非効率な恋、はじめます
きちんと系統立てて思考を整理する。人生の大半を高度な学術を修めることに費やしてきたソニアにとって、それは息をするよりも自然な行為である。
あらゆる物事には原因があり、結果があり、その間にある事象には名前があり、法則がある。ひとつひとつ紐解いて、分析し、一定の理論に基づいて体系化されたそれを集合知として認識し、活用し、新たな疑問に立ち向かう。
まるで砂の城を築くような徒労感にもまれながら、砂金粒のごとく貴重なたったひとつの真実を見抜くこと。研究者とは、常に不可能と不可思議の狭間で活路を見出す冒険者だ。
――そういう世界に生きてきたソニアにとって。
恋愛感情とは、まさに不可思議極まりない、事象だった。
些細なきっかけで掘り起こされたそれは、ソニアの世界を反転したままなかなか元に戻らない。こんな理不尽で不可解な感情を抱えたままで、あの象牙の塔を泳ぎ切ることなど、やはり無理だったとつくづく思う。
けれどいまは――。
いまは、ソニアは新進気鋭のポケモン博士として輝かしい船出をした。もちろん、研究職とは生涯を探求に捧げた者であり、博士を名乗ったからといってそれで盤石ではない。常にガラルのポケモン界に貢献し続け、牽引し続け、切り開く開拓者であることを求められ続ける。ソニアの研究者人生に、ゴールなどない。
だが、研究に一身を捧げることと、プライベートを疎かにすることは決して同義ではない。事実、高名な博士であるマグノリアだって、きちんと結婚し子を生し、孫を儲けているではないか。祖父は非常に穏やかなひとで、祖母の研究者としての人生を支え、愛し、ともに歩んでいる。まさに理想的な夫婦像だ。
ソニアにだって、そんな人生を歩む権利はある。
いまこの時だからこそ、自分の人生を振り返り、新たな設計をすることが可能になったのだ――いままでの二十三年が、そろそろ報われてもいい頃合い。封じていた恋心が復活したのならば、それを成就させようとしてなにが悪いのか――
「なにも悪くないぞ」
「うん、悪くないどころか、最高だよね」
弟子によって爆弾を投下された翌日。研究所には、このほど正式に彼の恋人として紹介されたガラルポケモンリーグチャンピオン・ユウリがいた。
お茶の間で見慣れたチャンピオンユニフォームではなく、今日はカジュアルで女の子らしい装いをしている。ジムチャレンジの旅に出たころと変わらず、のほほんとした笑顔を浮かべる彼女を見ていると、ダンデが十年負い続けたガラルの期待と興奮、熱狂を背負っているとは到底信じがたく、ソニアは毒気を抜かれて頬杖をついた。
「そう、悪くないよね。わかってる。うん……」
「ソニアは、なにをそんなにためらってるんだ?」
お茶菓子に供されたマカロンをひょいとつまみながらホップが首を傾げる。その気軽な様子に、相談する相手を間違えたな……と後悔しかけ、いや待て、いつわたしがこの子たちに相談した? と、ことの成り行きを改めて思い出す。
今日は、ユウリがようやくもぎ取ったオフということで、午前中から研究所に遊びに来ていた。折悪しく、ホップに任せていたデータ整理が佳境で、さすがに突発的に彼を休ませてやることは難しく、そもそもそんな特別待遇を望んでやって来たわけではないユウリは、仕事の邪魔にならないようにおとなしく温室でワンパチを含めた相棒たちを遊ばせ、世話し、簡単な事務処理を手伝い、ついでにソニアの質問に、ムゲンダイナやザマゼンタのトレーナーとして過不足なく答えていた。
そんなさりげない手助けと気配りが功を奏して、ホップは午後の早いうちにノルマを終わらせた。ソニアも懸案事項をクリアし、解放感に満ちたお茶の時間が始まった。
そして――話題は何故か、ソニアのダンデに対する恋心……になったわけである。
