漸近線上のBinary Stars
「またか……」
かすかに呟かれたソニアの言葉に、ホップはチェックしていたデータ表から目を上げた。
「ソニア?」
斜向かいのデスクに腰を下ろしていたソニアは、パソコンのモニターを睨みながらくちびるを尖らせている。ここしばらくの激務がたたって、自慢の白い肌はだいぶかさつき、エメラルドの瞳の下にはどす黒いクマが浮いていた。
その悲壮感たっぷりの様子に、ホップは怪訝そうに腰を上げる。机を回って、ソニアの睨む画面に目を落とした。
「わ。なんだこれ」
「不幸の手紙~」
投げやりに言いながら、ソニアはメール形式の文書いっぱいに記された『クソ女』『死ね』『ビッチ』等、禍々しい誹謗中傷の文言に乾いた笑いを浮かべる。
「そ、ソニア、これ……開けたのか?」
「開けたよぉ。だって、取引先のメーカーのアドレスだったもん」
「ウイルスだったろ?」
「だったよ」
「……だいじょぶか?」
「の~ぷろ~」
光の速さで対処して、ちょこざいなウイルスなどあっさりと殲滅してやった。とはいえ、労力はかかったし気分は悪いし、悪意のあるスラングは徹夜続きの充血した目にはきつかった。
「アドレスを偽造してるな。手の込んだことをする奴だぞ」
「まー、世の中には暇な奴がいるものよ。久々だったけど、初めてってわけじゃないしね」
「そうなのか?」
ぎょっとしたような顔で問うホップに、ソニアはちょうどいいとばかりにぐっと伸びあがり、短い休憩を入れるべく簡易キッチンへと向かった。
「博士になりたての頃、本が売れたりしてちょっとした有名人だったじゃん、わたし。その時、調子に乗るな~とか、今晩ヒマ~? とか、いろんなバリエーションのメールや手紙もらったよ」
「なんだよそれ。完全に嫌がらせじゃんか」
憤慨するホップに、ソニアはワンパチマグに放り込んだティーバッグを揺らしながらうんうんと頷く。
「そうそ。嫌がらせっていうか、八つ当たりっていうか……なんかちょっと目立つ相手に、日ごろの鬱憤をぶつけてやろうって考える手合いは、どこにでもいるもんよ。あ、ホップも飲む?」
「もらうぞ。でも、中には危ない奴とかもいるかもしれないだろ? ソニア、もうちょっと危機感持った方がいいぞ」
ホップ専用のマグカップにもなみなみとお湯を注ぎ、ソニアは新たなティーバッグを放り込んだ。それをありがたく受け取って、雑談用テーブルの椅子に座ったホップは、山盛りのクッキーに手を伸ばす。酷使した脳みそは、手っ取り早い糖分の摂取を望んでいた。
「まぁね~。でも、だいじょうぶだよ、ある程度変なのは警察に届けたりしてるし、巡査さんの巡回ルートにも加えてもらってるし」
「あ、だからここ、どん突きなのにたまに見回りの巡査さんいるのか」
「そそ。でもさ、シーソーコンビの時は間に合わなかったんだよねぇ」
「そりゃ、完全に守るのは無理だろ……警備のひととか、雇うか?」
「え~、ワンパチいるしな~」
「イヌヌワ?」
テーブルの下で、おこぼれのクッキーにあずかろうと短い尾を振って懸命に舌を出していたこいぬポケモンが、お呼びですか? と声を上げる。ホップはクッキーの欠片を与えてやりながら、ワンパチかぁと苦笑した。
「確かに、頼りにはなるけど……いざという時じゃないと、ただのお客様大歓迎ポケモンだぞ」
「ワンパチセンサーに引っかからないひとなら安心ってことだよ」
「シーソーコンビの時は、どうだったんだ?」
「……盛大に、歓迎してましたねぇ」
「ダメだろ!」
師弟の漫才じみた会話の途中で、カランと来訪のベルが鳴った。ふたりがハッとそちらを見やると、私服姿のユウリがにこにこと立っている。
「こんにちは~」
「ユウリ! どうしたんだ? 今日、来る予定だっけ?」
立ち上がったホップが駆け寄ると、ユウリは嬉しそうに笑いながら手にした包みを持ち上げて答える。
「雑誌の取材の予定が、機材の故障とかで急遽なしになったんだ。で、お休みもらえたからふたりの顔が見たくなって、来ちゃいました。ホップ、これ限定フレーバーのアイスだから、冷凍庫に入れてくれる?」
「アイス! やったぜ」
ホップがはしゃいだ声を上げると、ソニアもにこにことユウリを手招いた。
