漸近線上のBinary Stars




 その日の午後、ソニアはバトルタワーの地下にある控室の姿見の前で、厳しい眼差しで自分の全身を検めていた。
 シミひとつ、皴ひとつない眩しい白衣の下に着ているのは、デキる博士をイメージした漆黒のスーツ。鮮やかな薄紫色のシルクシャツを合わせ、いつもはサイドテールにしている長い髪はきっちりとうなじでまとめている。
 喉元を飾るのは、交際三か月目にダンデから贈られたティアドロップ型のペンダント。鮮やかな紫色の石で、彼の髪の色によく似ている。おそらくアメジストだろうが、ソニアはこれほどおおきく、鮮やかな輝きを持つそれを見たことがなかった。比較的安価な石とはいえ、お高い方だろうなぁ、と心配するのも野暮なので、ありがたく宝物にしている。
「――よし」
 完璧なメイクに満足のため息をついた。ギリギリまで睡眠時間を削り、ボロボロだった肌をルリナ御用達のサロンは魔法のように蘇らせてくれた。
 研究の信憑性を演出するために、徹夜明けの悲惨な状態でテレビカメラの前に立つ覚悟もしていたのだが――陣中見舞いに訪れた親友が、有無をも言わさずソニアをサロンに突っ込んだのが、今朝のこと。彼女の判断はいつも正しい。
 鏡の前に立つ女性は、美しさと知性を兼ね備えた、まさに非の打ち所のない博士だ。
 その時、控室の扉がノックされた。
「どうぞ」
 声をかけると、開かれた扉から現れたのは、いつものオーナー服を着たダンデだった。姿見の前に立つソニアを目にすると、彼は一瞬ぴたりと動きを止め、それから素直に賞賛の笑顔を浮かべる。
「――すごくきれいだぜ」
「ありがと」
 このくらいは、素直に言い合える関係になったことに、ソニアはくすぐったくほほ笑む。ダンデはなおも見とれるように瞳を細めて、ゆっくりと彼女に近づいた。
「ペンダント、つけてくれたんだな」
「うん。このシルクに合うと思って。あ、いけない、イヤリング……」
 耳を飾るシンプルなフープイヤリングに手を伸ばすソニアを制し、ダンデは懐から小箱を取り出してみせた。
「ソニア、そのペンダントに合わせたんだが、つけてくれるか」
「うぇっ」
 ぎょっとして、ソニアの喉から奇妙な声が漏れる。ダンデのおおきな手のひらの上で、箱のふたがパカリと開いた。
 そこにあったのは、ペンダントと同じ意匠の、二粒の紫色の石。ソニアは困ったような嬉しいような顔で、ダンデを見上げる。
「だ、ダンデくん……こんなにプレゼントしてもらっちゃって、悪いよ」
「なんでだ。アクセサリーを贈るのは恋人の特権だろう?」
「いや、こういうのはさ、なにかの記念とか、もっと特別な時にでいいんだよ。それでなくても、いろいろしてもらってるのに……」
 可愛くないことを言っている自覚はあったが、それでもソニアには、ダンデのプレゼントに警戒する理由がある。付き合って間もないころ、彼はソニアの年収をはるかに超える額の計測機器を、ポンと気軽に贈ろうとした。それと気づいたソニアが即座に固辞して事なきを得たが、ダンデの金銭感覚にはその時から信頼を置いていない。
 ソニアの言葉に、ダンデは意に介さず長い指先でイヤリングを持ち上げ、ソニアの耳朶にそっと手を添えた。桜貝のようにちいさなそこにイヤリングのネジを合わせ、存外器用につけてみせる。
「……ふふ。くすぐったい」
 彼女のおくれ毛をわざとかすめる指先に、ソニアはわずかに赤くなって笑う。スッキリとした首筋を飾る二粒のティアドロップは、電飾にきらめいて強い光を放っていた。
 ソニアの白い肌を彩る己の色に、ダンデは満足そうに瞳を細める。
「次は、ここだな」
 そう言って、ダンデはそっとソニアの左手を取った。その細い薬指を指で挟む彼の仕草に、ソニアは思わず真っ赤になる。――なんだか今日は、ダンデくんの糖度がやばい。会えない時間が、なんらかの限界値を振り切ってしまったとか?
