あなたがわたしにふれた22のはなし
◆至聖を望みて◆
ニサン正教の敬虔な信徒たちは、週に一度開放される大聖堂に集い、こころのなぐさめと精神の平穏を祈りによって得ている。大聖堂に来ることが難しい者たちは、街の至るところに開かれた簡素な教会におもむき、彼らの生活にはごく自然な形で信仰が根付いていた。
それでもやはり、多くの信徒が大聖堂に詰めかけるのは、自分たちを護り導く清き大教母の姿をひと目見たいと願うため。その妙なる御声によって説かれる教義に触れ、今日の絶望を乗り越え、明日への希望を見つけるためだ。
それを重々承知しているから、マルーは週に一度のおのれの責務を、なによりも大切にしている。
ミサに臨む前日から、マルーの準備は始まっていた。魚肉を断ち禊を行い、深更を迎えるまで一心に祈りを捧げる。その冴えわたった神経のまま、まだ日も昇らない早朝から二度目の禊を行うと、火に触れない冷えた身をまっさらな大教母聖衣に包んで、暗く長い回廊を進む。
何百ものろうそくの灯りに照らされた大聖堂に、人々のひっそりとした気配が伝わる中、彼女は会衆席よりもだいぶ高い場所にある至聖所に身を置くと、集まったすべての人々に伝わるよう高らかに祈りの句を奏じる。すでにおのれの血肉になった聖句を、少しでも人々に届くよう、こころを込めて詠うたった。
人々はその教えに手を合わせ瞳を閉じ、声を合わせて聖歌を歌う。そっと涙を流す者、痛みを感じるように震える者、さまざまな境遇の人々が、それでもこころをひとつにし、マルーの言葉によって昨日よりも今日、今日よりも明日へと確実に命をつなげていく。
その日の早朝ミサには、常にも増して厳粛な空気が流れていた。
信徒の多くは知らないことだが、大教母が説法をする至聖所のちょうど対面にある、普段は開放されていない高処のバルコニーでは、隣国アヴェより来訪している王がひっそりと参列していた。そのため、彼を護衛する僧兵やシスターたちの緊張が伝わり、聖堂の空気がピンと張りつめているのだ。
自分がいることで及ぼされる過剰な影響をあまり快く思っていないバルトだったが、どうしてもと強請ったのは彼自身だ。混迷の復興期を支えるニサン正教大教母のミサを、彼はこの目で見てみたかった。
バルトの大切な従妹であり、かけがえのない恋人でもある娘は、普段の彼女からは想像もつかないほど厳かで清廉なオーラをまとい、何百もの信徒たちに教え説いている。言葉は易しく穏やかで、決して特別なものではない。時には、大教母にのみ口伝される特別な聖句をいまの時代に合わせてわかりやすく噛み砕いたり、決して慣例にばかりとらわれない柔軟な姿勢でさまざまな試行錯誤を重ねながら、常に信徒へ寄り添い、労わっていた。
この時ばかりは、自分の腕の中で囲い込むように大切に守ってきた従妹でも、全身で甘えるように憩うた恋人でもない、『大教母』という名の現人神となる娘を見つめながら、バルトはただ静かに祈っていた。
やがてミサは佳境を迎え、最後の聖句が唱えられる。何百という人々の想いが音となり風となり、大聖堂を震わせた。
マルーは白い手を掲げ、音に乗せられた祈りをすくい上げるように天を仰ぐ。彼女の全身が光り輝くような錯覚とともに、大聖堂のステンドグラスから曙の光が降り注いだ。
最後の聖句を唱え終え、マルーは閉じていた瞼をそっと開いた。自分を注視する人々のまなざしを真正面から受け止め、受け容れ、包み込む。齢二十歳に過ぎない若い娘の双肩に課せられたものの重さを正確に理解できるのは、きっと世界中で自分だけだとバルトは知っていた。
「――バルトロメイ陛下」
そっと、傍らに控えていたシスターアグネスが声をかける。バルトは軽く頷くと、至聖所から下がってゆくマルーの姿を目の端に留めてから、踵を返した。
かすかにざわめく聖堂を背に、シスターの先導で大教母の控えの間へと向かうと、ちょうど反対側からこちらへやって来るマルーを見つけた。白い聖衣に身を包んだ彼女は、不思議なことに普段よりも何倍もおおきな存在に見えた。
「――マルー」
回廊の端から、思わず声を上げる。マルーははっと顔を上げ、バルトの姿を見つけると、穏やかにほほ笑んだ。
「……若。来ていたの?」
その仮面のようにうつくしい笑顔に、バルトは少しだけ眉を寄せる。けれど一瞬の反応を素早くぬぐい去ると、足早に近づいていった。
「……ああ。昨夜から、な」
「そう……ごめんね、お出迎えも出来なくて」
「当たり前だろ。そんなこと気にすんな」
控室の扉をマルーのために開けてやると、彼女は感謝の笑みを向けて進む。バルトはちらりとシスターアグネスに目を配り、忠実な古参シスターは心得たようにその扉を閉めた。
ふたりだけになった部屋の中で、マルーが思わずのように息をつく。清らかな大教母聖衣を着た彼女は、その瞬間まるでちいさな少女のように頼りなげに見えた。
「……お疲れさん」
ポン、と軽く頭を撫でると、彼女は穏やかなまなざしで遠くを見つめるように呟く。
「——ううん、全然疲れてないよ。それよりも、『大教母』として、ちゃんと……少しでも力になれていたらいいんだけど……」
ここではないどこかを覗き込み、永遠に解けない迷路をさまようようなマルーの囁きに、バルトは瞼を伏せた。それから彼女の右手を掴むと、ゆっくりと屈んで、細い骨の浮いた指の付け根へとくちびるを寄せる。
「……大教母。貴女の想いは確実に、みなのこころへ届いていた。心配はいらない」
「……若?」
その洗練された仕草に、マルーが驚いたように目を丸くする。バルトはそれを薄目で見やると、今度はその手をくるりと返し、青い血管の透けて見える白い手首へとくちびるを寄せた。
先ほどとは違い、今度はまるで愛撫するようにちらりと舌先が躍り、吸い付くようなそのくちづけにマルーの全身がピクリと震える。一瞬で赤く染まった彼女の首筋から顔中を、バルトは満足そうに確認してから呟いた。
「――だから、いまこの瞬間から、俺の恋人に戻ってくれ」
「……うん」
彼の蒼い瞳の先で、マルーは一切の重荷から解放されたような満ち足りた笑顔を浮かべて頷いた。