非効率な恋、はじめます
シュートシティから帰ってきた翌日、研究所は休業日だったけれど、そこにはソニアの姿があった。
いつもの白衣は着ておらず、肩まで落ちかけたゆるっとしたシルエットのサマーニットに、リネン素材のワイドパンツをダボっと合わせて、髪は結い上げずにそのまま背中に流していた。メイクも必要最小限、日焼け止めに眉とチークとリップだけ。完全オフスタイルで、ぼーっと温室のベンチに座っている。
昨夜、アーマーガア・タクシーに乗ってブラッシータウンへ帰る道すがら、ずっとダンデの言葉を反芻していた。
幼馴染との恋をどう思うか――という、もはや告白と取られてもおかしくないようなソニアのジャブを、――どうかな? と、当たり障りなくかわされた。
……ダンデくんのクセに、スマートにかわすじゃん。
ぼーっと植物の緑を眺めながら、ソニアは無意識に膝に乗せたワンパチのお尻を揉む。ふかふかの毛並みが手に優しく、無心に揉みこめば余計なことは考えずにいられた。
相棒は、ソニアの様子に気づいているのか、献身的に彼女に身を捧げている。されるがままになってくれるこいぬポケモンの愛情を感じながら、ソニアは明け方からずっと、繰り返し考えていた。
――昨夜のダンデは、ソニアの気持ちに気づいていたのだろうか?
いままで、ソニアの口から『恋愛』なんて、ついぞ出たことがない話題だ。その違和感を感じて、ソニアの酒にかこつけた下心に気づき、牽制をした可能性は?
ものごとを多角的に検証し、様々な仮説を立てることに慣れたソニアの頭脳だったが、昨夜から繰り返されるのは、悲観的な仮説ばかり。
もしもダンデがソニアの気持ちに気づいて、その上であの返答だとしたら、それはもう、完全に脈はない、ということではないか?
酒の勢いで好意を滲ませた卑怯なソニアには、ダンデの狡い拒絶を責める権利はない。
でも……どうせなら、ちゃんと告白して玉砕すればよかったかなぁ……
ワンパチの毛並みに指を埋めて、ソニアは唸る。
ダンデはきっと、ソニアの気持ちに応えられないことを、最大限に優しく気遣って伝えてくれたのだろう。だから、これからも気の置けない幼馴染として付き合っていくことは可能だ。
その逃げ道を、ソニアは確かに欲していたはずだった。
だから、回りくどい策を弄したし、幼馴染として培った信頼感と距離感を損なわないように気をつけて、焦らず進めようと……
でも結局、拒絶されることを考えていなかった。
ここにきて、ソニアは自分の考えた『ダンデくん攻略計画・第一次試案』の、致命的な欠陥に気づいた。
あれほど緻密に解明したメカニズムもアプローチ戦略も、無意識に『成就』か『消滅』かしか考えていなかった。研究者ならば、『玉砕』の可能性、そのあとのリカバリーをこそ、きちんと考えなければならなかったのに。
突然蘇生した恋心のおおきさに振り回されて、現実的な思考ができていなかった。こんな間抜けな研究者、とてもじゃないけど博士ですなんて名乗れない。
胸の奥がきりきりと痛むような後悔に、ソニアはぐっと喉を鳴らす。それからゆっくりと、強い眼差しを上げた。
温室の緑が、ソニアのエメラルドグリーンの瞳に美しく反射する。ソニアは、何万何十万回も繰り返した、不条理な現実に立ち向かう研究者の眼差しで呟いた。
「――事実を見ないふりをするのは、研究倫理に反する」
けれど、ひとつのアプローチが失敗したからといって、すべてを手放すのは愚か者のすること。
ダンデに対する、この肥大しきった恋心を殺すのも失くすのも、まだ決める段階ではない。
一度『玉砕』の結果が出たからといって、可能性がすべて消えたわけではないのなら。
「失敗した時のリスクを想定することこそが、一流の研究者じゃん」
ここからの巻き返し、失敗から学ぶ再アプローチ。諦めるのはそれからでも遅くはない。
そうと決まれば、ソニアの決断は早い。膝の上でうとうとしていたワンパチを揺り起こし、ソニアは勢いよく立ち上がった。
「よしっ!」
ぐっとこぶしを握り、『ダンデくん攻略計画・第一次試案』の記されたホワイトボードに、二次試案、三次試案を新たに組み立てようと意気込む。伊達に海千山千の学術畑で生きてはいない。何度も何度も繰り返し失敗して、こころがバキバキに折れてからが本番だ。
幸いにも、まだはっきりと玉砕したわけではない。ダンデは、ソニアの気持ちに気づいていない可能性だってあるのだ。――いや、おそらくその可能性は高い。相手はあの、天真爛漫泰然自若、人生をポケモンとバトルに全振りしてきた、ソニアとどっこいどっこいの恋愛音痴だ。
きっと、ソニアの気持ちになんて、全然、まったく、これっぽっちも気づいていないに違いない。
あー、お酒の逃げ道を作っててほんとによかった~。これも、立派な危機回避、失敗するリスクの軽減策、さすがわたし、一流の研究者じゃ~ん!
