臆病者の答え合わせ




「ハシノマ原っぱで、奇妙なポケモン?」
 紅茶のポットをテーブルに置いたソニアが、きょとんと目を丸くする。対面に座ったダンデは、香り豊かなティーカップを持ち上げながら頷いた。
「ああ。ここ数日、目撃談が重なってな。レンジャースタッフに確認させたが、どうも通常のポケモンとは異なる出現事例のようだ」
「異なるって、どんなふうにだ?」
 ダンデの傍らで、彼が買ってきたシュートシティの有名パティスリーのカップケーキを頬張っていたホップが、いっぱしの研究者のような眼差しで問う。ダンデはロトムに命じ、スマホに保存していた簡易な報告書を読み上げた。
「本来ハシノマ原っぱで見られない個体、現時点での報告は『デスカーン』『ヨノワール』『メタグロス』等の目撃談、及びそれらを捕獲しようとしたトレーナーの、急激な体調の悪化、一時的な記憶障害などが報告されている」
「記憶障害?」
 ソニアが眉を寄せる。それから素早く身をひるがえし、各地方のポケモンにまつわる論文や伝記などが収められた書棚へと向かった。
「記憶……記憶っていうと、やっぱり有名なのはオーベムかな。バイウールーを消した能力が本物なら、人間の脳に干渉して、記憶を操るわざもあるはず……ムウマージも、幻視能力や、鳴き声を聞いた相手に頭痛を起こさせたりする神経干渉系のわざがある……他にも、じんぞうポケモンといわれているマギアナってポケモンがいて、これは相手の意識と同調することでその思考、体調を理解すると言われてるんだけど、もしかしてその逆の作用もあり得るかも……」
 ぶつぶつと呟きながら、すごい勢いで文献を漁るソニアを、そろいの黄金の瞳で見守っていた兄弟が、思わずのように顔を見合わせた。
「ソニアが燃える事件だと思ったぜ」
「でも、目撃されたデスカーンたちには、記憶干渉のわざはないはずだろ? なんか、しっくりこないな」
 ホップが言うと、ダンデも難しげに首を傾げた。
「ああ。それに、一体としてボールに収まった報告はないんだ。ハシノマ原っぱの池のほとりが最も目撃談が多いが、時刻は決まって黄昏時。夕闇の中を浮かぶポケモンに気づいたトレーナーが、ゲットするしないに関わらず、必ず体調を崩し、記憶を混乱させる」
「ねえねえダンデくん、その、記憶の混乱って? 具体的にどんな感じ?」
 大量の資料を手に、テーブルに戻ったソニアが瞳をきらめかせながらダンデに詰め寄った。ダンデはその勢いに少々面食らうように苦笑すると、輝くエメラルドグリーンを真っ直ぐに見つめて答える。
「その報告は、まだまとまっていないんだ。症例がまちまちで、記憶の混乱とともに、頭痛や倦怠感、重度の貧血症状などで入院しているトレーナーもいてな」
「え、マジで。ちょっとそれは……」
 ダンデの方へ身を乗り出していたソニアが、唸るようにして身体を戻す。真剣な眼差しで宙を睨み、コツコツと細い指で額を叩いた。
「頭痛、倦怠感、貧血……生命エネルギーの吸収? ドレインキッス……きゅうけつ、ゆめくい? やっぱエスパーかなぁ……」
 再び没頭し始めたソニアの目の前で、ダンデがぱちんと指を鳴らす。その瞬間、夢から覚めたような面持ちで、ソニアはきょとんと眼を丸くした。
「ソニア、話はこれからだぜ。こっちを向いてくれ」
「あ……あー、ごめんごめん。わー、なんか久しぶりだな、ダンデくんの指パッチン!」
「オレも、またこれでソニアの気を引くことになるとは思わなかったぜ」
「ふふふ、懐かしいねえ、ジムチャレの時、ダンデくんよくそれしてた」
「あの時は、ソニアがポケモン研究にハマって、飯も食わなくなったから……」
「はいはい、ストップだぞ! 思い出話は後にしてくれよ、ふたりとも」
 半ば呆れたように、ホップが茶々を入れる。ソニアはバツが悪そうに頭をかいて、それからダンデに向き直った。
「ン、ごめん。続きをどうぞ」
「ああ。いまのところ致命的な被害はないが、やはりトレーナーに実害が出ている以上、放ってはおけない。というわけで、久しぶりにポケモン研究所に正式に調査を依頼したい」
 通常、ワイルドエリア内の変事には、ポケモンリーグ管轄のレンジャースタッフが初期対応を行う。事象の確認・通報を任務とし、その報告を受けて、リーグ内の調査チームが情報を精査する。たいていは彼らの知識と対応で事足りる場合が多いが、ごくまれに、学術的専門性を必要とするケースがあり、そういった場合はリーグから正式な依頼を受け、ポケモン研究所が調査を請け負う。