「だ、ダンデくん。そろそろ時間だよ」
 照れ隠しに早口で告げるソニアに、ダンデはくすりと笑う。そんな大人びた笑い方をされると、ソニアもまごついてはいられない。挑戦を受け、ピンと背筋を伸ばした彼女は、知識の女神のような理知的なエメラルドをツンと細めた。
「オーナーダンデ。会場までエスコート願えます?」
「……喜んで、ソニア博士。どこまででも、お供します」
 ダンデは言って、握ったままのソニアの左手をゆっくりとくちびるまで持ち上げた。そのまま、細い指を愛撫するようにキスを落とすダンデの黄金の瞳は、ソニアのそれをじっと射抜いて離さない。
 知識の女神は、二秒でギブアップした。
「――ダンデくん! いま、お昼の三時! そんな顔していい時間じゃないよ!?」
「ん? 夜ならいいか?」
「そう、夜なら……って、そういうこと言ってんじゃないんだよなあ!?」
「ソニア、そんなきれいな格好でそういう言葉遣いをされると、……むしろ燃えるんだが」
「聞きたくなかったなーあ、その性癖開示!」
「ははっ!」
 真っ赤になってぎゃあぎゃあ騒ぐソニアに、ダンデは思い切り悪戯っ子のような顔で破顔する。その確信犯的な笑い方に、ソニアは本気で眦を吊り上げた。
「ダンデくん!」
「悪かった。緊張をほぐそうと思ったんだぜ」
「嘘だ! わたしをからかって楽しんでたくせに!」
「それは否定しないが、でも、リラックスしたろ?」
「うっ……したけどぉ」
 真っ赤な顔でため息をつき、ソニアは諦めたようにくるりと振り返った。もう一度姿見をチェックして、吊り上がった目元をぐりぐりとマッサージする。最高にきれいに仕立ててもらえたのだから、できるだけキープしたい。
 そして、鏡の中の自分を彩る、ティアドロップの紫の石をうっとりと見やった。それはキラキラと光り、夢のように瞬く。その色を身に着けただけで、ずっと傍にダンデを感じられるようで、ソニアは素直に眼差しを上げた。
「……ありがとう、ダンデくん。がんばれるよ」
 鏡越しに目が合うと、ダンデは愛おしそうにほほ笑む。それから彼女の背中にそっと近づき、その肩を抱き寄せてこめかみにキスをした。
「……なにがあっても、オレは味方だぜ、ソニア。思い切り暴れてこい」
「ん、ふふ。暴れるってなに。理知的な博士は、そんな野蛮なことしませんよ」
「理論で完封してこいってことだぜ」
「任せろ、得意分野だぜ」
 そう言ってニっと笑う。美しい顔に浮かべた悪戯っ子の笑みに、ダンデはたまらなくなって肩を抱く手にぐっと力を込めた。眠たげに伏せられた長い睫毛と、潤んだように揺れる黄金の瞳に、ソニアはハッと顔を赤くする。これはまずい。
「ダンデくん、マジで、マジで時間! 遅刻しちゃうよ!」
「……ダンデタイムイズオーバーか」
「いまからがソニアタイムだっつーの」
 そのままソニアがかざした拳に、ダンデのそれがごつりと重なる。一瞬で幼馴染のライバルに戻ったふたりは、強気な眼差しで笑い合った。



 バトルタワー地下の研究室は、臨時の会見場に改装されていた。天井にはネット中継用のスタジオライトが吊られ、三脚がずらりと並ぶ。観客席には、マクロコスモス傘下企業の関係者、ポケモンリーグの役員、そしてテレビやネットの記者たちが着席している。配布資料には、ムゲンダイナの暫定安全基準の詳細が印刷され、熱心にメモを取る記者の姿も見える。
 ソニアは胸に資料を抱え、背筋を伸ばして壇上に立った。途端に、会場のざわめきが静まる。ピンライトを浴びて立つ彼女の、神々しいような美しさと知性に、感嘆の声が漏れ聞こえた。