見事に切り替えたソニアがうきうきとそんなことを考えて、温室の硝子戸を開いて室内へ入ると。
そこに立っていたのは、完全オフモードの元チャンピオン・現バトルタワーオーナーだった。
彼はキャップを目深に被り、薄い色味のサングラスをかけて、白いTシャツにブラックジーンズの出で立ちで、黙ってなにかを見つめていた。
「ふゎっ!!」
ソニアは驚きのあまり高い声を上げてしまった。彼女の足元から、弾丸のように飛び出したワンパチが、わぱわぱと甘えた声を上げて彼の足にじゃれつく。ダンデは、手を伸ばしてこいぬポケモンを撫でながら、視線をまっすぐ前にとどめていた。
「だ、ダンデく……ん?」
ソニアが声をかけると、はじめて彼はこちらを向く。サングラスごしの黄金の瞳が、レーザーのようにソニアを捕らえた。
「――よう、ソニア」
「よ、ようじゃないよっ! なに、どうしてここに、あ、てかカギは? カギかかってたよね!?」
「いや、開いてたぜ」
「えっ、うそ」
言われて、ソニアは早朝研究所にやって来た際、確かに内カギをかけたかどうか、記憶になかった。寝不足のままぼーっとしていたし、頭の中はダンデの返答でいっぱいで、注意力散漫になっていたことは否めない。
不用心すぎる~と、我ながら情けなくなって、ソニアはがっくりと肩を落とした。
それはそれとして、昨日の今日でダンデと顔を合わせるのはだいぶ気まずい。研究者根性を総動員して、これからのダンデへのアプローチを再検討しようと開き直ったが、まだ完全ではなかった。ふとした拍子に、ダンデの気のない『――どうかな』が蘇ってきて、胸の奥が痛むというのに。
「……それで? ダンデくん、今日はなに……」
仕方がないので、さっさと用件を聞いてお引き取り願おう……と、顔を向けたソニアの前で、ダンデはゆっくりとサングラスを外した。彼は再びソニアから目をそらし、じっと前を見つめている。なににそれほど興味を引かれているのか……と、ソニアが改めて彼の視線を追いかけると。
――普段は人目につかないように奥へしまい込んでいたのに、今朝、傷心のソニアが引っ張り出して、計画の致命的な欠陥に呻いたままの場所に、……つまり堂々と研究所の真ん中に、件のホワイトボードが、あった。
「っっっ!!」
つま先から髪の先まで、雷が落ちたような衝撃を感じ、ソニアは咄嗟に駆けだした。ダンデの視線の先に滑り込んで、ホワイトボードをくるりと一回転させる。黒い裏面を背中に隠し、ソニアはあらん限りの大声で叫んだ。
「だだっ、ダンデくん! カレー食べる!?」
「ソニア」
「いまならヴルストも大盛りで出すよ!」
「ソニア」
「それとも、先週届いたばっかの論文読む!? めっちゃくちゃ面白くって、絶対興味津々のやつ!」
「ソニア」
「ソニアは死にました!!」
思いきり叫んでから、ソニアはなんだそれ、と自分で突っ込んだ。
よりによって、なんという幼稚な言い訳か。
でも、心情的にはまさに『死にました』――『ソニアの恋心は、いままさに、ダンデくんによって死に絶えました』――
「それは困るな」
真剣な声音に、ソニアは思わず目をまるくした。正面に立つダンデは、大真面目な顔でソニアを見つめてこう言った。
「ようやく、オレの恋心が正当な行き場を得られたはずなのに、成就した瞬間失くすのか」
「へ」
「さすがにひどくないか、ソニア」
キャップを外し、薄明の髪をかき上げながらダンデが呟く。ソニアは言われた言葉を急いで咀嚼し、それからぽかんと口を開いた。
「だ、ダンデくん……恋心って……」
「普段は頑なにオレへの好意をなかったことにするのに、酔うと素直になってくる、最悪な女……一応言っておくが、オレはそうは思わないぜ。ソニアは自己評価が厳しい」
