漸近線上のBinary Stars
ブラッシータウンののどかな駅舎に到着すると、ユウリはいつもほっと息をつく。
自宅があるのはここからさらに数キロ先の、ハロンタウンの端っこだが、悲しいかな鉄道はそこまで通っていない。いつもは、ここから歩いて三十分ほどかけて帰宅するか、気のいいライド系の手持ちポケモンに乗せてもらうかするが、今日はこのまま駅舎近くの瀟洒な建物、ガラル地方公式ポケモン研究所へ用があった。
「おっ、チャンピオン! お帰りなさい、防衛おめでとう!」
「あっ、どうもです~」
顔なじみの駅員に、慣れない肩書を友好的に呼ばれて、ユウリはおっとりとほほ笑んだ。先代チャンピオンのように、ここでカッコよく決めポーズでもできれば盛り上がるのだろうが、ユウリの性格上それは難しい。
『もっと地味でおとなしい、でもちゃんとユウリだってわかってもらえる決めポーズ、一緒に考えてやるぞ!』
ホップの言葉が思い出されて、ユウリはクスリと笑う。さんざん知恵を絞ったが、かの有名なリザードンポーズに匹敵する新たな名物を生み出す創造性は、ふたりにはなかった。
『あー、そんなのいいのいいの。大体、あのポーズだってダンデくんが考えたっていうよりは、試合のたびにリザードン達に労いのジェスチャーしてたら、いつの間にかそれが恒例になって、リーグが普及させたって話だもん。だから、ユウリも活躍してればそのうち誰かが考えてくれるって』
とは、ソニアの言である。まだ一度目の防衛を果たしたばかりの新米チャンピオンは、今後どれほど『活躍』できるかわからない。決めポーズを考えてもらう前に、王座陥落してしまったらどうしよう……などと、ネガティブになってしまう時は、とにかく目の前の仕事をこなすことだけに集中した。
そんな、少しだけ不安定な時期のチャンピオンを呼び立てたのは、同じく新米ポケモン博士だった。ユウリは、珍しく改まったふうな声色で電話をかけてきたソニアを思い出しながら、ポケモン研究所の瀟洒な扉をカランと開いた。
「こんにちは~」
やわらかな日差しのあふれる温室の傍ら、おびただしい蔵書と様々な計器や電気機器が整然と並ぶそこに、白衣を着た女性が立っていた。ユウリの声にくるりと振り返った彼女は、鮮やかな黄昏の髪に白い肌、わずかに吊り上がったエメラルドの瞳をふわりとほほ笑ませて、あたたかくユウリを迎えた。
「いらっしゃい、ユウリ。来てくれてありがとう」
「いいえ、全然です。あ、ソニアさんこれ、おみやげ」
「うわ、気ぃ遣わせたね! いやでも、ユウリのセンスは確かだからな~うぅん、やっぱりぃ~、ここ、シュートで人気のお店じゃ~ん! やだもう、ありがとね、ユウリ!」
目の前で小躍りするようにはしゃぐ年上の彼女は、はっと我に返って落ち着きを取り戻してから、コホン、とわざとらしく咳払いをする。
「失礼。それでは、こちらへどうぞ」
「え、はい」
なんだろう。いつもはもっとざっくばらんに扱われるのに……そういえば、今日はワンパチの姿がない。弾丸のように駆けてきて、べろべろとこちらをくまなく舐めつくすあの大歓迎がないだけで、どこか物寂しいような、緊張するような、不思議な気分だ……
ソニアに示されたのは、常に通される雑談用のテーブルではなく、ちゃんとしたお客様用の応接テーブルだった。ユウリはぎくりと足を止めかけて、恐る恐るソニアを見やる。
「あ、あの……」
なにか、怒られることでもしただろうか……それとも、ホップと遊びすぎてた?
