あなたがわたしにふれた22のはなし
◆To swear◆
――だから、いまこの瞬間から俺の恋人に戻ってくれ
耳に落とされた熱い囁き。誰もいない大教母の控えの間で、手首のやわらかな皮膚に吸い付くようにくちづけされていると、そのあまりの背徳感にめまいを感じる。
落ち着いた内装の控えの間は、徹頭徹尾ストイックな部屋だ。礼拝前の精神統一を行う場でもあるため、ちいさな明り取りの小窓が天井付近にある以外、採光も抑えられているので昼でも薄暗い。
部屋の中央には、簡素な設えのテーブルと椅子が二脚。木製のテーブルの中央には、一本のろうそくが立っている。その火影にバルトの金の髪が揺れていた。彼のおおきな体躯が光をふさぎ、見上げるその顔は陰影に翳っている。
じっとバルトの瞳を見つめていると、彼は眠たげに伏せたまぶたの奥からマルーを見返してくる。その間も、手首へのくちづけは止まる気配もなく、時おり滑らかな肌を這うように移動した。
そのたまらない感覚に、マルーは顔を上げていられなくなってうつむく。薄暗い控えの間でもわかるほど、鮮やかに紅潮する彼女の白いほほや耳を、バルトは確かめるようにひとしきり眺めてからようやく手首を離した。
それに、ほっとしたような猛烈に寂しいような、複雑なため息をつくマルーの身体が、不意に重力から解き放たれた。声を出す暇もなく宙に浮き、そして次に気づいた時にはバルトの腕の中。
彼は、マルーの体重など猫の仔一匹ほども感じていないような危なげない動きで彼女を横抱きにすると、そのまま踵を返して部屋を出ようとした。
「まっ、ちょっと待って若!」
白い大教母聖衣のすそをパタパタと足で揺らして、マルーが慌てた声を上げる。バルトは不思議そうな顔で彼女を見下ろした。
「なんだよ?」
「あのね……な、なんなのかな、この体勢は」
「横抱き?」
「いや、それはわかるんだけどそうじゃなくて」
「あ。お姫様抱っこの方がいいってか?」
「それ、同じだから! じゃなくってさ、ねえ、ちょっと降ろしてよ……この体勢で、まさか外に出るなんて言わないでしょ?」
じたばたと暴れても、なんの痛痒つうようも与えられない相手に、マルーは懇願するように問うた。けれどバルトは、なにを当然のことを聞いているのかと呆れたような顔をする。
「はあ? 外に出なきゃしょうがねぇだろ。ここにはベッドもソファもないんだぜ」
「いや、だからさ、出るなら降りるよ、歩くよ!」
なぜ彼がすぐにでもベッドやソファのある場所へ行きたがるのか、その答えは彼の唇が触れたことでじんじんとしびれるように熱い右手首が知っている気がして、マルーは真っ赤な顔で訴える。
マルーとバルトの親密さなど、論文が書けるほどに詳しく知り尽くしているシスターたち相手とはいえ、堂々と抱きかかえられて回廊を練り歩くのは恥ずかしすぎて耐えられない。そんなマルーの訴えに、バルトは少しだけ考えるふうに眉を寄せ、それからくるりと踵を返した。そのまま数歩の距離を歩くと、部屋の中央にある簡素な椅子に腰を下ろす。
彼のたくましい腿の上にちょこんとおさまってしまったマルーは、先ほどよりは近づいた地面に降りようと身をよじりかけて、鉄のように固い腕がそれを阻んでいるのに気づいた。自分の足で床に立つという簡単なことさえ、バルトの協力なしには叶わないこの不条理さに、呆れていいのか怒っていいのか咄嗟に判断がつかない。仕方なく、混乱したように眉を寄せた。
「あの……手を離してくれないと、降りられないよ」
「降ろす気はねぇよ」
「え?」
簡潔な答えにきょとんと目を丸くすると、バルトはマルーの足を支えていた方の腕を抜き、再び彼女の右手を掴んだ。
「降ろす気もねぇし、そんな顔色のおまえを歩かせる気もねぇ。口論してる時間がもったいねぇから、このまま少し寝ろ」
「えっ」
あたたかな手に手を握られて、初めて自分の指先が冷えきっていた事に気が付いた。早朝礼拝は慣れているとはいえ、ほとんど一昼夜の間睡眠も休息もなく続く緊張は、確実にマルーの心身を蝕んでいた。
けれども、その思いがけないバルトのいたわりの言葉に、恋人同士の甘い時間を望まれているとばかり思っていたマルーは絶句し、素直に全身を赤く染め上げる。
「……ン?」
自分の腕の中でどんどん体温を上げていくマルーと目が合うと、彼女は慌てたように視線を外した。その露骨な反応に、バルトはぴんときて笑う。
「――……ははぁ。大教母様は、休息よりも他のことがお望みでしたか……」
「ちっ、違うもん!」
「そうかそうか、そりゃあ、期待に応えられなくて悪かったな」
意地悪くからかうように笑う恋人に、マルーは羞恥のために涙目になりながらじたばたと暴れる。
「だっ、だって若が『恋人に戻れ』なんて言ったから…っ」
「ああ、そうだよ」
まだ楽しそうな笑みを残して、バルトは思いがけないほど優しいまなざしでマルーを見つめた。恥ずかしさに震えながらも、マルーははっとして口をつぐむ。バルトは暴れることをやめた彼女の右手をそっと持ち上げて、その透き通るほど白い手の甲へとくちびるを寄せた。
「――……『大教母』としてのマルーには、俺はなにもしてやれねぇ。どれほどお前が身を削ろうと、こころを砕こうと、『アヴェ王おれ』にしてやれることなんかいくらもない……この、冷えた指をあたためることすら、満足にできやしねぇんだ」
「わか……」
「だから……俺のわがままだ。お前を、一刻も早く『大教母』じゃなく『恋人』へ戻して、こうやって抱いてやりてぇって思うのは」
彼らしくもない直截な愛の囁きに、マルーは碧玉の瞳を透明な涙で潤ませた。
それから、指先まで固く引き締まったバルトの手を取り、まるで尊いものを捧げ持つように両手で掲げると、そっとまぶたを閉じてその甲へとくちづけを返した。
「――『大教母』のボクも『恋人』のボクも、どちらも若のものだ。たとえ触れられなくても、遠く離れていても、永遠に若だけのものだよ……」
その神聖な誓いに、バルトは一瞬ひどく怖いような表情でマルーを見つめた。捕食者のようなそれは、すぐに満たされない想いに苦悶する男の唸りとなり、腕の中で憩う恋人を切ない力で抱きしめる。
「――早く寝て、一刻も早く回復してくれ……」
泣き言のようなその低い呟きに、マルーはばら色に染まったほほで幸せそうに笑った。