「本日は、お集まりいただき感謝申し上げます。ガラルポケモン研究所所長の、ソニアと申します。ただいまより、『ゼロ誘発原則に基づくムゲンダイナ安全研究』を推進するための、安全管理暫定基準の発表を始めます」
 落ち着いた声色で宣言するソニアは、普段の論文発表では味わえない緊張感に、心拍をわずかに速める。それでも冷静を保ち、思考はクリアだった。
 会場の端では、ダンデが腕を組んで壁にもたれていた。元チャンピオンとして、そして現リーグ委員長として、この場での立ち位置は象徴的なものでしかない。極力目につかないようにふるまいながらも、彼の瞳は会場内の人々へと鋭く向けられていた。
 関係者席では、ユウリが端然と座っている。いつものチャンピオンユニフォームに、重たげなマントを羽織って、机上にはムゲンダイナを納めたボールを置いていた。彼女がここにいることで、ムゲンダイナの存在感と、その行く末にガラルの未来が関係している事実が現実味を帯びる。
 その傍らでは、大量の資料を手元に用意し、実測データと解析結果の再確認をしているホップがいた。どんな不測の事態にも対応し、ソニアのサポートをするという意気込みが全身からみなぎっている。
「それでは、お手元の資料をご覧ください」
 ソニアが巨大なモニターに映された補足資料と並行して、説明を始める。凛とした声色はゆっくりと深く、知性と安定感を感じさせた。年若い女性博士だと侮っていたらしい起業家たちの間に、徐々に真剣みが増してくる。
 配布資料に目を通すスポンサーたちは、経済的支援の可能性と安全性の両立を頭の中で計算していた。ムゲンダイナという巨大な資源を扱うプロジェクトに、ここで投資する価値があるかどうか──それを判断するために、彼らはソニアの言葉に耳を傾ける。
 この会見が成功裏に終わり、暫定基準が広く認められれば、リーグと企業、そして研究者の間での本格的なプロジェクトが動き出す。それはまさしく国家を動かす巨大事業であり、ソニア博士の名声をさらに高めることは言うを待たない。
 そんなプレッシャーを微塵も感じさせず、ソニアの声色は歌うように滑らかだった。
「――以上で、発表を終了します」
 ソニアの結びに、会場のそこここで再びざわめきが生じた。ソニアは一度壇上から下がり、関係者席の上座に設けられた机へと着席する。ホップがその傍らのマイクに向かうと、わずかに緊張した固い声を上げた。
「それでは、ただいまより質疑応答の時間を設けます。なにかご質問がある方は、挙手をしてください」
 するとホップのすぐそばの、マクロコスモス傘下企業の関係者席で手が上がった。ホップは素早くハンドマイクを持ってそちらに向かい、男性に差し出す。
「ムゲンダイナはかつて街を破壊した危険な存在です。どうして『安全』と断言できるのですか?」
 その言葉に、ソニアは机上のマイクにくちびるを寄せた。
「断言はできません。ポケモンも人間も、未来を完全に予測することはできないからです。ですが、過去三か月の観測データで、ムゲンダイナが人間や他のポケモンに敵対行動を一切取っていないことは事実です。数字で示せる『安定性』がある以上、研究を止める理由はありません」   
 その答弁に、再び会場がざわめく。今度は少し奥、テレビ関係者の方で青年の手が上がった。ホップがマイクを運ぶ。
「ムゲンダイナのエネルギーは暴走の危険があります。制御に失敗したらどうするのですか?」