「え、ま、まさか……」
じわじわと、首元からソニアの肌が赤くなっていく。その様子を見つめて、ダンデはようやく、太陽のように笑った。
「ところでソニア! 昨日の記憶はあるのか?」
「えっ?」
「オレと一緒に飲んだ記憶は、ちゃんとあるな?」
「う、うん」
「そうか……じゃあ、いいな」
確認とも言えない一方的な呟きのあと、ダンデは迷わずに手を伸ばした。長い足が二歩、ソニアの方へ踏み出される。その風のように素早い動きに、ソニアは全く反応できずに、次の瞬間彼の腕の中へすっぽりと抱き込まれていた。
「だっ、ダンデくん!?」
ソニアのふわふわの髪に指を潜らせ、彼女の首筋に顔をうずめたダンデは、細い腰にギュッと強い腕を回して、思う存分そのやわらかさを堪能する。ソニアは突然の抱擁にどうしていいかわからず、すっかり地面から浮いてしまったつま先をパタパタと揺らして叫んだ。
「ちょっ、ちょっ、ちょぉっ!! 待って! ステイ! ハウス! ダンデくん!!」
「……オレはワンパチじゃないぜ」
ぐりぐり、とソニアの首筋に鼻先をうずめて、ダンデがくぐもった声で言う。その吐息に撫でられ、くすぐったいのと熱いのとで、ソニアは真っ赤になって呻いた。
「わ、わかってるよぉっ……でも、待ってダンデくん、ほんとに待ってぇ……っ」
「……ずるいな、ソニア」
こころから弱り切っているソニアの声音に、ダンデは不承不承、身を起こした。ソニアの足は地面に着いたけれど、ダンデの腕は離れていかない。至近距離でこちらを見つめる金色の瞳が、蕩けそうに緩んでいるのを見上げて、ソニアは目が眩むほど真っ赤になった。
「だ、ダンデくん……か、確認させて」
「ああ、いいぜ」
「ダンデくん……の、恋心の、正当な、行き場、って……」
「ここだ」
にっこりと幸せそうに笑って、ダンデはソニアの額に自分のそれをあてる。こつん、とちいさく響いた体温に、ソニアは泣きそうになって震えた。
「う、うそぉ……」
「なんでだよ。傷つくぜ、ソニア」
「き、傷ついたのはこっちだよぉ……っ、昨日、ダンデくん、言ったじゃんかぁ……お、幼馴染とか、どうよって、聞いたら、ど、どうかな……て……」
ソニアの両ほほに手を這わせて、ダンデは彼女の瞳を真っ直ぐに覗いて言った。
「あれは、ソニアがまた、覚えていないかもって思ったから、ついごまかしたんだ」
「また?」
奇妙な言い回しに、ソニアが眉を寄せる。その瞬間、滲んでいた彼女の瞳から、涙がひとつぶポロリと零れた。ダンデの親指が、それを優しく拭う。
「ソニアは覚えていないだろうが、きみは深酒すると記憶をなくす」
「え? なんでダンデくん知ってるの?」
「酔いつぶれたきみを、毎度ブラッシータウンに送っていたのは、オレだからだ」
「えぇっ!?」
突然の告白に、ソニアが驚いて声を上げる。そのショックで、涙はすっかり乾いてしまった。はち切れそうに眼を見開くソニアの正面で、ダンデはくすくすとやわらかく笑った。
「一番初めにきみがつぶれた時、たまたま同じパブにいたんだ。前後不覚になったきみを、オレがうちまで送ってベッドに入れた。その時、ルリナとマグノリア博士に、オレのことはソニアには内緒にしてほしいって頼んだんだ」
「な、なんで?」
いままでずっと、ルリナが世話をしてくれていたと思っていたのに、まさかダンデくんに迷惑をかけていたなんて……と青くなるソニアに、ダンデは少しだけ困ったように眉を寄せた。
「なぜかというと……ソニア、きみは泥酔すると、かなり素直になる」
「え?」
「普段こころの奥にしまっていた気持ちや感情が、駄々洩れになるんだ」
「……え?」