研究所の助手見習いで、来期の王立アカデミアに飛び級入学を目指している彼は、日々勉強と見習い業とで多忙を極めていたけれど、二日とあけずにユウリと通話をしている。寝る前の数十分、それがユウリの活力剤になっているのだが、もしかしてホップの邪魔になるからやめろって言われるとか……
「……えっと、今日はね、ちょっと真面目な話をしようって思ってさ……」
ソニアの真剣なトーンに、みるみるユウリの顔色が白くなっていく。ソニアは慌てて、パタパタと細い手を振った。
「ちょっとちょっと、そんな緊張しないで……」
「あ、あの、ホップと電話すると、わたし元気になるんです!」
「そう、ホップ……え」
「もちろん、ホップの邪魔をするつもりも、無理させるつもりもなくって、でも、どうしても、怖いこととか不安なこととかあると、ホップの声が聞きたくなって……」
「あ、うんうん、わかるよ、仲良しだもんね……」
「でも、それがソニアさんの……ポケモン研究所のご迷惑になってるなら、わたし、きっぱりやめます!」
「え、あーちが」
「いつまでもホップに甘えてちゃダメですもんね! わたし、強い女に……チャンピオンになります! ダンデさんみたいに!!」
「ゆ、ユウリ、ちょっと聞いて……」
ふるふると拳を震わせて、必死の形相でこちらを見上げる少女に、ソニアは罪悪感いっぱいで眉尻を下げた。
考えてみれば、彼女はようよう十六歳。ダンデがその座に就いた歳よりは上とはいえ、まだ親元でぬくぬくと過ごしていてもおかしくはない幼さだ。
それが、ポケモンバトルが強かったばかりに世界は一変し、まるでジェットコースターに乗ったままの状態で一年。その目まぐるしさと混乱は、あの天然純朴な牧童だったダンデを、いっぱしのガラル紳士に変身させるほどの急展開だ。
ユウリの置かれている状況は、あのころ手を差し伸べてやれなかったダンデの苦境と同じなのだ。
ソニアはそう思い、我知らず自然に手を伸ばしていた。
ふわり、とユウリの鼻先でよい香りがする。大人の女性の目もくらむような抱擁に、少女は思わず絶句した。自分よりも少し高い背丈のソニアは、すべてがやわらかくしっとりと芳しい。マシュマロのようにふわふわとした胸にほほを押し付けられ、その細い指が優しく後頭部を撫でてくれることに、ユウリは混乱したままうっとりとなった。
「――ごめんね、びっくりさせたね。ユウリ、だいじょうぶだから落ち着いて。誰も、あなたを傷つけたりしないよ」
「……」
ゆっくりと、低いソニアのささやき。ユウリはまるで、母親の胸に憩うちいさな女の子になった気分で、そっと瞳を閉じた。
それから、少しだけ名残惜しげに身を起こす。ソニアはユウリの正面に立ち、その顔色を窺うように瞳を細めた。
「だいじょうぶ?」
「はい……ごめんなさい、ソニアさん。わたし、混乱してました」
恥ずかしそうに言うユウリに、ソニアはアハハ、と軽く笑った。
「だいぶね~。いや、でもわたしのせいじゃん。こんなふうに改まられたら、お説教か!? ってビビるよね~」
「はい……わたし、心当たりありすぎるんで……」
「いやいや、なに言ってんの。優等生チャンピオンじゃん」
にこにこと笑いながら、ソニアは改めて応接セットのソファにユウリを座らせると、そのまま簡易キッチンへと向かう。気持ちが落ち着く紅茶の良い香りが漂ってきて、ユウリは改めてため息をついた。
「全然優等生なんかじゃないんですよ~……。この一年、ずっとチャンピオンとしてのふるまいとか、マスコミへの対応とか、スクールの勉強以上に詰め込み学習で……そのうえ、防衛戦に向けての調整とか、いろいろ……うう」
「うんうん、どうしても初年度はバタつくよね。でも、防衛お見事だったじゃん!」
「ありがとうございます……だけど、正直ギリギリでした~」
「そお? そうは見えなかったけど……あ、ユウリ、おもたせで申し訳ないけど、シュークリーム出していいかな? こっちで用意したケーキも出すけど、せっかくならどっちも食べよ!」
「あ、嬉しい! 美味しいやつなんですよ~」
すっかり緊張の抜けた顔でユウリが笑うのに、ソニアは紅茶とお菓子を盆にのせてテーブルに並べながら、苦笑を返した。
「ダンデくんも言ってたなあ。チャンピオンになってなにより大変だったのは、バトルで勝つことよりも、マナーや振る舞いの勉強だったって」
「え、ダンデさんも?」
「そだよ~。ダンデくんなんて、チャンピオンになったころはやっと十歳で、ナイフとフォークの扱いも覚束ない子供だったんだよ。えーと、ギリギリ敬語はできたっけかな? んでも、結局ハロンの片田舎の牧童だったからねえ、いろいろ身につけるのに、十年かかったって言ってたよ」
「じゅ、十年かぁ……」
ぶるり、とユウリの全身が震える。チャンピオンという道の険しさを改めて実感している彼女に、ソニアは年上らしく諭すようにほほ笑んだ。
「だいじょうぶ。チャンピオンらしい振る舞いなんて、自然と身につくものだよ。公式な場での身の処し方も、ようは慣れだよ、慣れ。大事なのは、ユウリがユウリらしくいること。それだけで、たいていのことは後からついてくるから」
「ソニアさん……」
「ダンデくんを見なよー。公式ではすましてるけど、ここに来たらやれカレーだの論文だの、未知のポケモン情報よこせだの、傍若無人じゃん。あそこまでとはいわないけどさ、気の抜けるところではどんどん気を抜いて、ガス抜きしないとだめだよ。それこそ、ホップに頼れるところはじゃんじゃん頼りな~? あいつ、そういうので俄然やる気出るタイプだからさ」