「火力発電も原子力も同じです。『暴走の危険』は常に隣にあります。わたしたちがやるべきは、危険を恐れて背を向けることではなく、危険を理解し、最小化する技術を磨くことです。ムゲンダイナのエネルギーは、既存の方法と比較しても効率が高く、リスクもコントロール可能なレベルにあると証明できました」
 ソニアの言葉に、思いがけない方向から手が上がった。ソニアが驚いてそちらを向くと、関係者席に座るユウリが、真っ直ぐに挙手したまま真剣な表情でこちらを窺っている。ソニアは一瞬躊躇してから、こくりと頷いた。
 ユウリは手元のマイクを握って、この一年で叩き込まれたチャンピオンのアルカイックスマイルを浮かべた。
「リーグチャンピオン、ユウリです。今回、ムゲンダイナのトレーナーとしてこの研究に携わりました。結論からいうと、今後のムゲンダイナの制御については、わたしがムゲンダイナの“おや”として、最大限の責任を持ちます」
「チャンピオン、それでも、ムゲンダイナの強大な力を完全に制御するのは……」
「みなさん、一年前の事件をお忘れですか? わたしと、ここにいるホップは、ザシアン、ザマゼンタと一緒に、ムゲンダイナを降して、ボールに納めました。あの子の強大な力を、完全に制御したんです。一度できたことが、これからできないという根拠はないでしょう?」
 精一杯強気な表情で、チャンピオンらしく請け負うユウリを見やって、ソニアは素早くマイクを握った。
「さらに、その上での安全基準です。チャンピオンユウリの完全な協力を得て、無人制御システム、緊急隔離フィールドなど、全部『もしも』のために設計しました。想定外をゼロにはできません。でも、想定外を『最小化する仕組み』を積み重ねることはできます」
 その言葉に、会場が一瞬静まり返る。それからふいに、恐る恐る、というような手が上がった。リーグ役員の中の、上品な年配の女性がホップからマイクを受け取って、わずかに苦笑するように言った。
「チャンピオンがいらっしゃるので、いい機会だからお聞きしたいのですが……」
「どうぞ」
「あの、ムゲンダイナって……ホントにひとに懐くんですか?」
 いままでとは毛色の違った質問に、会場内の緊張が一気にたわんだ。笑い声さえ上がる状況で、ユウリがマイクに向かって弾んだ声を返す。
「懐きますよ~。ポケじゃらしで遊ぶのはちょっと危ないんですけど……あっ、おおきさの意味で、です! 夢中になると、他の子にぶつかっちゃったりするから危ないので……でも、そんな時も、ぶつかっちゃった子に向かってごめんなさいってするみたいにお辞儀して、とってもかわいいんですよぉ」
「まあ、かわいらしいわねえ」
「……わたしは今回の研究で、初めておやつを与えてみたんです。そうしたら、ちょっと嬉しそうに尾が震えて、そんな仕草はわたしの相棒のワンパチにも似ていて、愛らしく感じました」
 ソニアがやわらかくほほ笑みながら続ける。笑い声がおおきくなり、会場が一気に和んだ。
 ――そんな時だった。
「ソニア博士に、質問があります」
 突然おおきな声が上がった。慌ててホップがそちらへ駆け寄ると、マクロコスモス傘下企業ブースに座っていた年若い女性が、ひったくるようにマイクを受け取り、堂々と立ち上がる。
 上流社会の娘と一目でわかる高級な出で立ちは、知的な美しさを際立たせるソニアとは真逆の華やかな装いだった。年のころなら二十歳前後の、この場にいるには少々未熟な印象の彼女は、隙のないメイクを施した眼差しをきつくソニアに向けて言う。
「博士のおっしゃる『協力的な態度』というのは、おやつをもらって尾を振ることですか? そんな曖昧な仕草を『科学的な証拠』とお呼びになるのかしら」
