火のように熱かった彼の胸から顔を離されて、苦しかった胸が新鮮な空気で満たされると、くしゃくしゃになった前髪の先で、従兄がこちらを見下ろしていた。
 見たことのない表情の彼に、マルーが思わず目を見開くと同時に、彼女の両ほほはおおきな手のひらに包み込まれた。そしてそのまま、すこしだけかさついた彼のくちびるが、乱れた前髪の隙間をぬってマルーの額にそっと触れていく。
「――……」
 熱いものを刻まれたように、額がじんじんとしびれる。マルーはわななくくちびるを開いて、かすれる声で囁いた。
「……おまじない、だね?」
「……ガキの頃のな」
 遠い昔、離れ離れになるたびに、お互いがお互いのぬくもりを求めてかわした大切な儀式。
「……かがんでよ、若」
 泣き笑いのようにねだるマルーの言葉に、バルトは少しだけ不機嫌そうな照れ隠しの表情で、そっと膝を折ってみせた。
 すぐ目の前に迫ったバルトの隻眼を見つめてから、マルーは一生懸命かかとを上げる。くちびるが彼の額に触れる直前、ちいさく囁いた。
「――命ある限り若を想うボクの魂が、きっとあなたを護りますように」
 彼女の祈りは、バルトの耳に届く前に、ニサンの風にさらわれていった。




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