 これ以前にリーグ依頼で調査をしたのは、まだマグノリアがポケモン博士であり、ソニアが助手だったころ。その時のことを思い出して、ソニアはワクワクと胸を弾ませた。
「おっけおっけー。任せといて」
「……ソニア、さすがにその受け答えはどうかと思うぞ……」
 ホップがげんなりと言う。ソニアはちょっと慌てて、コホンと咳をした。
「――失礼しました。この一件、ポケモン研究所で正式に調査依頼をお受けします、オーナーダンデ」
「感謝します、ソニア博士」
 立ち上がったダンデが、優雅な一礼を返す。ソニアも慌てて立つと、精一杯の威厳でもって鷹揚に頷いてみせた。
「ええ、お任せを。必ずやご期待に添えてみせますわ」
「……ぷっ」
「……あ、こらー! 先に笑うんじゃない!」
「すまん……しかし、なんだそのキャラ設定。みせますわって……」
「いいじゃん、デキる女っぽいでしょ!」
 再びじゃれ合い始めた幼馴染同士を横目に、ホップはやれやれと肩を竦めた。
「それで、調査には誰が加わるんだ、アニキ?」
 ポケモンリーグからの正式な要請には、必ずリーグから調査チーム・レンジャースタッフの応援があり、さらに不測の事態に備えて各ジムからジムリーダーがひとり以上随行する規定になっている。
 軌道修正をしてくれた賢い弟に、ダンデは笑みを残した眼差しを向けた。
「今回は、ルリナにオーダーした」
「え、ルリナ?」
 パッと嬉しそうに顔を輝かせたソニアは、けれどすぐに眉を寄せる。
「あ、じゃあ、ダンデくんは来ないんだね……」
 その思いがけないほど素直な呟きに、ダンデがちょっと息を呑む。その微妙な一瞬のあと、ソニアは我に返ったように赤くなって言った。
「いやまあそうか、忙しいもんね、オーナー! 今日だって、わざわざ研究所まで来るなんて、相当無理したんでしょ?」
「……ああ、まあな。明日から三日間、他地方のリーグと交流試合の調整をするため、ガラルを出なきゃならないんだ」
「そっか、お疲れさま。調査の方はわたしたちに任せてよ。ルリナも協力してくれるんなら、百人力だからさ」
 にっこりと笑うソニアに、ダンデはなにかを言いかけて、それからじっと彼女のエメラルドの瞳を覗き込んだ。ソニアは思わず息を呑んで、ダンデの眼差しの先で硬直する。
「……あー! そういえば、アニキに頼みがあったんだぞ! ユウリに渡してほしいものがあるから、オレ、ちょっと家に取りに行ってくる。もう少しいられるだろ、アニキ!」
「ああ、いいぜ。行ってこい、ホップ」
 ソニアの目を見つめながら、ダンデが言う。ソニアは慌てて、弟子の方へ視線を逃がした。
「え、ホップ!」
「行ってくるぞ!」
「あ……」
 止める隙もなく、ホップは疾風のように素早く研究所を出ていった。彼なりに、兄と師匠の間に漂う甘ったるい雰囲気を察したのか、とにかく百点満点の気配りボーイだ。
 ただし、いまのソニアには、その気遣いは諸刃の剣だった。
「……えっと、ダンデくん、紅茶のおかわりは?」
 微妙な空気を振り払うように、ソニアは踵を返した。こんな時に限って、場を和ませてくれるワンパチやリザードンはいない。ふたりして温室のクッションでぐうぐうと眠っているのを横目に、キッチンの方へ向かおうとしたソニアの手を、ダンデのそれが素早く掴んだ。
「ソニア」
 その、甘ったるい蜜のようなテノールに。
 ソニアは、なす術もなく立ち止まった。
 ダンデの手が、ソニアの細い手首から、じんわりとその手の平に滑る。彼のかさついたおおきな手が、ソニアのペンだこのある細い指を労わるように包み、ぎゅっと握った。
 ソニアは真っ赤になったまま、その熱にただ震えていた。
 こんなふうに、突然ダンデの雰囲気が、幼馴染のそれから――恋人のそれに変わることを、ソニアはこの一か月何度も味わい、そしてそのたびに震えた。
 一か月前、晴れて互いの気持ちを伝え合って、真剣な交際に進んだダンデとソニアは、十七年以上の気の置けない親密さとは根本的に違う『距離』を、互いに手探りで模索していた。
「ソニア、――おいで」
「……っ」
 振り返れないソニアに向かって、ダンデが優しく囁く。未だかつて聞いたこともないような甘やかな声音に、ソニアは恥ずかしさとときめきで、上手く動けない。
 そんなソニアに、ダンデは吐息で笑ってそっと身を寄せる。華奢な双肩を片手で包み込み、その厚い胸板にそっと彼女の身体を引き寄せると、くるみこむように抱きしめた。