 その、あからさまな挑発に、ソニアのエメラルドの瞳がわずかに瞠られた。明らかに、彼女の態度は研究者の発表に向けたそれではなく、ソニア個人に向けられた悪意を感じる。
 会場に微妙な空気が流れた瞬間、ソニアは真正面からマイクを握って口を開いた。
「観察の切り取り方を誤れば、曖昧に見えるのは確かです。――ですが、わたしが示したのは行動パターンの統計処理、データに基づいた確率の話です。『曖昧』なのは研究ではなく、見たい部分だけを抜き出した解釈でしょう」
 真っ向から受けて立つソニアの様子に、ホップは少し慌てて女性からマイクを受け取るべく手を伸ばした。けれど彼女はそれを完全に無視し、ソニアを睨み続ける。
「結局、『危険ではないかもしれない』というのは、不確かな結論では? そんなものを『安全』と言い切るのは、世論を欺く方便ではありません?」
 ソニアは、明度の高いエメラルドの瞳をすっと細めた。キラリと輝くその炎は、かつてバトルコートで対戦相手に向かって浮かべた、彼女の好戦的な色。
 完全に戦闘モードに入ったソニアに気づき、ホップは視線を巡らせた。この状況を収束してくれる救世主は、しかし壁際でじっとしている。
 ダンデの傍らには、いつの間にかオリーヴが控えていた。彼は秘書の耳元でなにかを囁き、冷静な眼差しの彼女はひとつ頷いて、きびきびとその場を離れる。
 その行く先をホップが確かめる前に、ソニアの凛とした声がマイクを通じて拡散された。
「安全とは『ゼロリスク』ではなく『受容可能なリスク』の定義にあります。火も電気も飛行機も、すべて“かもしれない”を管理して社会に組み込まれました。ムゲンダイナも、その過程を踏んでいるだけです」
 女性が頑としてマイクを離す様子を見せないので、ホップは仕方なくそろそろと後退した。マクロコスモス傘下企業の人物たちが座る席を縫うように、腰を屈めて移動するホップは、その途中オリーヴの金色の髪を見つけて動きを止める。
 彼女は、ソニアと対峙している女性の三列ほど後方、重鎮たちが座るブースの一角で、役員らしき押し出しの良い老人の傍らに膝をついていた。
「……会長。オーナーよりご伝言がございます」
「なんだ?」
「お嬢様を退席させていただきたいと」
「ふん。あの子はなにも、間違ったことは言っていないのではないか?」
 低く抑えられた声量だったが、すぐ傍らを行くホップの耳にははっきりと届いた。ホップは思わずその場にとどまり、全身を耳にする。
 その間にも、女性のわずかに声量の上がった声は続いた。
「そもそも、博士が壇上に立てるのは、ダンデ委員長に庇護されているから。実力ではなく、個人的な関係のおかげではなくて?」
 その言葉は、いままでとは段違いの露骨さで、ソニアの人格を攻撃していた。ソニアは一瞬白く顔色を変え、能面のような無表情になる。完璧に施されたメイクがその美しさを強調し、氷のように冷たく鋭い舌鋒が女王の迫力を示した。
「――科学の成果は『誰の隣にいるか』ではなく、『なにを証明したか』で測られます。今日ここに持参したデータは、わたし個人ではなく、研究チーム全員のものです」
 こんなに冷え冷えとしたソニアの声を、初めて聞いたぞ……。ホップが内心ぶるりと震えると、すぐ傍らでオリーヴの囁きが聞こえる。
「……会長。オーナーのご意向に沿っていただけないとなると、少々込み入ったお話をしなくてはいけなくなります」
「なに? 持って回った言い方をするな、私を脅そうとでも言うのか?」
