臆病者の答え合わせ
業務開始の一時間前。毎朝八時には、ホップは開錠作業のためポケモン研究所へ出勤している。
その日も、前日までかかりきりだった謎の木箱の調査から始まるだろうと頭の中で段取りをしながら、木々の梢の影を縫って、ブラッシータウンの瀟洒な職場へとやって来た。
レトロな扉の鍵を差し入れ、ガチャリと回す。けれど、それはつっかえるように止まり、ホップは怪訝そうに眉を寄せた。
「あれ?」
そのままノブを掴むと、扉はあっけなく開いた。まさか、施錠を忘れたのかと慌ててみれば、研究所の中から嗅ぎ慣れた良い匂いがする。
「ソニア?」
カレーの匂いに導かれるように、ホップはクンクンと鼻を鳴らしながら室内に入っていった。その声に応えるように、奥の方からワンパチが弾むようにやって来る。
「ワンパチ、おはようだぞ」
「ぬわふっ」
ぐりぐりと撫でてやると、ふかふかの毛並みのこいぬポケモンは嬉しげに短い尾を振る。毎朝の恒例行事を済ませているホップとワンパチに、追いかけるように声がかけられた。
「お、早いねー弟子クン。おはよ」
「おはよう、ソニア。ソニアこそ早いな……っていうか、朝からカレーか?」
ボディバッグをロッカーに詰めながら問うと、ソニアはまぁねーと明るく笑う。
「食べたいって言われちゃうとさー。やっぱ無碍にはできないっていうか」
「食べたい? 誰かいるのか?」
きょとんとしてホップが問う。早朝の研究所にはソニアとワンパチの他に気配はないようだが、首を巡らせて奥の方へ目をやったホップに、ソニアは「え?」と目を丸くした。
「あれ? 言われなかったっけ?」
「オレは言ってないけど……」
「あれぇ? 誰だっけ……」
ちょっとだけ困ったように眉を寄せ、ソニアは細い指を顎にあてがう。それから、あまりこだわらないふうに首を振った。
「ま、いっか。ホップ、朝ごはん食べてきたよね?」
「うん、でも、カレーならいつでも食えるぞ!」
「よしよし、じゃあ、少し盛ったげるから座りな」
育ち盛りの少年の胃袋を完全に掴んでいるソニアは、上機嫌にキッチンブースへと戻る。ホップは嬉しそうに雑談テーブルへ向かい、それからなんの気なしにソニアへ声をかけた。
「そういえば、ソニア。アニキにメール報告した? 返信あったか?」
一昨日のハシノマ原っぱでの調査結果と、謎の木箱についての報告は、ポケモンリーグの方へ正式にしているが、それとは別に出張中のダンデへも伝えておいた方がいいということになり、昨夜のうちにソニアがメールをする段取りだった。
ワイルドエリアには未だに多くの謎があり、ポケモンの研究は未知に触れる分野だ。立場上、ポケモン博士であるソニアに調査や検証を依頼するダンデが、そのことに不安を抱えないわけがない。できれば自分が立ち会って、どんな危険からもソニアを護りたいと思っているだろうことは、聡い弟にはお見通しである。
それでも、ポケモン博士というソニアの立場と誇りを尊重する兄への、せめてもの援護射撃のつもりでメール報告を推したホップは、けれどカレー皿を持ってきたソニアの屈託のない一言に絶句した。
「え? なんで?」
「えっ?」
あまりにも自然な一言に、ホップが目を丸くする。彼の正面にヴルストの乗ったカレーをことりと置いて、ソニアは本当に不思議そうに小首を傾げた。
「リーグに報告はしたよ?」
「いや、でもアニキも心配してるだろうから……」
「アニキ?」
悪い冗談のように、重ねて首を傾げるソニア。ホップがひやりとした汗を背筋に感じる。――と同時に、ソニアはぷっと上機嫌に笑った。
「なーんてうそうそ、ダンデくんでしょ! ちょっとからかっただけだよ~」
「……っ、び、ビビったんだぞ……! ソニア、ひとが悪いぞ!」
「あはは、ごめんごめん。なんかホップって、からかいがいがあるんだよな~」