 そこまでされてようやく、ソニアはほっとしたように身体中から力を抜く。囁きが届いていた時よりも、肌はずっと密着しているのに、逆にその方が安心できることが、ソニアには我ながら不思議だった。
 ソニアの全身をくるんだダンデは、その黄昏色のふわふわとした髪に鼻先を埋めて、幸せそうに息を吸った。
「……久しぶりだ」
 囁く声に、ソニアはもじもじと身体を反転させて、恐る恐る両手をダンデの背に回した。そのままきゅっと服を掴んで言う。
「……うん。久しぶり」
「三日と空けずにカレーを食ってた頃が懐かしいぜ」
「ふふ……オーナー様は忙しいもん、しょうがないでしょ。カレーはどこでだって食べられるし」
「ソニアのカレーが食いたい」
「うちは食堂じゃないっつーの」
 くすくすと笑いながら、ソニアはダンデの体温に慣れ、少しだけ身体をすり寄せた。その動きに、ダンデの喉が上下に動く。
「……調査、同行できなくてすまない」
「いいよ。そのかわり、帰ってきたら連絡ちょうだいね……カレー、作ったげるし」
「……」
 ソニアの体温が、ダンデに馴染んでわずかに上がる。ダンデはそのぬくもりと香りに、一瞬強く瞼を閉じて、それからそっと彼女の肩に手をかけた。
 不意に身体を離されて、ソニアはハッと目を瞠る。ダンデの手のひらが、そのままソニアの頬に添えられて、優しいが迷いのない力で彼女を仰向かせた。
 再び真っ赤になったソニアが、所在なさげに目を泳がせる。その正面で、ダンデの引き締まった顔がゆっくりと近付いてきた。
「……ソニア」
 焦点の定まらないソニアのエメラルドグリーンは、たったそれだけの言葉でパッとダンデに捉えられる。目が合った瞬間、あまりにも間近に迫った黄金のそれの中に、自分の情けないほど蕩けた表情を見つけて、ソニアは羞恥と混乱に目を閉じた。
 そして、くちびるが重なる。最初は羽根のように軽く、ままごとのように柔く。
 その感触に、ソニアの身体が一瞬固くなり、それからじんわりと、骨が溶けるようにゆるんでくる。その隙を見逃さずに、ダンデのくちびるがソニアのそれを覆った。
 しっとりと重なるくちびるが、互いの柔らかさにちょっとだけ形を変える。ソニアの頬に添えられたダンデの手のひらは熱く、長い指がちいさなソニアの顔を包み込むように、耳の裏へ潜った。
「……ん」
 その微妙な刺激に、いつもソニアが声を漏らす。ぞくりとした彼女の震えと呼応するように、ダンデのくちびるがゆっくりと動いた。
 粘膜同士をこすり合わせ、彼のくちびるがソニアのそれをぴったりと塞ぐ。ごく自然な流れでソニアの耳の下から首筋、うなじの方へダンデの指が滑ると、ソニアはちいさく震えながら、必死に息を継ぐ。
 たまらなくなって、ソニアが口を開けるタイミングを、ダンデが逃すことはない。
 ソニアの息継ぎに合わせて、厚い舌が口内にもぐりこんだ。舌先がこすり合うと、ソニアはいつも逃げ出したくなる。
「……っ、」
 ちゅく、と水音が響いて、ソニアの舌がダンデのそれにゆっくりとからめとられた。まるで捕食するように、じっくりと彼女の薄い舌を舐るダンデは、ソニアの身体が小刻みに震え、真っ赤になった耳朶が熱をもってダンデの指先に触れると、ようやく離れる。
 それから、至近距離で彼女のエメラルドグリーンの瞳を見つめた。
「……ソニア」
「……ダンデ、くん」
 潤んで揺れるエメラルドに、ダンデの蕩けるような黄金の瞳が重なる。
 ソニアはこくりと喉を鳴らし、一度瞳を閉じると、ゆっくりとダンデの肩に手を添えて、拒絶というにはささやかな力でわずかに押した。
「……も、そろそろ、ホップ来る……」
 舌っ足らずな声。常に明晰に、はきはきと話す彼女のそんな頼りない声色に、ダンデの中の獰猛ななにかが再び荒れ狂いそうになって、けれども鋼の精神力がそれをきれいに覆い隠した。
「ああ、そうだな……ソニア。くれぐれも、気をつけて調査してくれよ」
「……うん、わかってる。ダンデくんも気をつけてね」
「ああ」
 頷いて、ダンデはソニアの手の力に逆らわず、わずかに身を引いた。ソニアは思わずほっとしたように息をつき、それからハッと慌てて顔を上げる。
 ソニアの正面で、ダンデは優しくほほ笑んでいた。
「調査が終わったら、ゆっくり会おうぜ、ソニア」
「……うん」
 その笑い方が、一瞬前までの恋人のそれではなく、慣れ親しんだ幼馴染の笑みだったから。
 ソニアは無意識に安堵して力を抜くと、荒れ狂う心臓の鼓動をごまかすように笑った。





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