ソニアの名誉のためにいえば、彼女は決して、七つも年下の出来立てほやほやカップルに恋愛相談を持ち掛けたわけではない。そもそも、ダンデに対する長年の恋心に関して、ソニアはようやく自分を納得させることができた段階だ。その気持ちを発展させるとか成就させるとか、能動的な解決を願うのはまた違う話である。
けれど、ホップからすでに詳細を聞き終えていたらしいユウリは(どうでもいいが、助手にはまず、上司のプライベートに関する守秘義務を改めて叩き込む必要がある)のほほんと毒気を抜くような雰囲気でソニアに二、三の質問をし、それに対するソニアの回答から、瞬く間に彼女を『前向きな恋する乙女』に仕立て上げてしまった。
つまり、ダンデさんへの恋心に驚く段階はもはや過去のこと。これからは、その恋をどうやって成就させるかのフェーズですよ! というわけである。
ダンデといいユウリといい、優秀なポケモントレーナーは、つくづくひとを前向きにさせる。相手のポテンシャルを信じ、隠された実力を見つけて高め、より多くの結果をつかみ取る。バトル強者の性質は、多方面に流用可能な稀有な資質である。
「ソニアさんはためらってるんじゃないよ、ホップ。戸惑ってるの。だって普通、恋心なんてじんわり生まれて育って、自覚的におおきくなっていくものでしょう? たとえ無自覚だったとしても、いきなりぽっと生まれるものじゃないじゃない」
「まあ、そうだよな」
「でも、ソニアさんの場合、生まれて育っておおきくなっていたそれを、無理矢理封じちゃってたわけで。そこできれいさっぱり失くしてたっていう精神力の強さが、さすがソニア博士だなぁって尊敬するんだけど、それはともかく……そんなにおおきな感情が、いきなりポンッ! てこころに現れたの。昨日、ホップのせい……おかげ? で」
「ああ……そっか」
「ね? のんびりお散歩してたワイルドエリアで、瞬きしたらいきなり目の前にキテルグマが大大大発生してた~! みたいな衝撃だよぉ」
「うわ……それは、怖いな。てか、アニキへの恋心ってそんなにでっかいんだな、ソニア的には」
「ふふふ、わたしも負けないくらいでっかいよ」
「お、うん……」
黙って見てれば、ヒトのコイバナにかこつけて目の前でイチャコラし始めた弟分たちを、ソニアは思いっきり斜に構えたジト目で睨んだ。
「あのさぁ~、仲良くしたいのはよぉぉ~っくわかったから、せめてわたしの見えないところでしてくれますぅ~? 今日はもう、帰っていいからさぁ~」
そんな小姑じみたセリフを吐いた瞬間、自己嫌悪で項垂れるソニアに、ホップは太陽のように明るく笑った。
「いや、今日はオレとユウリは、ソニアの相談に乗るために集まったんだ。なっ、ユウリ」
「そうですよぉ。ホップから、ソニアさんがようやく自覚……えっと、ダンデさんへの恋心に気づいて? 混乱してるみたいだから、助けてやろうぜって連絡もらってきたんです」
「はぁ……」
百パーセントの善意に溢れた年下たちの無遠慮さに、ソニアは頭を抱えてしまった。
けれど、気持ちはありがたい。実は、非常にありがたい。
ダンデへの恋心なんて超特級呪物、ひとりで抱えられるわけがない。頼みの綱のルリナはいま、海外でモデルの仕事だし、他にこんな話ができる友人もいないし(そもそもソニアがダンデと幼馴染だと知る友人は少ない)ソニアだけでは二進も三進もいかないと、昨夜の段階で匙を投げていたのだ。
だから、大変にありがたい申し出ではあるが……さすがに、年上の矜持として手放しでは喜べない。そんなソニアの葛藤を汲むように、ユウリがのんびりとほほ笑んだ。
「助けるっていうと偉そうだと思うんで、ソニアさんには、わたしたちのことは『王さまの耳はロバの耳』の穴だと思ってほしいな。ソニアさんがしゃべったことは、ぜーんぶ風が持ってっちゃいますから、心配いらないです」
「あ、あな……?」
「そう、穴ですよ、穴。なんでもしゃべって吐き出して、それでスッキリしたらきっと、ソニアさんのクールに冴えわたる思考回路が復活して、最適解を導き出せますから!」