ニシシ、と意地悪げに笑ってソニアが踵を返す。謎の箱を収めたチェストに向かう彼女の後ろ姿に、ホップは憮然とほほを膨らませた。
「ちぇっ、朝からやめてくれよな。それで? アニキ、なんだって?」
カツ、とスプーンをカレーに沈めて、おおきな口を開ける。あまくちだ。この味付けは、隠し味にチイラのみが入ってる。ダンデの幼いころからの好物のひとつだ。
なんだ、やっぱりアニキのためにカレーを作ったのか、と納得しかけて、でもアニキは明日まで帰ってこないよな? と考えていたホップに、ソニアの声が届く。
「メールしてないんだ」
「え?」
「だって、まだよくわかってないしさ。ダンデくんも忙しいだろうし、煩わせることないじゃん」
謎の箱を手に取り、慈しむように撫でながら言うソニアに、ホップは強烈な違和感を感じてスプーンの手を止める。それでも、強く反駁するほどの根拠はない。ダンデがリーグ委員長として忙しくしていることは事実だし、箱の謎が全く解けていないことも事実だ。
それでも――なにかが、おかしい。
「なあ、ソニ……」
「ホップ。今日は、課題やってていいよ。わたしの方で、この箱に関わりそうな文献を調べるから」
「え、でも」
「現状で検査できる範囲は昨日の時点で調べたし、今日は別方向からアプローチしたいんだ。なんなら、家に帰ってもいいよ」
箱を丹念に検めながら、ソニアが言う。その真剣な様子に、ホップは渋々頷いた。実際、計器を用いた現状調査はあらかた終わっている。その結果を踏まえ、さらに深く調べるとなると、助手見習いであるホップにはあまり出番はない。文献や調書の取り寄せなどの雑用くらいだ。
「わかった。でも、なにか手が要りそうだったら動くから、今日は一日研究所で課題やるぞ」
「そう?」
ほとんど箱の検分に夢中になっているようなソニアが、こころここにあらずの返事をする。なにかに夢中になった時のソニアの集中力と無防備さは知っているので、ホップは特に気にせずに――それでも、どこかざわざわするものを抱えながら、手早くヴルストカレーを平らげた。
次年度のナックルシティ王立アカデミアへの飛び級入学を目指して、専門のチューター教育と、ソニア直伝の課題を課されているホップは、日々ポケモン研究所の見習い助手として実戦経験を積んでいる。いまは、来る試験への追い込み時期でもあり、ソニアの采配でホップの勉強に充てる時間は多く取られていた。
研究所内に、ホップの課題を解く鉛筆の音と、ソニアのキータッチの音、時折プリンターが排紙する規則正しい振動だけが響く。穏やかな日常風景の一日が過ぎるころ、過集中で時間を忘れていたホップが、ハッと顔を上げた時には閉所時間を大幅に過ぎていた。
「うわ、もうこんな時間か……ソニア?」
お茶の時間に顔を見たのを最後に、ホップの視界からソニアの姿は消えていた。バキバキに凝った肩を回しながら、ホップが立ち上がってもう一度呼ばわる。
「ソニア――ソニア? どこだ?」
広大というわけではない研究所内だが、一階奥にあるキッチンスペース、簡易なシャワーブース、レストルーム、資料保管庫を順繰り回っても、ソニアの姿はない。中二階に広がる書籍ブース、さらにその奥に続く仮眠室へ向かう途中、ホップは夕刻近いやわらかな光に照らされる温室の中に、見慣れた黄昏色の髪を見つけた。
そこには、ホップも幼いころから気に入っているおおきなベンチがある。そのベンチを覆うように、ソニアの祖父が植樹して、以来彼に手入れ方法を伝授されたソニアが、丁寧に世話をしているジャカランダの木があった。
遅咲きの花を咲かせるその下で、ベンチに腰を下ろしたソニアが、幻想的な紫の光の中夢を見るようにほほ笑んでいる。そのまなざしの先を無意識に追ったホップは、――そこに薄明の髪の少年を見た。
ソニアの目の前で、彼女を慈しむように見つめる彼の眼差しは、金。未成熟な華奢な身体に重そうなチャンピオンマントを羽織り、その手でソニアのほほをそっと包んでいる。