「ユウリ、ちょうどよかった。こないだ測定したムゲンダイナのデータがそろったから、目を通してくれる? ここ座って、お茶淹れるから」
「はーい」
ユウリは素直に席に着くと、渡された資料を読み込み始めた。ソニアは丁寧に蒸らした紅茶と一緒に、とっておきのマカロンを添えて隣に座る。
「初めての測定にしては、かなり理想的な結果が出たんだ。ムゲンダイナもユウリの声掛けのおかげですごく協力的だったし、ありがとね」
「いえいえ。もともとあの子、結構人懐っこいんですよ~。あんまり表情とかわかんないけど」
「表情、あるのか?」
「あるよ~。たぶん」
対面に座ったホップのツッコミに、ユウリが笑う。それから、わかりにくい数字をなんとか読み解いて、ソニアに問うた。
「ソニアさん、この『副次的なガラル粒子濃度』って……つまり、ムゲンダイナのわざから生まれたエネルギーのことですよね」
「そうそう。こないだムゲンダイナにわざを撃ってもらったとき、対象物にどのくらいエネルギーが残るかを量ったでしょ? ガラル地方のエネルギーは、ねがいぼしに含まれた粒子をプラントで変換して電力にしてるって言われてる。だったら――ムゲンダイナ自身が放出するエネルギーを鉱石や地盤に浴びせれば、その無機物がねがいぼしみたいにエネルギーを含有する可能性があるんじゃないか、って考えたの。その結果、実際にかなり高い確率で“エネルギー保持状態”を示す数値が出たんだ!」
ソニアは勢い込んで、そのエメラルドグリーンの瞳をきらめかせる。徹夜明けの疲れも吹き飛ぶような、輝く笑顔を浮かべた。
「多分、普通のポケモンが繰り出すわざとは違って、ムゲンダイナの胸のコアを経由したエネルギーだからだと思う。あのコアは、ガラル大地から湧き出るエネルギーを吸収して活動する仕組みを持ってる。つまり、単なる通過点じゃなくて、“変換装置”として働いている可能性があるのよね。大地のエネルギーを活動エネルギーに変える過程で、同時に“定着しやすい形”に変質させているのかもしれない。だからコアを経由して放たれたエネルギーは、無機物に触れたときに特有のスペクトルパターンを示して、安定的に含有される……そういう仮説が立てられるの! つまり……」
「ストップ、ソニア、ストップだぞ!」
前のめりで力説していたソニアの白衣を引っ張って、ホップが声を上げる。ハッと我に返ったソニアの目の前で、ユウリは資料を手に目を白黒とさせていた。
「わっ、ごめんユウリ!」
「い、いえ~。な、なんかよくわからないけど、すっごくいい結果が出たんですね」
ユウリが懸命に噛み砕くと、ソニアは照れくさそうに笑いながらも、うんうんと強く頷いた。
「そうなの! 仮説の時点では半信半疑だったけど、この結果を引っ提げれば、案外スムーズにエネルギー研究が認められるかも……いや、まだ安全基準を策定してないけど。でもさ、この実験で、すごくおおきな強みがわかったのよ」
ふふん、と胸を張るソニアに、ユウリはつられて楽しそうに問いかけた。
「なんですか?」
「それはね……ユウリ、あなたが完全にムゲンダイナと意思疎通を図ってる……つまり、ムゲンダイナはブラックナイトと恐れられていた時代の無軌道な天災ではなく、きちんと管理されたポケモンだというなによりの強い証左になったの」
「え?」
きょとんとユウリが目をまるくすると、その正面でホップがぱちんと指を鳴らす。
「なるほどな! つまり、今回の実験結果は図らずもムゲンダイナの従属性を示す結果でもあったのか」
「そう。こちらが指示しないレベルでその意図をくみ取り、結果に繋げた。つまり、知能があり、共生関係を良しとし、自らの役割を理解して協力する姿勢を示した、ってわけ」
「ま、待って待ってふたりとも、わかんないよ~」
盛り上がるソニアとホップにユウリが情けない声で割って入る。ホップはニカッと明るく笑って、つまりさ、と答えた。
「今回の実験で、ムゲンダイナはユウリにわざを撃てと指示されただろう? 通常のわざは、特殊攻撃でない限り、胸のコアは経由しない。でも、ムゲンダイナはすべてのわざでコアを経由し、エネルギーの定着結果を示した。これは、あいつがオレたちの意図を理解し、かつそれに自発的に協力を示した証拠なんだ」
