非効率な恋、はじめます




 ……これは、いったいなんの現象だ?
 長年、わたしの胸の奥に沈殿し、もはや化石のように動くことはないと思っていた感情が――動いた。その瞬間、脳が熱くなって、心拍数の上昇、視線の偏り、思考の占有率の異常な増加。
 ……これ、完全に恋だよね?

 いやいや、待って。わたしは研究者だ。
 研究者は、己の願望に従うのではなく、結果に従うもの。
 そしてこれは、どうあがいても事実だ。
 事実を見ないふりをするのは、研究倫理に反する。

 ……まじか。どうするの、これ。

「ソニア?」
 目の前でカレーを頬張っていた男が、硬直したようにこちらを見ている幼馴染に声をかけた。ソニアはその瞬間、一気に現実に引き戻される。
「うん!? なに!?」
「いや……考え事か? あ、カレーはちゃんと美味いぞ」
「あ、そう、よかった……いや、別に考え事なんて。してない……いや、してる、あの、あれ、新しい研究のこと」
 焦りすぎだ。ソニアはあまりの自分のポンコツさに嫌気がさして、冷たくなった紅茶を流しに捨てに行った。とにかく、視界からダンデを締め出さなければ、まともな思考すらできない。
 昼間、ホップの爆弾発言で一気に天地が逆さまになったようなソニアの世界は、未だに逆のままだ。
 自分がダンデに恋をしていた――し続けていたなんて、本当に芯から気付いていなかった。そりゃあ、ちいさいころはいつも傍にいた幼馴染に、淡い気持ちを抱いていたことは否めない。でもそれは、おままごとの延長線上のようなもので、人間よりもウールーの数の方が多い片田舎の、同じ年だった貴重な少年に、通過儀礼のように恋をしたつもりになっていた――と、そういう説明もできなくはない。
 けれど、そのあとのはもう怪しい。一緒にジムチャレンジをしていたころの、魂を分かつような一体感、高揚感。同じ世界を愛し、同じ熱量で夢を語った安心感。子供同士だからと馬鹿にはできない、人生においてなにを大切にするのかを決定づけた、半年の旅の末、訪れた別離と引き裂かれる寂しさ、孤独、切迫感。熱に浮かされるような恋心は、それでもまだ、幼い錯覚といえるか……怪しいけれど。
 その後、ポケモン博士を目指して歩む過酷な時間の中で、ソニアは意識的にダンデを切り離した。彼を求めるこころを殺さなければ、あっという間に飲み込まれてしまう厳しい世界。それでも、ソニアはその世界を泳ぐしかなく、息継ぎのために浮上しては、一瞬の弱音の中にダンデを想って、けれどそのたびに次に潜る苦しさが増して、その繰り返しの中、ソニアはダンデへの恋心を封じた。
 こうと決めたら一直線、努力の天才のソニアが、封じたのだ。
 その誓いは強く、封印は堅固だった。
 その結果、がむしゃらに走り続け、ついに望む未来を手繰り寄せた。ポケモン博士と任じられ、一生をかけて続ける研究対象を手に入れ、達成感にゆるんだ一瞬のスキを突き――
 封印は、解かれた。
 そしてそのタイミングを逃さず、神がかった嗅覚で研究所にやって来た、ダンデ。
 まさか気の回る弟がご注進でもしたのかと、疑ってしまうほどのナイスタイミングで訪れた強運の元チャンピオンは、けれどいつも通りの遠慮のなさでソニアにカレーと新しい論文をねだり、屈託なく笑った。
 その、いつも通りの空間に。
 ソニアだけが、いつも通りでは、ない。
「新しい研究か。今度はどんなテーマだ?」
 カレーを平らげ、満足そうに食後の紅茶を喫しながら、ダンデが問いかける。ソニアは簡易キッチンでその声に背を向けつつ、ありもしないテーマを必死でひねり出そうと唸った。
「それは……えーと、あれだよ。ぽ、ポケモンの……恋?」