きらきらとしたユウリの尊敬の眼差しに、そういえばおばあさまの宿題をこなす間、ユウリのこんな顔を何度も見たなあ、と思い出す。ソニアがひとつひとつの発見に持論を展開し、自分の考えを整理するためにユウリに語る間、彼女はソニアの思考を邪魔せず、そのくせ適切に相槌を打って背中を押してくれた。
ソニアの考え、結論に絶大な信頼を寄せ、その方向性を信じてくれた年下の少女に、ソニアも素直になって頷く。
「……うん、わかった。あの時みたいに思考の整理、付き合ってよ、ユウリ」
「はい、任せてください!」
「ソニア、オレもいるからな!」
「はいはい、頼りにしてるよ、弟子クン~」
くすぐったく笑って、ソニアは気合いを入れるように新たな紅茶を淹れた。お茶菓子も追加し、万全の態勢を整える。前向きになったソニアに、ホップは助手の鑑というべき機転を利かせ、いつもソニアが思考の書き出し作業に使うホワイトボードを引き出してきた。
紅茶を喫したソニアがおもむろに立ち上がり、ホワイトボードにさらさらと記す。
【一次感情(好意)の長期潜伏後における顕在化メカニズム】
① 発症要因(トリガー)
・博士就任による精神的余白の発生
・環境の安定化
・特定対象(ダンデ)との再接触頻度増加
② 潜伏期間の要因
・対等性確保を優先
・キャリア形成に全リソース投入
・自己認識の遅延
③ 顕在化の症状予測
・動悸・目線の逸らし
・意味不明な空回り行動
・突発的な心情の吐露
「なんか論文みたいだけど、要するにアニキへの恋心のことだよな……?」
「わたし、恋のメカニズムを論理的に表にするひと、初めて見た……」
ホップとユウリがぼそぼそと呟く傍らで、ソニアは真面目な顔でホワイトボードを睨む。
「まず、発症要因だけど。これは、起こるべくして起きたと言えるね。ポケモン博士として任じられて約一年が過ぎたことで、確かに精神的余裕は生まれた。一次感情の長期潜伏化の原因が大方解消されたわけ」
そこまで言って、ソニアは『特定対象(ダンデ)との再接触頻度増加』におおきく丸を付ける。
「この現象は、今後最も慎重を要する事象になる。そもそも、いままでまったく意識せず、幼馴染としてのほほんと接してきた相手に、突然の好意を向けられることに、戸惑いや恐れを抱かせてしまう懸念はあるよね」
「え、ないぞ……」
「しっ、ホップ、わたしたちはいま『穴』だよ。静かにソニアさんの思考実験を見守ろう」
ホップの口を抑えたユウリが素早く呟く。ソニアはそれに気づく様子もなく、再びさらさらとホワイトボードへと向かった。
【対象個体(ダンデ)への恋愛感情的アプローチ戦略】
A. アプローチ方針の選定
①成就を目指す
②見なかったことにする
B. 成就ルートにおける最適化案
・接触機会の自然増加
・感情表現の段階的開示
C. リスクと対策
・過剰意識による不自然行動 → 第三者に監視依頼
・感情暴走 → 自己モニタリング表作成
「まず、Aについて決めることが先決だね」
「はい、博士」
「どうぞ、ユウリ」
「見なかったことにする、は、もはや無理があります。研究者として、顕在化された事象から目をそらすことは非効率であり、非現実的だと思います!」
ハキハキと意見するユウリをジト目で見やり、ホップは「オレたちは穴なんじゃなかったのかよ……」と呟く。ユウリは構わず、ソニアのエメラルドグリーンの瞳を真っ直ぐに見つめた。
「この上は、ソニア博士には一心に成就を目指すことを強く、強くおすすめします!」
「う、うん……」
「ソニア、もうこうなったら、目標はひとつに絞った方が効率いいぞ。多角的視点で試行錯誤する時期はとっくに過ぎたんだぞ」
ユウリに負けじと背中を押す弟分の言葉に、ソニアはわずかに照れくさげにほほを染め、それからコツコツと細い指で額を叩く。