ソニアの言葉に、ユウリはほっと肩の力を抜いて、へにゃりと笑う。そしてそのまま、優しい香りのする紅茶をこくりと傾けた。
「おいしい……」
「よかった。ユウリの買ってきてくれたシュークリームも美味しいよ」
楽しげに笑いながら、しばし気の置けないティータイムを味わった後、ソニアは改めて背筋を伸ばす。そのまなざしを正面に受けて、ユウリは今度こそ、きちんと向き合った。
「さて……。改めて、チャンピオンユウリにお願い……提案が、あります」
「はい」
「これはまだ、リーグにも通してないし、ダンデくんにも言ってないし、だから、本来ならチャンピオンに一足飛びに提案していいことじゃないのは重々承知なんだ。それを踏まえて、聞いてくれると嬉しい」
「わかりました」
真剣なソニアの言葉に、ユウリは落ち着いて頷く。ソニアはふっとほほ笑んで、静かにくちびるを開いた。
「ムゲンダイナのエネルギー活用について、提案します」
「ムゲンダイナ……」
思いがけない言葉だったけれど、ユウリはこころのどこかで、ああそうか、と納得する。
ムゲンダイナを秘密裏に呼び起こし、この世界に顕現させた人物は、その無限のエネルギーを人間の支配下に置く計画を立てていた。けれどそれは頓挫し、結果的にガラル全土を危険にさらしたことを認め、彼は自らの罪を償う道を選んだ。
本来、ひとの手による管理など及ばぬほどの膨大な力を持った存在は、けれど現在、ユウリによってモンスターボールの中に納められている。暴走することもなく、ユウリの命に従い、ユウリの作ったカレーを食べ、ユウリの手で安らいでいる。
けれど、その存在をどうすればいいのか。未だ誰も結論は出せず、ガラルを救った英雄であるユウリが管理する現状が、結論の先延ばしの土壌となっていた。
ムゲンダイナの話題は、現状ほとんどタブー視されている。誰もがムゲンダイナの凶暴性、凶悪性を恐れながらも、手に負えない災厄から目をそらせばなかったことにできるように、その存在を否定している現実に、ユウリはひそかにこころを痛めていた。
だけど、ユウリにはなにもできないから。
できることは、ムゲンダイナをボールに納め、他のポケモンと同じように慈しみ、育てることだけ。
――ムゲンダイナが二度と暴れない、なんて、誰にどうやって信じてもらえばいいの?
「わたしと一緒に、ムゲンダイナの研究をしてほしいんだ」
「え」
ぱちんと泡がはじけるように、目の前でなにかがきらめいた。ユウリの不思議な色の瞳の先で、ソニアのエメラルドが燃えている。キラキラと、星が輝くように燃えている。
「わたしは、ムゲンダイナを利用するんじゃなく、理解したい。そのうえで、ガラルを支えるエネルギーを作りたいの」
「理解……」
「うん。ムゲンダイナを生きたエネルギー炉にするんじゃなく、その正体・原理を解明して、安全にエネルギーを生成する。ゆくゆくは、そのエネルギー理論をもとに、人工エネルギーを作ることが目標だけど、それには膨大な時間がかかる。だからいまは、とにかく「ねがいぼし」に代表されるムゲンダイナの残滓を研究して、非誘発・非接触・無損傷を徹底した『ゼロ誘発原則に基づくムゲンダイナ安全研究』を推し進めたい。そのために、現トレーナーであるチャンピオンユウリに、協力してほしいの」
真っすぐに届いたソニアの眼差しの先で、ユウリは二度、瞬きをした。ホップが初めて会った時、吸い込まれるような不思議な色だと言ったその瞳は、一度目の瞬きでうるみ、二度目のそれでたわんだ雫を生み出した。
「ソニアさん……」
「わ、ユウリ、ちょ、泣いて……」
「わたし、わたしも、お手伝い……ムゲンダイナの、研究、したい、させてください……っ!」
ぶわっとおおきな涙をこぼして、ユウリが力強く叫ぶ。それから、慌てるソニアの目の前で、拳で乱暴に涙をぬぐうと、今日は一緒に来ていない、ちいさなモンスターボールに眠る不思議な生き物を思った。
「わたし、ずっと考えてたんです。ムゲンダイナに、なにをしてあげられるのかって。この世界で、あの子が生きていくには、どうしたらいいんだろうって。わたしはただ、ボールにあの子を捕まえただけだから、なにをどうしていいかわからなかったけど……だから、あの子のためにできることなら、なんでもします。だってわたし、ムゲンダイナの“おや”だから!」
その力強い言葉に、ソニアはぐっと喉を鳴らした。それから、まるで泣きそうな顔でニッと笑う。
「うん、そうだね……あなたは、あの子の“おや”だもんね。どんな来歴があろうと、どんな力を持っていようと、一度ボールに納めてしまったら、その時から絆は生まれるよね」
それは、ポケモンを愛し、ポケモンに生かされている人間ならば、誰でも思うこと。同じ『いのち』を慈しむ者同士、ソニアはユウリの涙を痛いほど理解して、頷いた。
「よし! じゃあ、いまこの時から『ゼロ誘発原則に基づくムゲンダイナ安全研究』を始めます!」
「はい!」
おおきく返事をしたユウリは、キラキラした眼差しでソニアを見やる。
「それでソニアさん、まずはなにを?」
「うん、まずはね」
言って、ソニアはがっくりと肩を落とす。
「……ダンデくんの、説得だぁ……」
心底気が進まなそうな声音で肩を落とすソニアを、ユウリはおろおろと見守っていた。
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