 とんでもなくポンコツである。よりによって、いま一番避けなければならない単語のチョイスに、ソニアはソーナンスのような顔で項垂れた。忸怩たる思いを噛みしめている彼女に、ダンデが意外そうな声を上げる。
「ポケモンの恋? 珍しいテーマだな、ソニア」
「そ、そう? あれだよ、ほら、ポケモンの繁殖っていうか、タマゴの謎?」
「生殖の法則か。しかし、それは恋か?」
「広義で! ポケモンの恋愛感情や好悪の感情が、産まれるタマゴに影響するかもしれないっていう視点から!」
「なるほど」
 必死なソニアの説明に、疑うでもなく素直に頷く。ダンデののん気な様子に多少毒気を抜かれ、ソニアは新たに淹れた紅茶を片手にそろそろとテーブルに戻った。
 正面に座る幼馴染は、まったくリラックスした様子だ。健康的な褐色の肌、丁寧に整えられた髭、太い血管の浮く首筋に、厚みのある肩、胸板、引き締まった腹筋。彼を構成するなにもかもがいつも通りだったが、なぜかいま、ひどく好ましくて仕方がない。
 いつも、こんなダンデくんを前にして、なにも意識してなかったのかわたしは?
 自分の中に湧き上がって暴れる恋心は、数年ぶりの自由を謳歌すべく傍若無人である。ふとした拍子に「ダンデくん……しゅき……」などと血迷ったことを口走る予感に震え、ソニアはことさら意識して硬い声を作った。
「コ、恋といえばさあ!」
 早速声が裏返る。再びソーナンス顔になったソニアに、ダンデが小首を傾げた。
「どうした?」
「いや、あの、恋といえば、ホップのこと……聞いた?」
「ああ、ユウリ君のことか」
 あっさりと頷くダンデに、ソニアがほっとする。これでダンデが知らなかったら、複雑な兄心を刺激してしまうところだった。
「そうそう、ユウリ。いやー、やるよねーあの子たちってば。ていうか、いつの間にかホップも恋するオトシゴロだったんだなーって、改めて気づいてちょっと泣きそうになったよ」
 弟のように可愛がっていたホップの思い出が蘇り、昼間に続いてうっかり目頭を熱くするソニアに、ダンデは優しく目を細めた。
「そうだな、オレたちも年を取るわけだ」
「あっ、それは言わないお約束!」
「ははは。しかし、ホップはこれから研究職を目指して、いずれソニアと同じ道を歩むわけだろう。そんな時期に、恋人か」
 ダンデの意外な声音に、ソニアは驚いて目をまるくした。
「え、ダンデくん、もしかして反対してる?」
「いや、反対はしない。だが、心配はするさ」
「あら~」
 思いがけない思慮深さに、けれどソニアは感心したようにため息をついた。普段、根拠なく自信たっぷりに『大丈夫だ!』を連呼する王様は、実はすべてにおいてきちんと考え、その結果自信を持って請け負っていることを、ソニアは知っていたはずなのに、しばしば忘れてしまう。
 それほど、ダンデのカリスマ性は高い。彼が言えば、無条件で信じたくなるし、信じてしまう。
 そんなダンデが、心配をしている……その事実が、ソニアには妙に響いた。
「そうね、心配する気持ちはわかるよ。でもさ、ユウリと付き合うことが、必ずしもホップにとってマイナスになるわけじゃないでしょ」
「そりゃあそうだ。プラスになる可能性だっておおきいさ。だが……」
「うんうん、わかるよ。並大抵の努力じゃプラスにはできないかもしれないね」
 チャンピオンと恋する研究者の卵。昔、自分が挫折して封じたその道を進む弟分は、どれほどの困難に見舞われるだろうと、想像するだけで恐ろしくなる。
 けれど、彼は自分とは違うから……
「恋心が力になるタイプじゃん、ホップって。それに、ユウリもさ、あれで根性あるし、ホップが傍にいることで、十年玉座を護れちゃうかもよ?」