「――ソニア!!」
思わず、ホップがおおきな声で叫んだ。階段を駆け下りて、温室へ続くガラスの扉を乱暴に開けると、ジャカランダの花の甘ったるい香りがむせかえるように充満している――否、ジャカランダの花に、香りはほぼない。その異様な状況に、ホップは反射的に袖口で鼻と口を抑えた。
「……ホップ?」
ハッと我に返ると、ベンチに座るソニアが不思議そうにこちらを眺めている。彼女の他には誰もおらず、ホップは混乱したように前髪をかき上げた。
「ソ、ソニア……」
「どうしたの? そんなに慌てて」
「い、いや……いま、ここに誰かいなかったか?」
「え? いないよ、誰も」
ソニアが笑う。彼女の手にある古い木箱が、ジャカランダの花びらをまとって、美しい紫の装飾を施されたように輝いていた。
「ホップ~、寝ぼけたな、さては?」
「いや……えっと、そうなのか、な?」
そう言われると、先ほどまでむせ返るようだった甘い香りも、全く感じられない。
いまにして思えば、確かに現実とは思えない光景だった。ソニアの傍らに立っていた、あれは。
――幼いころの、アニキだ。
「さーて。今日はそろそろ終わりにしよっか。ホップ、課題どこまでやった? 明日見たげるね」
「あ……あ、うん。えと、明日もその箱の調査、続けるんだろ?」
ソニアが大事そうに抱える箱。今日一日で、どれくらいの成果があったのかと窺うと、ソニアはやわらかいほほ笑みを浮かべて首を振る。
「明日は……調査はちょっとお休みしようと思ってる。ゆっくり、この箱と向き合おうかな」
「……向き合う?」
「うん。研究って多角的な視点が必要だって言ったよね。闇雲に文献を漁ってたって、わからないこともある……寄り添って、見守って、信じることも大事なんだよ」
「え……? ソニア、それってなんか……抽象的すぎて、ぴんとこないぞ……」
研究対象に寄り添って、見守って、信じる? そんな曖昧な言葉、てんでソニアらしくない。それはまるで、――生きているものを相手にしているようだった。
「ホップにはまだ、ぴんとこないか。研究って、奥が深いんだよ。これから学んでいくことだから、いまはわからなくても仕方ないね」
そう言って、ソニアはゆっくりとジャカランダの花びらをつまみ、口元へ近づける。そっとキスをするように。
ホップは、そんなソニアを見つめながら、なぜか激しい不安に襲われていた。
その日の夜、夕飯を食べ終え、日中に進んだ課題の見直しをしていたホップだったが、刻一刻と胸に積もるざわざわとした嫌な予感が、とうとう無視できないほどおおきく膨れ上がった。
「あーーーっ、もう! やっぱり、なんかおかしいぞ、ソニア!」
課題のノートを乱暴に放り投げて、ぐしゃぐしゃと髪をかきむしる。昼間のソニアの言動が、どうしても気になって仕方がない。
そもそもソニアは、どうしてダンデにメールをしなかったんだろう。ダンデが忙しいからとか、謎が解けてないからとか、もっともらしい理由を言っていたけれど、そんなことは関係なく、ソニアとダンデは恋人同士だ。まして、ワイルドエリアの調査ともなれば、ダンデの心配に気づかないソニアではない。自分のためではなく、ダンデのために、ソニアだったら連絡を取るはず。
さらに、温室での不思議な白昼夢――まるで、幻を見たような、なにかに化かされたような――
「……化かす?」
ピンとなにかが引っ掛かった。ホップは集中して思考に耽る。なにかどこかで、そんな話をしたはずだ。
――そのために、様々な擬態能力を有していたんだけど、時代とともにその信仰は薄れ、いまのミミッキュは、その名残として人々の愛情や関心を求めて、ピカチュウに擬態するとされている
――誰にだって、ひとに知られたくない一面や、ひとに愛されたいって思う気持ち、あるでしょ?
