非効率な恋、はじめます
シュートスタジアム裏の、料理が絶品な隠れ家的なパブは、知る人ぞ知るリーグ関係者御用達の良店だ。もとはキバナの贔屓の店だったらしく、彼の紹介でジムリーダーやチャンピオン時代のダンデも通っていたと聞く。店主は人格者で、さらに常連の民度も高く、有名人たちは安心して寛ぐことができるらしい。
ソニアも、実は過去何度かルリナに連れられて来店したことがある。
ルリナと飲むときは、大体バウタウンかエンジンシティ、ナックルシティあたりが縄張りなのだが、年に一、二回――どうしても、ソニアのタガが外れそうなときは、ルリナは黙ってこの、秘密の店に連れてきてくれるのだ。
ソニアは酒に強く、滅多なことでは醜態をさらさない。けれど、積もり積もった鬱屈やストレスではち切れそうになる時は、アルコールは彼女にひどく優しい。
ひとしきり泣き言を愚痴った後はひたすらに幸福感と達成感を与えてくれる霊薬となり、その後はきっちりと切り替えて困難を乗り切ることができる。
シュートシティの隠れ家パブで飲み、翌朝までの記憶がすっぽり抜け落ちている時は、必ずブラッシータウンまで送り届けてもらっていた。そんなルリナの篤い友情に、ソニアはありったけの感謝を述べるのだが、ルリナはクールに笑うだけ。
『気にしないで、ソニア。お礼? いらない。そのかわり、しんどい時に飲むのはわたしとだけって約束して。……絶対によ?』
――親友の瑠璃のような視線に射抜かれて、その時の迫力がちょっと背筋が凍るほどだったのもあり、以来ソニアは深酒を予感させる気分の時は、必ずルリナを誘うようにしている。
それにしても、忙しい身だというのに、泥酔したソニアをいつも家まで届けてくれるのは申し訳なさすぎる。あの細腕でどうしたのかと疑問だが、ベッドの中まで運んでくれるのだ。
けれど、深酒をした次の日の朝は、マグノリアのお小言の中にルリナへの気遣いはない。その代わり、『ルリナの目の届かないところで深酒はするな』と釘を刺されてしまう。彼女に迷惑をかけるな、という苦言じゃないのが、不思議といえば不思議だった。
今日は深酒をするわけではないが、緊張で思いがけず酔いが回ってしまわないように気をつけなければ、と身構えていたソニアだったが、相変わらず美味しい料理と口当たりのいいジントニックを一杯、二杯。そのあたりで、心地よく身体があたたまってきた。
「そういえば、ダンデくんとふたりでお酒飲むって、もしかして初めてじゃない?」
店の奥まった場所にある居心地のいい個室に通されてから、昼間のバトルの話などを楽しげに続けていたソニアが、はたと気づいて言う。ともに飲酒解禁年齢になってから久しいというのに、いままではあまり、そういう話にはならなかった。
「ん? あー……そうだな」
とろりとした半熟気味のスコッチエッグを口に運びながら、ダンデが彼らしくない曖昧な相槌を打つ。ソニアはそれに、怪訝そうな眼差しを向けた。
「ん? なに、その返事。あれ? あったっけ?」
「いや、ないぜ」
「だよね? あ、ルリナと一緒に飲んでた時にニアミスしたっけ、確か?」
「んー……」
もぐもぐと咀嚼するダンデは、あまりこの話題には乗ってこない。ソニアはそういえば、一番初めにルリナにこの店に連れてきてもらった時、したたかに飲んで記憶を飛ばす前、ダンデくんがいたような、いなかったような……? と、はるか昔の黒歴史を思い出しかけて、慌ててジントニックでそれを流し去った。
「いやー、美味しいねぇここのお酒は! おかわりしちゃおかな」
「ああ、遠慮しないで飲んでくれ」
「ふふふ。ありがと、ダンデくん」
上機嫌に笑うソニアは、ポヤポヤと酔いが回ったふうを装いながら、慎重にタイミングを計っていた。