 ニシシ、と悪戯っぽく笑うソニアに、ダンデがふわりと黄金の瞳を細める。その、やたらに大人びた甘いほほ笑みに、ソニアはひっくり返りそうになった。
 え、いままでも、こんな顔で笑ってた? わたし、こんな顔見ても平気だったの?
 驚きに硬直しているソニアには気づかず、ダンデはほほ笑みのまま言った。
「恋心が力になるタイプか。そういうところ、兄弟だなって思うぜ」
「え?」
 思いがけない述懐に、ソニアが目をまるくする。ダンデはティーカップに視線を落として、思い出を語るように呟いた。
「誰かを想うことで力が出せるやつもいれば、思いを断ち切ることでがむしゃらになるやつもいる。ひとそれぞれだよな、ソニア」
「……うん」
 ダンデは、なにを言っているのだろう? 頷きながらも、ソニアはフル回転で頭を働かせていた。
 恋心が力になるホップと、兄弟のダンデ。彼もまた、弟と同じく、誰かを想うことで力が出せるということか。そしてそれを、実感としてわきまえているのか、ただの自認なのか――
「例えばソニアだったら、どうだ?」
「え」
 思考の海に届いた質問に、ソニアは間抜けな声を返した。見つめる先で、ダンデがなにかを量るような眼差しを向けている。
「例えばソニアだったら、恋心が力になったと思うか? きみが、ホップくらいの年のころ……アカデミーで、留学先で、博士号を取得する努力を続けていた時期に、もしも恋をしていたら」
 静かな問いに、ソニアはわずかに息を呑み、それから迷いなく首を振る。
「いや、わたしは無理だったね。そんな余裕ないよ」
「きみほど優秀でもだめか」
「そうだね……優秀かどうかよりも、キャパシティの問題かな。わたしはほら、こうと決めたら一直線じゃん。片手間で恋をするなんて贅沢なこと、できなかったな」
「贅沢。はは、贅沢か……確かに」
 苦笑して、ダンデが椅子の背もたれに体重を預ける。くつろいだ彼の表情のどこかに、滲むような寂しさが見えた気がして、ソニアはわずかに眉を寄せた。
「ダンデくん……ダンデくんは、どうだった?」
「オレか? オレの場合は、ちょっと複雑だな。恋心は力になるが、同時にそれは、相手をおびやかす圧を持つ――どうも、静かに想いを募らせるタイプじゃないらしい」
「おびやかす、圧……」
 確かに、ガラルを魅了する最強のチャンピオンに求められて、プレッシャーを感じないひとは少ないだろう。実際、ソニアだってダンデを好きだと自覚した瞬間、望んだのはその光に負けない自分。彼の陰になり、彼の枷になる事は絶対に嫌で、そのために死に物狂いでポケモン博士を目指した。
 ――その結果、彼への恋心をさっぱり封じてしまったのは、我ながらなんという本末転倒。
「だから、オレの場合は、相手次第。相手がオレに負けない力を手に入れれば、ようやくオレの恋心は正当な行き場を得られるんだ」
 静かなダンデの言葉に、再び思考の海に落ち込んでいたソニアがふっと浮上した。無意識に視線を向けると、強い黄金の瞳がじっとソニアを縫い留めるように光っていて、ソニアは思わず息を呑む。
 時間にして数秒の、奇妙な沈黙の後、ダンデはニカッと太陽のような笑みを浮かべた。
「さて。そろそろ失礼するか。リザードンを呼んでくるぜ」
「あ、うん」
 温室でワンパチとくつろぐ相棒へと声をかけるダンデの背中に、ソニアの目が吸い寄せられた。
 いま――なにか、とても大切なことを聞いた気がする。
 そんな気もするのだが、数年ぶりに封印を解いたダンデへの恋心が暴走する現状、きちんと系統立てて思考を整理する時間が必要だった。





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