「え、そうなんだ!」
ようやく理解できたユウリは、腰に提げていたムゲンダイナのボールに手を這わせる。つるりとした曲面が、こころなしかあたたかく感じた。
「わたし……今回、ソニアさんたちの研究に協力すること、ムゲンダイナに話して聞かせたんです。あなたとわたしが、ずっと一緒にいられるようにするためのお仕事だよ、って……でも、難しいことはわたしもわからなかったし、ただ言われたとおりわざを指示したんだけど……すごいな、ムゲンダイナ。わたしより頭いいかも」
くすりとほほ笑む少女は、わずかに泣きそうだった。そんな表情に気づいて、ホップがテーブル越しにユウリの頭を撫でる。眼差しを上げた彼女に、ホップは太陽のように屈託なく笑った。
「ムゲンダイナは、ユウリを信頼してるんだぞ。だから、きっとこの先の研究もうまくいく。ユウリは安心して、ムゲンダイナを信じればいいんだぞ!」
「……うん!」
嬉しげに笑って、ユウリがおおきく頷く。そんなこどもたちの様子に、ソニアもやわらかくほほ笑んだ。
「さあ、というわけで、初回の結果は上々。来月から、予定通り集中的に実測と解析を行うにあたり、ユウリには月に二回、一日時間を取ってもらうことになる。この辺は、リーグでスケジュール調整してもらってると思うんだけど……」
ソニアの言葉に、ユウリはだいじょうぶ、と請け負う。
「いまはオフシーズンで、そんなに忙しくないんです。それに、ダンデさんがちゃんと調整して、優先的にこっちに来られるようにしてくれたから」
「うー……やっぱダンデくんには迷惑かけちゃうよなぁ」
ため息をつきつつ、ソニアはワンパチマグを傾けて呟く。
「来月から実験場として使うのも、バトルタワーの地下研究室で、無料で貸し出すって言ってくれてるしさぁ……さらに、解析ユニットへタワーの調査チームから四人も出向してくれる上、ガラル粒子測定器もタワーのを流用させてくれるし……うう、おんぶにだっこじゃ~ん」
情けなさそうに項垂れるソニアに、ホップはすかさず声を上げた。
「なに言ってんだよ、ソニア。そもそも、ムゲンダイナの研究なんて、本来リーグ主体でやるべき事業だろ。それなのに、初期投資と安全性の暫定基準が出るまでの経費は、まるっとソニアが被るなんて、そっちの方があり得ないんだぞ」
「えっ、そうなの、ソニアさん!?」
ぎょっとしてユウリが高い声を上げる。ムゲンダイナの実測と解析には、普段のポケモン研究所に常駐しているソニアとホップの他、ナックル王立アカデミアと、バトルタワーからひとが出るとは聞いていたが、少なくともアカデミアの人件費、各種計測機器の購入、消耗品などの雑費を考えれば、どれほどの費用がかかるのか。
「ソニアさん、わたし、結構お金あります。援助させてください!」
ふんす! と鼻息を荒くする現役チャンピオンに、ソニアはなかば本気で涙を浮かべた。
「うわ~ん、ユウリいい子~~! でもね、お金のことはだいじょうぶ、この研究さえうまくいけば、初期投資分はまるっとスポンサーから補填してもらえるから!」
「そうなの? でも、もし、万が一失敗しちゃったら……」
「わー、考えないようにしてたことを!!」
おおげさに叫び、ソニアはテーブルに突っ伏した。
「もし万が一そんなことになったら、向こう一年はもやし生活だよぉ……ホップ、あんたのお給料も待ってもらうかも……」
「オレのことなら気にするな。それに、もしそんなことになったら、アニキが黙っていないぞ」
「うぐ」
ホップがからかうように言うと、ソニアは苦々しげに唸って顔を上げた。激務の疲れが浮かんだ目の下のクマが、さらにどす黒くなったようなソニアの顔色に、ユウリが心配そうに眉を寄せる。
「ソニアさん、ダンデさんが助けてくれるの、いやなの?」
「う~……いやってわけじゃないんだけどさぁ、自分が情けないんだよなぁ……。でもさ、わたしがヒィヒィいって捻出した費用なんか、あのオトコにとってはちっぽけなお小遣い程度……くう、貧富の差が悲しいわ」
十年ガラルポケモンバトルの頂点にいた男の、総資産を想像するとめまいがする。普段はいたって素朴で、贅沢なことなど興味もないようなダンデだが、バトルタワーの改装にポンと巨額を投資した思いきりを見ても、出すべきところには惜しみなく金を使うのだ。