「そんなことを知ったら、きっときみは困るだろうと思って、内緒にしていた」
「…………えぇ!?」
とんでもない告白に、ソニアは再び絶叫した。ぱくぱくと口を開閉するソニアに、ダンデは優しく苦笑している。
その、なんともいえない表情に、ソニアはすべてを悟ってしまった。
「――つまり、ダンデくんは、ずっとわたしの気持ちを、知ってたんだ……」
「ああ、まあ……そうなる」
「わたしが、つい最近まで、完全に忘れてた……気持ち、とか」
「そうだな。酔うと必ず表に出てた」
「……ダンデくんに、好きって、言ってた?」
「……言ってたな」
「そんで、素面では、まーったくそれに気づいていない……」
「ああ。完全にオレは意識されてなかった」
「……なにそれ!? わたし、まるで二重人格じゃん!!」
抑圧しすぎた潜在意識が、酔った勢いで顕在化したとして、それが全く記憶に残らないあたり、冗談じゃなくジキル&ハイドである。
ソニアの絶望に、ダンデは口元を緩ませた。
「オレもそれを疑ったんだ。ソニアは、勉強のしすぎでぶっ壊れたんじゃないかと……」
「そ、そんなこと……いや、そうなるの!?」
「でも、酔ったソニアの言うことは、きちんと理に適ってたし、素面のソニアに異常は出なかったし、大丈夫だろうって、とりあえず見守ることにした」
「酔ったわたしの言うことの、どこが理に適ってたの!?」
「オレを好きだっていう気持ちには、芯が通ってたんだ」
「わー!! 勝手に分析しないでくれる!?」
「オレへの気持ちが噴き出るのは、決まってソニアがしんどい時だった。酒を飲んで、ぐでぐでになるしか逃げ道がないって時、ソニアはオレを求めた」
静かなダンデの言葉に、ソニアは思わず息を呑んだ。ダンデはじっと、真っ直ぐにソニアのエメラルドグリーンの瞳を見据え、静かに語った。
「その、あまりにもギリギリの矜持に、オレはなにもしてやれなかった。だからせめて、ルリナに協力してもらって、ソニアがいっぱいいっぱいの時は、絶対にシュートシティのあのパブで、呑ませてほしいと頼んだ。オレが必ず、駆けつけるからって」
「……矜持……?」
「ああ。ソニアの中のオレへの気持ちは、決して逃げ場じゃない。ギリギリにならないと吐き出せない、誰にも汚されたくない聖域だと思った」
その言葉に。
ソニアは思わず、大粒の涙をこぼしてしまった。
思いがけず、自分の深層心理を、ダンデに言い当てられた衝撃で。
世界で一番、そのこころを知っていてほしかった相手の理解に、打ちひしがれるほどの喜びが押し寄せた。
「ソニア」
優しいダンデのくちびるが、とめどないソニアの涙を拭ってくれる。ソニアはただ、子供のように素直に泣いていた。
それから、涙味のくちびるがそっとソニアのそれを塞いだ。ソニアはしゃくりあげながら、やわらかいキスを味わう。顔中が涙でべとべとで、信じられないくらい格好悪いファーストキスは、この世のすべてを手に入れたような甘露だった。
いつの間にか涙が止まって、いつの間にかダンデの胸に縋って、いつの間にか全身から力が抜けていたソニアは、あたたかい胸板に寄り添いながら、ようやく瞼を開いた。滲む視界の先で、ダンデがじっとこちらを見つめている。窺うような彼の視線に、ソニアは泣きすぎて火照った目元を緩ませた。
「ダンデくん……、わたし、贅沢になってもいいかなぁ……?」
ちいさなソニアの囁きに、ダンデはひどく幸せそうに笑った。
「片手間は困るぜ、ソニア」
からかう幼馴染のくちびるに、ソニアは精一杯背伸びをして嚙みついた。
END.
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