「オーナーは、我々の円滑な関係を今後も続けたいと願っております。ですが、それには会長に、ひとつだけご理解いただきたいことがあるのです」
「御託はいい。円滑な関係を望むのならば、私の孫娘と会えと、あの若造に伝えろ」
 こっちもこっちで、きな臭い話をしている。ホップはごくりとつばを飲み込むと、女性同士の一騎打ちへと視線を戻した。
「ではもし、この安全基準が破られた場合、どう責任を取るおつもり? 博士がすべての損害を負うとでも?」
 女性の言葉に、会場がしんと静まった。ソニアは凛然とした美しい表情で、瞬きひとつせずに返す。
「責任は常に、研究者個人に帰するものではなく、制度と社会全体で担保されるべきです。だからこそ、わたしはこの場で『基準』を示しています。研究者を孤立させて責任を背負わせるのは、無限の可能性をみすみす潰す愚か者の所業。健全な研究とは、社会とともにそれを守る仕組みを築くことです」
 ソニアの冷静な答弁に、会場の隅から控えめな拍手が起こった。
 その場はいつの間にか、完全にソニアの毅然とした迫力に呑まれている。いくら女性が難癖をつけようとも、決して引きずられることなく対応する姿こそ、彼女の研究者としての資質を際立たせるもので、ひるがえってその研究の信頼性を高めるものだった。
 悔しげな女性の息遣いをマイクが拾い、会場にソニアに利するような空気が流れた時、ホップは一段と低くなったオリーヴの囁きを辛うじて耳にした。
「オーナーのお言葉を、一言一句正確にお伝えいたします。――『貴方の孫娘は、ただの悪戯にとどまらない犯罪を犯している。電子計算機損壊等業務妨害罪、脅迫罪、侮辱罪、器物破損罪、偽計業務妨害罪、私電磁的記録不正作出・供用罪、電子計算機使用詐欺罪、不正アクセス禁止法違反、電気事業法違反……数え上げたらきりがないが、貴方がたったひとつ、オレの願いを叶えるというのなら、不問に伏そう』」
「な……なにを言って……」
「元チャンピオンの情報収集能力を侮りたいのなら、明日の朝刊に貴方の孫娘の未来を永劫に閉ざす記事が載り、ネットはさらに早く事の詳細を伝播しますが、いかがします? 当然、いかなる弁護も退ける証拠は揃えています」
 オリーヴの静かな言葉に、老人はどす黒く変色した顔色で脂汗を浮かべ、わなわなと拳を握った。そしてそのまま、がくりと項垂れる。
「――願い、とは?」
 唸るような問いに、オリーヴは淡々と答えた。
「ソニア博士が提唱する『ゼロ誘発原則に基づくムゲンダイナ安全研究』への出資です。無条件かつ長期的な支援をお願い致します」
「……」
 一回りちいさくなったような老人が答える前に、ホップは甲高いハウリング音を響かせ、激昂した女性が叫ぶひび割れた声を聞いた。
「どれだけ格好をつけても、ダンデがいなければ誰も耳を貸さないわよ!? 彼に守られて得意げな女が、偉そうに博士ぶって壇上に立っているなんて、滑稽だわ!」
「!」
 その言葉に、初めてソニアの表情が動いた。
 いまのいままで――『研究者』として、自身の資質を侮られたり、その足を引っ張られることは覚悟していた。女性との問答も、ソニアの研究を妬む意見か、過激なムゲンダイナ排斥論者の反論だと、毅然と対峙していた。
 けれど――ダンデくん?
 守られて、得意げ?
 なにを言ってるんだ、こいつは。
 そこで初めて、ソニアは『女』の目で、こちらを睨み上げる女性を見た。
 怒りに顔を赤らめ、まだらになった表情はせっかくの美貌を台無しにしている。華やかに装った姿によく似合う、手の込んだスタイルの長い髪は、艶やかな水色の輝きで――
 水色?
