fugue




 まだ肌寒い朝の五時。ソニアは、眠たげな目を瞬かせる相棒ワンパチを連れ、3番道路を自転車で進んでいた。
 アーマーガア・タクシーを使おうかとも思ったが、基本的に駅や主要都市、観光地、認可されたルートを運航するサービスであるガァタクでは、今回の目的地である未開放の旧鉱層遺跡帯は立ち入り制限がある。さらに、早朝のブラッシータウンにタクシーの乗りつけは非常に目立つため、ソニアの心理的にも自転車移動の方が都合がよかった。
 昨日、シュートシティから帰ったソニアはほとんど休まずに動き、自分が長く不在になっても大丈夫なように段取りを組んだ。実際、短くても数週間、長ければ二か月以上をかけて調査するつもりだ。
 そのくらいあれば、きっとこころの整理もつくだろう。
 朝日が昇り始めた影は長く、空気は朝靄を含んでしっとりと冷たい。自転車の籠に入ったワンパチが、短い前足をちょこんとそろえ、湿った空気にぴすぴすと鼻を鳴らしている。ソニアは相棒のいつも通りの様子に、久しぶりにそっとほほ笑んでいた。
 こういう時間の積み重ねで、きっとちゃんと、ダンデくんの前に出ても笑えるようになるはず。
 結局実らなかった、たったひとつの初恋の花も、時間とともに色あせて、いつか風化するだろう。
 ソニアは、なにもしなかった自分の弱さを知っている。ダンデの功績の眩しさに怯え、何者でもない自分には、決して手が届かないのだと言い訳をして、生ぬるい幼馴染の距離に満足していた自分の狡さを知っている。
 その結果、ようやくなりたい自分になれたけれど。
 代償のように、長い初恋は終わったのだ。
 欲しいものをすべて手に入れられる人生なんて、きっとない。ソニアは、ダンデの隣に立てる自分が欲しかった。けれど自信をもって彼の傍らに立つ準備が整った時、その場所には他の人がいて、ソニアにはポケモン博士として生きる道が残った。
 どちらも、ソニアにはなくてはならないものだったけれど。
 ダンデを困らせたり、苦しませたりするくらいなら、未練がましく初恋の亡霊になるつもりはない。きっちりと引導を渡し、自分の気持ちの墓穴を掘るための、二か月だ。
「……ワンパチぃ~、頑張ろうねぇ」
「ぬわふっ」
 調子のいい相棒の返事に、ソニアはまた少し笑った。
 エンジンシティ南口からモノレールで北口へ移動し、4番道路を通ってターフタウン南部へ。のんびりとした朝のターフ市街を北上して、門外の自然調査エリアへと到着すると、時刻はちょうど、昼食の時間だった。
「さーて。調査前に、しっかり腹ごしらえしようね。みんな、お待たせ~」
 小高い丘の上の、梢を渡したオークの木の下で、ソニアは簡易なキャンプの準備をすると、腰に提げたボールホルダーから今回の仲間たちを呼び出した。
 現れたのは、ランプラー・ゴルーグ・ガラルマタドガス。彼らに相棒のワンパチを加えた四体が、今回のソニアの調査メンバーだった。
 いままで何度もソニアの調査に協力してくれたポケモンたちなので、気心は知れている。バトル対応の個体ではないが、ソニアによってわざや指示系統の調整は完璧に行われており、同種個体と比べても、格段に知能指数が高いのが特徴だった。
 自分の作ったカレーを美味しそうに食べる仲間たちに癒されながら、ソニアは丘を渡る六月の風にふと眼差しを上げた。
 遠くに見えるターフタウン北部――廃鉱となったガラル鉱山跡地には、未踏の鉱層遺構が存在する。そこに、原初のガラル粒子と呼ばれる謎の空間干渉因子が存在していることを知ったソニアは、ブラックナイトと恐れられていた歴史の真実を通じて、ムゲンダイナが放出する高エネルギー波……現在ガラル粒子と呼ばれている因子と、空間干渉因子が融合し、ダイマックス現象が起きるという仮説を立てた。
 まだ、海のものとも山のものとも知れない推論だが、掘り下げる価値は十分にある。これが証明されれば、ガラル特有とされるダイマックス現象に、またひとつ解明の光を当てることができるだろう。
 マグノリア博士の正式な後継者として、ガラルポケモン博士を名乗る以上、一生をかけてその謎を追い続ける。ソニアの目標であり、存在意義であり、そしていまは――
「……素敵な逃げ道だね、ソニア」
 皮肉げに呟いて、ソニアは食べ終わった食器を片付けようと立ち上がる。ゴルーグが案外器用にそれを手伝い、マタドガスはふわふわと漂いながら正常な空気を排出し、ランプラーとワンパチは仲良くじゃれ合っている。
 そんな光景に背中を押されて、ソニアは気を引き締めながら調査へと向かった。
 


 狭い坑道を進むソニアの前に、低空を飛ぶランプラーの淡い灯が届く。苔むす道を慎重に下りながら、ソニアは手にした粒子測定スキャナに時折目をやり、所々で立ち止まってはモバイル端末に入力を続けた。
 あたりにはうっすらとした風の流れがある。人工の坑道の先には、古代ガラルが育んだ自然の鍾乳洞があり、迷路のように入り組んだそこは、崩落や水没の危険な箇所も多い。ソニアはゴルーグとマタドガスに前後を守ってもらいながら、ランプラーとワンパチのサポートを受けてじりじりと進んだ。
 やがて、少し開けた場所に出た。天井を見上げると、はるか遠くこぶしほどの大きさに切り取られた青空が見える。湿った空気中には時折赤い靄のようなものが漂い、マタドガスがそれを認識して正常な空気へと入れ替えていた。
「ここ……大分、ガラル粒子が濃いな」
 測定値を確認しながら、ソニアがぶつぶつと呟く。もう少し奥に行けば、原初のガラル粒子と思しき因子が反応するフィールドに出るはずだ。
 迷路のような坑道の先に目をやったと同時に、天井の青空が一瞬陰り、ソニアの耳に大きな翼の音が届いた。
「……えっ!?」
 ハッとして天井を見上げると、こぶし大の空に、なにか大きなものが旋回しているのが見えた。まさか、と一瞬で閃いたソニアが、蒼白になる。
「リザードン……?」
 野生の大型ポケモンの可能性ももちろんある。むしろ、ここに『あの子』がいるなんて、伝説ポケモンに出会うよりも確率が低い――