「ダンデさんに助けてもらうのがいやなら、わたしが出しますってば。ムゲンダイナのことだもの、わたしにも責任はあります」
ぽむ、と薄い胸を叩いて請け負う力強い現チャンピオンに、ソニアは思わずよろめきそうになる。そんな彼女の様子に呆れて、ホップはクッキーをかじりながら呟いた。
「……ソニア。万が一この件で、アニキ以外を頼ったら、とてつもなく面倒なことになるぞ」
「……ぐぅ」
唸るソニアが再びテーブルに突っ伏すと同時に、ピンポーン、と来訪のチャイムが鳴った。ホップが軽快に立ち上がり、正面玄関へと向かうと、扉を開けて爽やかに笑ったのは馴染みの郵便局員だった。
「こんちは、ホップくん! ソニア博士にお届け物です」
「ご苦労様です」
にこやかに挨拶をして、ホップはちいさな包みを受け取った。そのままテーブルに戻ると、ソニアの目の前にそれを置く。
「なんだろ、通販で買った化粧品かな?」
のんきに言いながら、ソニアは手にしたペーパーナイフで梱包テープを切った。
その途端、なんともいえない匂いが包みから漏れ出て、ソニアとユウリが顔をしかめる。ホップも眉を寄せ、声を上げた。
「ソニア、なんか匂うぞ」
「うん……ふたりとも、ちょっと離れて」
ソニアは言うと、開けかけた包みを持って研究所の外へ向かう。ホップとユウリは、言いつけを破ってその背を追いかけた。
「ソニアさん、危ないよ」
「ソニア、オレが開けるぞ」
玄関を出た先にある行き止まりで、ソニアはふたりを振り返って厳しい顔をした。
「いいから、そこで待ちなさい」
おとなの顔をするソニアの言葉に、ホップとユウリはしぶしぶ足を止める。ソニアはおおきな木の下に箱を置き、ゆっくりとその蓋を開いた。
「っ……」
ある程度覚悟をしていたが、封を解いた瞬間立ち込めた腐敗臭に顔をしかめる。お粗末な容器に入れられたのは、野菜くずや肉片などの家庭の生ごみのようだったが、腐敗が進んでいるのかちいさな虫がうごめく様子に、思わずソニアはその場でえずいた。
「ソニア!」
慌ててホップが駆け寄ってくる。彼女の手から箱を取り上げると、その異様な状況に思いきり顔をしかめた。
「うわ、なんだこれ……ソニア、だいじょうぶか?」
「う、うん。ごめんホップ、それ……」
「捨てるか? それとも、嫌がらせの証拠に巡査さんに持っていく?」
「巡査さんに……」
「わかった。ユウリ、ソニアを頼んだぞ!」
ホップは素早く踵を返し、箱を持って走り出した。ユウリはソニアに駆け寄ると、真っ青になったソニアの背中をさする。
「ソニアさん、吐きたいときは、吐いてもいいから……」
「う、うん……だいじょうぶ、ありがと」
「立てる?」
よろよろと立ち上がったソニアは、新鮮な空気を吸い込んで少しだけほっとしたように頷く。彼女を支えながら研究所へ戻ったユウリは、ソニアを座らせてから冷たい水を汲んできた。
「ソニアさん、お水」
「ありがと」
こく、と爽やかな液体が喉を通ると、気分がぐっと良くなる。ソニアは苦笑いを浮かべてユウリを見やった。
「ごめんね、変なところ見せちゃって。気にしないで、よくあることだから」
「よくあるの?」
「うん、まあ、有名税っていうか……ユウリは、こういう嫌がらせとかだいじょうぶ?」
「わたしは、リーグが管理してくれてるから、変なものを受け取ることはないの。ソニアさん、このこと、ダンデさんに相談したらいいんじゃないかな」
「ダンデくんに?」
ユウリの言葉に、ソニアは少しだけ考えるふうに沈黙してから、笑って首を振る。
「ううん、言わない。このくらい、自分で対処しなきゃ」
「でも……」
「だいじょうぶ。これがもっとエスカレートするようなら、ちゃんとしたところに相談するから。ダンデくんには言わないでね、これ以上忙しくさせたらさすがのダンデくんも倒れちゃうよ」
「はい……」
ソニアの言葉に、ユウリは不承不承頷いた。ソニアはその様子にやわらかくほほ笑んで、ユウリの頭をそっと撫でる。
「心配してくれてありがとうね。そんなことより、来月から本格的な研究が始まるよ。頼りにしてるからね、ユウリ!」
その優しい手に、ユウリははにかんだようにほほ笑んで、おおきく頷いた。