あなたがわたしにふれた22のはなし
ギアハンガーの片隅にある、鞭の修練場所。
初めてその武器を手にした幼い時分から、暇さえあればそこにこもって技の習得に明け暮れた。
それは成り行き上仲間と呼べる者たちに出会い、自分の都合や相手の都合、運命的ななにかに導かれるように実践を重ねているいまでも変わらず、バルトはその日も通い慣れた場所へと向かい、ひとしきり汗を流していた。
「……っし、こんなもんか」
一列に並んだ何十本ものろうそくの火を、ろうにはかすりもせず鞭の先で一気に打ち消すと、鋭い切っ先をまるで自分の手足のごとく操る感覚に満足してバルトが呟く。この修練法は、一日さぼればすぐに鈍ってしまい、そのツケを返すのに何日もかかるもので、さしものバルトも真面目に日課としているものだった。
十分な有酸素運動の後の、心地よい疲労感と内にこもる熱気に、着ていたシャツで汗をぬぐいながらため息をついた。ユグドラシルの管理された気温では、火照る身体を冷ますことは難しい。
片手に愛鞭を携えて、自室へと向かった。共同の大浴場よりも、簡易なシャワーでいいので早く湯を浴びたい。部屋につき、艦長権限で優遇された専用のシャワールームに飛び込んでさっぱりと汗を流すと、見違えるように気分がよくなった。
下の服だけをしぶしぶ身につけ、バルトは鍛え抜かれた上半身に水滴をまとわせたまま、金の髪をガシガシと拭ってシャワールームを後にする。歩く端から床が濡れるのにもかまわず、用意していた細い水の瓶に口をつけた。
大きな音を立てて喉が上下し、失われていた水分に身体が満足するのを感じていると、不意にチャイムが鳴った。瓶から口を離し、バルトは無頓着に返事をする。
「開いてるぜ」
相変わらずの肉声に、慣れているのか来訪者はすぐに反応した。プシュッという音とともに開かれた自動扉の先に、ちいさな少女が立っている。その手には、氷の入った美しいコバルトブルーのグラスが握られていた。
「わっ!」
ぱちくりと目を見開いた先に、半裸の男が立っていれば、思わず出して当然という声を上げた従妹に、バルトは鼻白んだように振り返った。
「――なんだよ、真昼間っから痴女かぁ?」
「あのねぇ、そーゆー言いがかりをつけるんなら、気安く『開いてるぜ』なんて返さないでよね。自分で許可しといて、なに言ってんのさ、ったく」
ぷりぷりと怒った口調で言いながらも、マルーは構わず部屋に入ってきた。ちいさなころからともに育った従兄の半裸くらい、大げさに騒ぐほどのことじゃないですよ……という顔をしつつ、先ほどとっさに出てしまった驚きの叫びがいまさらに悔しい。
そんなマルーの様子に、バルトはにやにやとからかうように笑いながら、賢明にも口を開くことはなかった。
「あ、もー。床びっちょびちょじゃん!」
目ざとく気づき、マルーは手にしたグラスをテーブルに乗せるとモップを取りに行く。シャワールームの脇に備えたそれを手に取ると、手早く水滴を拭き取っていった。
バルトはそれを横目に、マルーの持ってきたグラスに手を伸ばした。さわやかなレモンの香りがするそれは、メイソン卿お手製のスポーツドリンクだった。
「サンキュ」
「どういたしまして――爺にも言っといてね」
軽く礼を言うバルトに、マルーも軽く答える。それから、まだ水滴の残る彼の金の髪や上半身を眺めて、やれやれと肩をすくめた。
「ほら、ここ座って。髪拭いてあげる」
「いいよ、別に。ほっときゃ乾くだろ」
「その前に風邪ひいちゃうでしょ。ダメダメ、ちゃんと拭かなきゃ。はい、座って」
まるで母親か姉のような振る舞いに、バルトは内心鼻白みながらも面倒くさそうに従った。どんな理由であれ、マルーが自分に構うのは悪い気がしない。
背もたれのないスツールに腰かけて、タオルを頭にかぶった状態で背を向けるバルトの背後に立ち、マルーが丁寧な手つきで金の髪を一束一束ゆっくり乾かしていく。みつあみの名残で波打つそれは、まるで金の海原のように豊かで美しかった。
「いいなあ、若は……きれいな金の髪」
「そっか? 俺は色なんざどうでもいいけど……」
「確か……マリエル伯母上様が、金の髪をしてらしたよね」
「ん……そうだな。親父は銀だったしな……」
「ボクの髪は、パパの色なんだよねぇ……」
「そうだっけ。ああ、そうだった。いいじゃねえか、その色」
「うぅん……」
茶色の髪も決して嫌いではないけれど、やっぱり金とか銀とかに憧れる。そんな、らしくない乙女チックな感想を飲み込んで、マルーはだんだんと乾いてきたバルトの髪を一つにまとめた。
「…………」
すると目に飛び込んでくる、広い背中の一面に刻まれた傷跡。見慣れた……けれど決して心穏やかではいられないそれに、マルーはしばし目を奪われる。
そんな従妹の様子に気づいてか、バルトはわざとおおきく声を上げた。
「あ! そういえば、このあとシグに呼ばれてたんだった。マルー、着替えるから離してくれよ」
「――ああ、うん。あ、待って、髪結ってあげる」
そう言って、金の髪をつかんで離さないマルーに、バルトは仕方なく頷く。器用に髪をすいていく細い指の感触が、なんだかんだと強く断れなくさせているのに、気づかないふりをしながら。
マルーの指で、バルトの髪が整えられていく。いつものみつあみに結い上げて、最後にゴムで括ろうと傍らのテーブルに手を伸ばす途中、少しだけ間近に迫った彼の背中に目が吸い寄せられた。
「――……」
かすめるように、撫ぜるように。ほんのわずかだけ、そこに唇をあてる。まるで、腕かなにかが偶然触れたふうを装って、すぐに彼女はてきぱきとゴムで括ってみせた。
「はい、おしまい。じゃ、グラスは爺に返しておいてね」
バルトの髪を手放して、マルーはまるで逃げるように踵を返す。バルトは「おう」と呑気に返した。
背に触れた感触に、どうしようもなく赤く染まった顔を、振り返らせることもできずに。