「……あなた、先日地下研究所にいらっしゃった、業者の方ね?」
「っ!」
 ソニアの地を這うような低い質問に、女性はあからさまな動揺を見せた。びくりと肩を揺らして、助け舟を探すように視線をさまよわせる。強気な態度と傲慢な性格だが、窮地に陥った際の機転は全くきかないらしい。
 ソニアは、ふつふつと湧き上がる怒りに目の前が真っ赤に染まり、そのままマイクを掴んだ。
「そう……そうだったの。あなたが、数々の嫌がらせの犯人ってわけ……」
「ち、違うわよ、なんの証拠があって……」
「証拠なんて、あとでノシつけて送ってやるわよ! それになに、ダンデくんがいなきゃ誰も耳を貸さない? 守られて得意げ? この壇上のどこに、ダンデくんがいるってのよ!」
 ソニアは立ち上がって、こどもを守る母竜よりも恐ろしげな怒りを表して叫んだ。
「ムゲンダイナの研究は、わたしが自分の手で守った仕事なの! わたしは研究者、博士としての自分に誇りを持ってる。ダンデくんはわたしをただ庇護する存在じゃない、わたしの理解者で、誇りで、なによりも大切な存在で――」
 キーン、とハウリングの音が挟まる。ソニアは忌々しげにマイクを睨むと、ダン! とそれを机に叩きつけて、声の限りに叫んだ。

「ダンデくんはわたしのものなんだから、あなたなんかにとやかく言われる筋合いない!!」

 よく通るソニアの声は、マイクがなくても会場の隅々まで響き渡った。 
 シン……と、針の落ちる音すら響くような静寂が訪れる。聞こえるのはソニアの荒い息遣いだけで、きっかり五秒の後、彼女ははっと我に返った。
「……あ……えと、」
 完全に博士モードを放棄し、ダンデの恋人としての激情にかられたソニアは、全身の血液をざっと足元まで落とす。彼女の様子をずっと撮影しているテレビカメラは、すべてを食い入るように記録していて――いや、これ、生放送だった……さらに、ネット配信も抜かりなく、今頃いくつの切り抜き動画がアップされているだろう。
 こんな大切な場面で、これだけのひとを前に、とんでもないことを宣言してしまった――
「――ここからは、ポケモンリーグ委員長ダンデが発言させていただきます」
 ソニアの傍らで、褐色の手がマイクを握った。彼女がハッとして顔を上げると、涼しい表情で会場を見渡したダンデが、堂々と声を上げる。
「ただいまソニア博士が示した研究成果は、未来のガラルに不可欠なものです。ムゲンダイナの力を正しく理解し、活用することは、我々が次の世代へ手渡すべき責任だと、私は信じています。……ここでひとつ、個人的なことを明かさねばなりません」
 チャンピオン時代に培った、朗々とした腹からの声は、誰の反論も許さない。ダンデは演出的に言葉を区切ると、隣に立つソニアを見やって、蕩けるようなほほえみを浮かべた。
「私はソニア博士と、一生を共に歩む決意をしております。博士の言葉は、彼女一人のものではなく、私自身の覚悟でもある。ゆえに、この研究の安全性と意義について、リーグ委員長として、そしてひとりの人間として、同じ責任を負うことを、ここで皆さんに約束します」
 途端に、会場中がざわついた。
 たくさんのカメラがフラッシュをたき、口々に質問が飛び交う。ソニアはその眩さと喧騒に、混乱した頭で必死に考えた。
 え……いま、ダンデくん、なんてった?