「うん……うん、そうだね」
それから、ソニアは目標に向かって一途に進む、優秀な研究者の顔で、頷いた。
「では、結論。顕在化した恋愛感情から目をそらさず、その成就を最終目標とする」
きりっとした表情で言い切ったソニアに、ユウリが嬉しそうに拍手し、ホップもやれやれと安堵の息をつく。そもそも、自分の恋心に気づいてそれをどうするか……なんて話をここまで複雑化する必要はあったのだろうか。
そんなふうに呆れはするが、他のことには効率を求め、最短で最適解を導き出せる優秀な研究者が、自分の恋心だけは非効率を極めることが、ソニアらしくてオレは好きだな、とニヤリと笑う。
「はい、博士」
そのまま手を上げて発言をするホップに、ソニアは有能な博士の顔で答えた。
「どうぞ、ホップ」
「Bの成就ルートにおける最適化案について、オレからひとつ提案があるぞ」
「提案?」
小首を傾げるソニアに、ホップはニッカリと太陽のような顔で笑った。
「今度会ったら、アニキに素直に好きって言えばいいぞ!」
「……はぁ?」
「それが、一番効率的な解決……むぐっ」
そこまで言いかけたホップの口に、無言のユウリが巨大なスコーンを突っ込んで黙らせた。目を白黒とさせる少年に、ソニアがはぁ~っとおおきなため息をつく。
「ホップくん……キミには大変失望しました……」
「む、むが?」
「ここまでの緻密なメカニズム解読で、そんな下策が出てくるなんて……まだまだ修行が足りないな、ホップ」
「そうだよ、ホップ」
ホップの正面にずいっと紅茶を差し出して、ユウリも呆れたように肩を竦める。
「そんな簡単な話なら、ソニア博士がこんなに戸惑うわけないじゃない。博士だよ~? とっっても優秀な、最年少ポケモン博士なんだよ~?」
「ユウリ、フォローありがと。そう、そんなに簡単な話だったら、わたしだって悩まないの!」
照れくさそうにへにゃりと笑ってから、ソニアはキリリっと表情を引き締める。細い指を振り立てて、自分で書いたホワイトボードの一文を指さして言った。
「ハイここ! 『C. リスクと対策』! わかる? リスク! リスクがあるんだよ、このミッションには!」
「そうですよね、好きって気持ちに気づいて、じゃあ告白しちゃえばいっか~、なんて簡単に考えられるのは、失敗した時のリスクを想定しない二流の研究者ですよね!」
「そう、その通りよユウリ!」
ガシッと強く手を取り合って、ソニアとユウリが意気投合する。スコーンを紅茶で流し込んだホップが、困惑気に眉を寄せた。
「え、だって、失敗なんて……」
するわけないんだぞ、と続けようとしたホップはしかし、確かにダンデの口からソニアへの気持ちを聞いたわけではない。同じ男として、兄弟として、彼の言動を分析して、九分九厘間違いなくソニアに惚れている、とは思っていても、兄が表にしない感情を、保証してやれるわけでもない。
う~ん。難しいなあ……と、今更ながらホップは唸る。本当に、非効率すぎないか、アニキとソニアの恋……
「まずは、少しずつダンデくんにこっちの気持ちを匂わせるというか、慣らしていくというか、そういう準備運動って必要だよね」
「そうですね、海に入る時だって、十分な準備運動をしないと溺れちゃうし」
「そうそう、それに、わたしだって時間をかけて自分の気持ちに慣れていかないと、いきなり振り切って変なことしちゃいそうだし……」
「わぁ、わかります~。たまに変なスイッチとか入っちゃいますよねぇ」
「そうそう! 昨日だってさ、急にダンデくんが来るもんだから、わたしテンパっちゃって危なかったんだよ~」
「うっかり『しゅき……』とか言っちゃったら大火傷ですもんね!」
「だよね~!」
きゃあきゃあと盛り上がる女性陣を横目に、ホップは性懲りもなく『だから、それを言えたら二秒で終わる話だぞ……』とこころで呟きつつ――
賢明にも、無言でスコーンを咀嚼していた。