――誰かの望む自分になりたくて、時に相手を欺いてしまうような……そんな、寂しさを抱えているポケモンなのかもしれない
「……まさか? いや、でも……」
頭に浮かんだ仮説が、音を立てて組みあがってゆく。いてもたってもいられなくなったホップは、素早く湯上りの部屋着を脱ぎ捨てた。いつもの格好に着替えると、すでに家族が寝入っている家の中を音をたてないように抜け出して、一直線にブラッシータウンを目指した。
自転車で十分少々の道を、最速五分で駆け抜けたホップは、灯の落ちた瀟洒な建物の前で急ブレーキをかける。ポケットの中から鍵を取り出すと、細い懐中電灯の光を頼りに鍵穴に差し込み、それを回した。
暗い室内に入り、電飾のスイッチに手を伸ばす。パッと明るくなったそこは、昼間と変わらぬ光景が広がっていた。ホップは急いで中二階の書棚ブースに駆け上がり、古い文献の棚を漁る。
十冊目に、目当ての記述を見つけた。
【古代ミミッキュの信仰と精神汚染】
――人々の畏怖の精神を糧とする生命体は、木棺や石碑を依り代とし、信仰を集めることで神格化されていた。恐怖の感情を好み、様々な姿に擬態して人々をおびやかしていたとされるが、一方で、人間の記憶(もしくは感情)を読み、最も大切にするものに擬態することで愛着・関心を高め共依存の関係を作り、生命エネルギーを搾取していた記録も残る
――この生命体の正確な名称は謎だが、数々の類似点から、現在のミミッキュの祖である可能性が高く、かれらの生態『己の正体を暴くものへの報復』は、擬態による人々の愛着・関心を失うことへの本能的な忌避感ではないかとされる
「最も大切にするものに擬態……」
呟いて、ホップは立ち上がる。急いで階下に降りると、箱を収めたチェストの扉を開いた。
「あっ」
もぬけの殻になった棚を見つめ、ホップは冷たい汗を滲ませる。調査対象を持ち出すなんて、普段のソニアは絶対にやらない。それなのに、箱はここにはない。
つまり、いまのソニアは、間違いなく――普通じゃない。
「なんかやばい……なんか、やばいぞこれ……」
言語化できない不安に、ホップは思わずぶつぶつと独り言を言いながら、ポケットの中のロトムに呼び掛けた。
「ヘイロトム! アニキに繋いで――」
そこまで言いかけて、いつもなら素早く飛び出してくるロトムがうんともすんとも言わないことに気づく。慌ててポケットを探り、スマホロトムを取り出すと、しんと静まり返った電源はなにをどうしても起動することはなかった。
「やばいやばいやばいぞ……」
本格的に焦り、ホップはぐしゃぐしゃと髪をかきむしる。頼みの綱に連絡が取れない以上、次にすべきことは、ソニアの無事を確保すること。
自宅に箱を持ち帰ったであろうソニアに、ホップの仮説と懸念を説いて、とにかく箱から離さなければ。
そう考えて、急いで踵を返そうとした瞬間、ホップの足はまるで金縛りにあったようにビタリと止まった。
「はっ? え、なんで?」
ぐっと踏み出そうとしても、まるで鉛のように動かない。金縛りにでもあったような不自然さに、ホップは常に腰に提げているモンスターボールへ手をやりかけ、――
「ホップ」
耳元で、やわらかく笑いを含んだ声がして、目を見開いた。
「ユ、ウ――」
彼女の不思議な瞳の色。亜麻色の中に溶かしこんだ蒼や朱、真珠のようなこっくりとした色合いを覗き込んで。
ホップの意識は、ぷつんと途切れた。