 理解が追い付かない彼女の肩をそっと抱いて、ダンデは誰のこころも魅了する、太陽のように明るい王者の笑みでこう言った。
「ガラルを導くのは、ポケモンとひとの力を信じ合うこころです。その理念の下、リーグが主体となり、この研究の推進を担います。――そして、マクロネットは公式なスポンサーとして最大限の協力をすることを約束してくれました」
 はっきりと告げられた企業名に、会場はさらにどよめいた。マクロコスモス傘下でも発言力のある巨大企業の賛同に、スポンサーたちは一気に旗色を揃えるだろう。
 企業役員のブースに視線が集まると、先代の社長であり、いまもなお暗然たる力を持つ会長が、鷹揚に頷いてみせた。さすがの胆力で、顔色ひとつ変えずにダンデへ拍手さえ送る老人に、ダンデは優雅に一礼する。
 会長の背後で、先ほどまでソニアと舌戦を繰り広げていた女性が、何人かの社員に囲われるように会場を出ていくのがちらりと見えて、ホップはやれやれと胸を撫で下ろした。
 ざわついた会場に、その時再びダンデの声が響く。十年間、ガラルの熱狂を請け負っていた男の芯の通った声色に、その場はもちろん、テレビやネットを通じたガラル中が鮮やかに支配された。
「ここにいるすべての企業、そしてガラルの国民に呼びかけます。――ムゲンダイナの可能性を信じ、ともに未来を作ろう!」
 ダンデの宣言に、会場中から喝采が上がる。誰もが熱狂し、元チャンピオン、そして現チャンピオンと共に未来を築く興奮に呑まれた。
 万雷の拍手の中、ダンデはソニアの肩を引き寄せて踵を返す。ソニアはふらふらとそれに続きながら、会場の外へ続く扉を潜った。
 回廊に出ると、部屋の中からホップの声が届く。発表会の終了を宣言し、今後の問い合わせ窓口をリーグ本部に設定するなど、予定していた口上を述べて事態を収束させる弟子の声を背中に、ソニアはダンデと共に控室へと向かった。
 パタン、と扉を閉めると、喧騒が遠くに消える。静まり返ったちいさな部屋の中で、ソニアは傍らのダンデを見上げた。
「……ダンデくん」
「なんだ?」
 邪気のない顔で笑う男に、ソニアははぁーっとため息をつく。
「助けてくれたのはありがたいけどさぁ……あれはちょっと、やりすぎじゃない?」
「そうか? ちょうどいいと思ったんだが」
「ちょうどいいって……」
 デリカシーのない言葉に、ソニアはふつふつと苛立ちが沸き上がる。
 確かに、ソニアの失言をカバーするのに、あれくらいのインパクトがなくては収まらなかっただろう。けれど、まるでダンデがソニアと結婚でもするような、新たな誤解を生むフォローでは、ますます事態がややこしくなる。
 ソニアはどうやって軌道修正しようかと、難しい顔で唸った。
「ソニア」
「うん……ちょっと待って、いまどうするか考えてる」
「どうするって、なにがだ?」
「いや、だからどうやって結婚の誤解を解くかとか」
「誤解じゃないだろ」
 さらりとしたダンデの言葉に、ソニアがひゅっと息を吸った。それから慌てて彼を振り仰ぐと、ダンデはわずかに苦笑するように瞳を細める。
「オレはソニアと結婚したいってずっと思ってた。きみと真剣に付き合う前から、その目標は変わってないぜ」
「えっ、え、あ、ちょ」
「きみもオレとの未来を望んでないとは言わせない。でも、きみに任せてるとしがらみだの意地だの、色々時間がかかりそうだからな。ちょうどいい機会を利用させてもらった」
「は?」
「視聴率50%を味方につけて、きみの逃げ場を塞いだぜ」
「ご――」
 ごじゅっぱーせんと……
 改めて示された数字に、ソニアはめまいを感じた。確認していないが、今頃スマホロトムはパンクしているだろう。明日から――いや、たったいまからの狂乱と混乱を想像して、ソニアは真剣に倒れたくなる。
「ソニア」
 その時、彼女の腰を抱いて、ぐいと引き寄せたダンデが夜の眼差しを向けてきた。長い睫毛を眠たげに伏せ、蜂蜜のようにとろりと揺らぐ黄金の瞳で彼女を射抜くと、そっとその左手を持ち上げて、薬指にやわく歯を立てる。甘やかな刺激に、ソニアはぐらりと揺れた。
「……ここに、指輪をはめていいだろ?」
「……いいよ」
 もう、降参。
 ソニアは意地や見栄を張るのも馬鹿馬鹿しくなるほどの幸福に、素直に蕩けた笑顔を浮かべた。





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