ダンデの酒量はよく知らないが、たぶんそれほど弱くはないだろう。今日はソニアと一緒なこともあって、セーブしているはず。深酒で記憶を飛ばされても困るが、ほろ酔いで細かいことは気にならない、くらいまでの状況には持っていきたい。
ナナシのみがたっぷり入ったピムスカップと、ダンデのエールのおかわりを注文し、ソニアはにこにこと愛想よく食事を楽しんだ。ダンデとの食事を楽しむなんて、ソニアには息をするよりも簡単だ。ただ純粋に、ダンデの隣にいることが心地よく嬉しい。恋心を自覚してからは、いままでの何倍も幸せを感じられた。
この幸せを――失ってしまうかもしれない。幼馴染でもいられないほどの気まずさや距離が生まれるかもしれない一歩を、ソニアは踏み出そうとしている。
怖くないと言えば嘘になるけれど、部屋の中の象のことは、もう無視できないのだ。
「ねえ……ダンデくん」
ダンデが五杯目のエールを飲み干したタイミングで、ソニアはちらりと彼の顔色を読んだ。浅黒い肌はわずかに上気しているように見えるし、おおきな金色の瞳はとろりと蜜色にゆるんでいる。L字型のソファの短辺と長辺にはす向かいで座っていた距離をわずかに縮めて、ソニアは思い切って口火を切った。
「チャンピオンからバトルリーグ委員長、タワーオーナになって、どう?」
「どう? 抽象的だな、ソニア」
ダンデの笑顔がやわらかい。酔いが回っているらしい兆候に、ソニアはぐぐっとさらに身を乗り出して、不自然にならない程度にダンデの腕に身を寄せた。
「だからさぁ、忙しくはなったろうけども、プライベートに割く時間は増えたんじゃない?」
「ん、まあな。ある程度の調整はつくようになったぜ」
「じゃあ、こうして誰かと飲みに行く時間も増えたとか」
「そうだな……キバナやネズとは、月一、二回くらいで飲むかな」
「え、すごい。思った以上に充実してた」
「ソニアも、博士に就任してから一年くらいだろ。少しは慣れてきたんじゃないか?」
「わたし? そうだねぇ~、確かに精神的余裕は生まれたなぁ。おかげで、だんっ……」
「ん?」
うっかりダンデへの恋心が蘇生した下りを話しそうになって、ソニアは慌てて口を閉じた。それほど酔っていないつもりだったが、アルコールの力は恐ろしい。
「あ、えと、精神的に余裕が出てきて、いろいろなことに目を向けられるようになったな、って話」
にっこりと笑って言うソニアの、存外近い位置にあるエメラルドグリーンの瞳を見つめながら、ダンデがわずかに小首を傾げた。
「いろいろなこと、って?」
おお、ダンデくんがなんか可愛いぞ。口調がおっとりとして、ゆらゆらと揺れる黄金の瞳が蕩けるようにソニアを見つめている。こんなに可愛いダンデくんを見られるなら、もっと早くサシ飲みしてればよかった……と、ソニアの中の恋心が忸怩たる思いを抱える中、ソニアも負けじととろんと笑う。
「たとえばぁ、恋愛、とか?」
攻めすぎたかな? と思いつつ、ダンデの様子をうかがう。ダンデは六杯目のエールを片手で揺らしながら、そこに額を預けるようにソニアの方へ顔を向けていた。眠たげに伏せた瞼の奥で、黄金の瞳がじっとテーブルの一点を見つめている。
「……れんあい?」
「うん、そう。いや~、いままでさ、全然興味なかった分野だから、いろいろ勉強してんだよぉ。ハウツー本とかさぁ」
おっと、これは秘匿情報だった? カッコ悪いこと言っちゃったかなあ、と、ソニアは急いで言葉を継いだ。
「ほら、ホップとユウリがくっついたじゃん。なんか、触発されたっていうか、負けられないなぁ~、みたいな?」
「……」
「んで、さ。ダンデくんって、そのへんどんな感じなのかな~って、幼馴染の恋愛事情とか、興味あるな~って思って、さ。こないだちょっと、そんな話したじゃん? 恋心が力になる、とかさぁ~」
