あなたがわたしにふれた22のはなし
◆予約済み◆
執務室を出ると、日はとっぷりと傾いていた。
「やべぇ……」
ごくごくちいさく呟いて、バルトは足早に回廊を急ぐ。本来の予定は押しに押され、ほんのわずかな時間顔を合わせた後、ほとんどすべての約束を破ってしまった。
長い旅路の末、マルーがアヴェ城に到着したのはまだ日が高い時分。ニサン正教大教母の公式訪問を、アヴェ国国王が正式に歓迎する体の再会は肩が凝るもので、けれど国のトップ同士ならば避けて通ることは出来ない。上っ面ばかり取り繕った他人行儀な時間は、会えない日々よりもかえってキツかった。
けれども、そんな不毛なスケジュールを乗り越えて、やっとふたりきりになれると思った矢先、国の大事にかかわる案件が持ち上がり、アヴェ国の元首は泣く泣く公的な場へと戻ることになった。大した件ではないとタカをくくり、夕食をともに、と約束を取り付けた時、彼女ははにかむように笑ってくれた。
その笑顔だけを胸にたたみ、耐え忍ぶこと約六時間。――いま彼は、ほとんど全速力で城の回廊を走っていた。
賓客を遇する別棟の警備兵たちは、自分たちの戴く偉大な王が一心不乱で駆け抜けていく様を、遅れて跪きながら為す術なく見送った。
やがてたどり着いた最も厳かな貴賓室の扉の前で、バルトはようやく立ち止まる。上がった息を整えるのもそこそこに、深夜の訪問に相応しい礼儀を奇跡的に思い出して、扉を静かに殴打した。
「――はい」
やわらかなマルーの声に、彼はほっと息をつく。
「……俺だ、マルー」
我ながら脅えたような声音だ、と思う。戦艦暮らしだったころは様々な雑事に追われ、マルーとの約束を破ってしまうことなどザラにあった。そのたびに謝ってはきたが、基本的に彼女はバルトの忙しさには寛容で、むしろ彼が自分よりも他を優先することを望む節すらあった。
けれどそれは、『いとこ同士』だったころの話。
いまはきっと、最大限に彼女を優先しても、許される立場――に、近づいていると思いたい。
立ちすくむバルトの眼前で、扉がかちゃりと開かれた。ほっとしたバルトが視線を向けた先に立っていたのは、昼間別れた時のマルーとは、まるで別人のような彼女だった。
「遅いよ、若」
咎めるようにうそぶきながらも、口ぶりは軽く、表情に一片の怒気もない。悪戯っぽくバルトを見上げる碧玉の瞳はきらきらと輝き、思わず吸い寄せられるほど美しかった。
けれど、いまのバルトには彼女の瞳よりも、もっと切実に目を吸い寄せられるものがある。
ほとんどなにも考えることもできず、彼は本能の命ずるままに彼女の肩を掴んで、強引に部屋の中へと押し入った。
「え、えっ? なに、どうしたの?」
突然のバルトの奇行に、マルーは本気で驚いたように声を上げた。もちろん、彼を部屋に招き入れるつもりで扉を開いたのだから、入ってもらうことになんの問題もないのに、なにをそんなに慌てているのか。
「おまえ、なんてカッコしてんだよ!」
「へ?」
部屋に入るなり、バルトがややうわずった声を上げるのに、マルーは一瞬目を点にしてから、ようやく合点がいく。それから少しだけ恥じらうように、くるりとその場で一回転してみせた。
「これ、明日の晩餐のために、アグネスが用意してくれたお衣裳だよ。ちょうどいま、念のために試着してたんだ」
「アグネスが? なに考えてんだあの聖職者!」
「なにをそんなにカッカしてるのさ。……ボクにしては珍しく、女の子らしい格好してるから、似合わないってこと?」
つんと唇を尖らせるマルーが言う『女の子らしい格好』は、オーロラのような光沢のある淡いオレンジ色の生地に、精緻な刺繍が施されているイブニングドレスだった。本来聖職者であるマルーがこのような華やかな装いをすることは少ないが、他国の晩餐に出席する正装としてはこれ以上望ましいものはない。
もちろん、過剰な露出は控えた非常に品の良いデザインだった。生来マルーの持つ健康的な愛らしさと、少女期の終わりに訪れる眼を奪われるような清廉な美しさを十分に引き立るそれは、流れるようなラインのスカートの先に至るまで、文句のつけようもなくマルーに似合っていた。
けれど。
「――肩も胸も、出し過ぎなんだよ!」
普段は隠されている陶器のように滑らかな肌にあてられたのか、バルトは浅黒いほほを染めて怒鳴った。マルーはぽかんと目と口を開け、それから自分の装いを改めて見やる。
確かに、肩は出ている。オフショルダーなのだから当たり前だ。胸は……デコルテラインはきれいに出てはいるが、それを『出し過ぎ』といわれると、ドレス全体のバランスが崩れてしまう。
そんなような『女の事情』を切々と訴えても、きっとこの直情径行の従兄……もとい、恋人には通じないだろう。それに、一番見せたかった相手は彼なのだから、その相手が『否』というならば、このドレスは相応しくないのだ。
そう思い、予備に持ってきていたいかにも聖職者らしいおとなしめの衣装を頭に浮かべながらも、昔ではありえなかった類の気恥ずかしい意思表示に堪えているらしいバルトに対し、ちょっとした悪戯心がわいてきた。
「でも、このくらい肌が出てないと、正装には向いてないってアグネスが言ってたよ。ボクなんかの肩とか胸とか、そんなの誰も見てないから大丈夫だってば」
「…………」
その言葉に、泳いでいたバルトの片粒の碧玉がずんと明度を下げる。据わったような彼のまなざしの先で、マルーは思わず固まってしまった。
そんな彼女の肩を引き寄せ、バルトはまるで肉食獣が獲物に襲いかかるような速さで胸元に顔を寄せた。
「えっ、きゃあ、わかっ!」
ふっくらとした肌の、ドレスで隠れるか隠れないかのきわどい位置に、バルトのくちびるが吸い付く。あまりのことに硬直したマルーが、ほとんど息もできずにいたその数秒の後、彼は彼女の白い肌に刻まれたえげつないほど赤い印を満足そうに見下ろして、まさに王者の風格で宣った。
「これを見せつけるつもりなら、いいぜ」
むしろその方が気分がいい。蛮族のような笑みを浮かべる恋人を見上げ、手折られた乙女のごとく真っ赤な顔で震えるマルーに、とっさに言い返せる言葉はなかった。