話しながら、ソニアはすぐ傍らにあるダンデの腕が発する熱を心地よく感じていた。ダンデくんって、子供のころから体温たっかいよねぇ……夏は暑苦しいけど、冬は重宝しそうだなぁ……筋肉、かったいなぁ。
「……ソニア、酔ってるか?」
「ん? いや、別に?」
言いながら、ソニアは無意識ににぎにぎとダンデの前腕伸筋群を握っていた。浮き上がる筋や骨の固さを確かめるように、機嫌よく触る彼女を眺めながら、ダンデが笑う。
「酔ってるな?」
「酔ってないってば。もー、ダンデくん、質問に答えてよ」
「質問……幼馴染の恋愛事情?」
「そうそう」
「残念ながら、楽しい話じゃないぜ」
「え?」
触り心地のいい筋肉の畝から視線を上げて、ソニアがパッと目をまるくする。至近距離でアルコールに溶けた黄金は、ソニアの様子を観察するように細められた。
「オレの場合は、相手次第だって言ったろ。相手がオレに負けない力を手に入れれば、ようやくオレの恋心は正当な行き場を得られる。……でも、そのとき相手がオレを受け入れてくれるかは、別の話だ」
「……えぇ?」
ダンデの言葉に、ソニアはぎゅっと眉を寄せた。
「ダンデくんを受け入れない相手とか、いるのかよぉ~」
「いるさ。たとえば、普段は頑なにオレへの好意をなかったことにするのに、酔うと素直になってくる……とかな」
「え、それ最悪じゃん。ダンデくん、そんな女ダメだよ、やめときな」
「そうか?」
くすくすと笑うダンデは、もしかして笑い上戸なのだろうか。ソニアは、それはそれとしてダンデの恋愛観は歪んでるんじゃないかと心配になった。
「ダンデくん、あんまり変な女の子に引っ掛かっちゃだめだよ……あ、あのさ、例えば、身近にいいひととかいないの?」
「身近か……いま、仕事で一番一緒にいるのはオリーヴだな」
オリーヴ女史。ソニアも注目するほどの才女で、かなりの美人。あれがライバルとか、ちょっと勘弁してほしい……
「オリーヴさんはほら、ダメじゃん、好きな人いるし……」
「もちろんオリーヴに興味はないぜ。身近な例で出しただけだ」
「そ、そっか。他にいないのかぁ、ダンデくんは~」
ということは、ホップの証言通り、いまのところダンデに決まった相手はいない。貴重な言質を胸に畳んで、ソニアは上機嫌に笑った。
「んじゃあさ、たとえばさぁ、――幼馴染とか……」
「幼馴染?」
「うん、そう、幼馴染とか、どうよ?」
これってもう、告白じゃない? 内なるソニアが慌てた声を上げるけれど、思った以上にアルコールの回っている判断力は地に落ち、ソニアは気づいた時には後戻りのできないところまで攻めてしまっていた。
こうなれば、伸るか反るか。あくまでも、酔った戯言だという卑怯な逃げ道を確保しつつ、ソニアはドキドキとダンデの返事を待った。
ダンデは。
「――どうかな」
非常にスマートに、かわしてみせた。
その瞬間、恋愛の駆け引きにおいては赤ちゃん並みのソニアは、次弾を装填する前にジャムってしまった武器を抱えて、パニックに陥った。
え、あれ、どうかなって言われた。どうかな? どう……
「……そうだよねえ、どうかなって思うよね~。幼馴染だもんねぇ」
「酔ってるなぁ、ソニア」
「……うん、フフフ、実はさっきから、頭回ってない」
真っ赤になった顔の言い訳ができて、ソニアは心底安心した。
恥ずかしくて恥ずかしくて、死んでしまいそう。
ソニアは急に喉が渇いてしまって、残っていたピムスカップを一気に煽った。
「ソニア、無茶するなよ」
「ン、う~ん平気平気。これ呑んだら、帰ろっか~」
「ああ、そうだな。明日は休みか?」
「そうだよ~。一日寝てま~す」
アハハっと明るく笑いながら、ソニアはどんどんと冷えていく頭の片隅で、ダンデの言葉を何度も何度も反芻していた。
――どうかな。
……大人なかわし方をされたのが、なんだか堪える夜だった。