 ――ソニア

 遠くで、名を呼ばれた。
 その、声に。
 ソニアは、肌が泡立つような衝撃を覚え、我知らず胸を押さえた。
「ダ……ンデ、くん……?」
 まさか。まさか。そんなはずはない。
 でも。もしかしたら。
 ソニアはハッと我に返り、坑道の入口に残してきた痕跡を思い出した。単独調査の場合、何事か不測の事態に備えて、一日経つと自動的に救難信号を発する仕掛けを施すのが鉄則だ。それを見れば、ここにソニアがいることは一目瞭然だろう。
 そして、ダンデが駆けつけてくる。
 なんのために?
 急ぎの用事だろうか。ホップには、三日に一度連絡すると言ってある。それも待てないほどの、急用?
 もしかして、おばあさまかおじいさまになにかあったのかも……でも、そうであれば、ホップには緊急用の通信手段を教えてある。電話は通じないけれど、衛星電波を通じて、モバイル端末に信号を送信すれば、折り返しソニアから連絡があると知っている。
 だから、緊急事態ではない。
 じゃあ、どうして?
 同じ疑問がぐるぐると回り、ソニアは気分が悪くなった。こうしている間にも、ダンデがこちらに近づいてくると思うと、シュートシティの回廊で盗み聞きしてしまった、彼のやわらかな声がよみがえる。

 ――彼女とは、いまも付き合いはあるぜ。離す気はないからな

「……っ、みんな、逃げるよ!」
 ソニアの命令に、四体は何事かと一瞬戸惑い、けれどすぐにその意図を汲んで動いた。
 坑道の狭い道へと、ランプラーが先行する。その光に導かれて、ソニアは足早に進んだ。背後を守るゴルーグは、転びそうになるたびソニアの腕を取り、時にはひょいとその身体を持ち上げて、悪路を行く。マタドガスは時折煙幕のような濃い煙を吐き出し、ワンパチは警戒態勢で背中をぱちぱちさせていた。
 闇雲に進んでは、迷ってしまう。ソニアは焦りながらも、手元のモバイルに目をやって、人工坑道の正しい道を進んだ。自然の鍾乳洞に出るまでは、ルートは確保できる。
「イヌヌワン!」
 その時、ワンパチがひときわ大きく鳴いて、脇道を振り仰いだ。人が通れないほどの細い縦穴の向こうから、一拍遅れてにゅるんっと姿を表したのは、一体のドラメシヤ。愛嬌のある瞳できょろきょろと見回すと、ソニアの姿を認めて嬉しそうにクルリと回った。
「あっ、ダメ、待ってドラメシヤ!」
 ソニアは、おそらく先遣隊として派遣されたであろうちいさなドラゴンに声をかけ、懐から恐ろしい速さでモーモーチーズを取り出す。ダンデのドラメシヤには、何度もカレーをごちそうしてきた。かれの好物など、お見通しだ。
 思った通り、ドラメシヤはチーズの魅力にすっ飛んできた。自分の役目も忘れ、ソニアの手からちみちみとチーズを与えられ、ご満悦で漂っている。ソニアはドラメシヤの頭を撫でながら、猫なで声で囁いた。
「いいこね~。ここにわたしがいるって、ドラパルトに教えないでいてくれたら、もっとたくさんチーズあげちゃうよ~」
 きゅしゃ? と首を傾げるドラメシヤに、ソニアはにっこりと優しく微笑んだ。ドラメシヤはわずかに迷うように瞳をさまよわせ、大好物のチーズに再びかぶりついた。
「よしよし、いいこ……」
 ソニアがほっとしたのもつかの間、ゴルーグがぐぉん、と唸る。ハッとして顔を上げると、そこでは壁を抜けてぬっと現れたドラパルトが、なんとも言いがたい目つきでソニアを見つめていた。
「うわっ、ドラパルトぉ……」
 その声に、買収されていたドラメシヤが、慌ててボスの元へ戻る。ドラパルトは呆れたようにくるりと目を回し、それからじっとソニアを見つめた。ジムチャレンジ時代からの付き合いであるドラパルトに、無駄な抵抗はよせよ、と諭されているようで、ソニアはぐっと喉を鳴らす。
「ドラパルト、お願い、見逃して!」
 とにかく、この場は逃げなくてはいけない。ダンデがどんな用事でここへ来たかは知らないけれど、いまはまだ、平静を装って彼と対峙できる自信がない。
 勝手に恋をして、勝手に失恋して、勝手に気まずくなっているのは、ソニアの事情だ。
 ダンデには、これっぽっちも悪いところはないのだから。
「このままじゃ、ダンデくんに迷惑かけちゃうから! ね、お願い、見逃して……」
 ソニアの必死な様子に、ドラパルトはただ黙って浮かんでいる。ダンデの元に戻ってご注進をするわけでもなく、さりとてソニアに同情するふうでもない。ただただ、呆れたように瞳を細めるドラパルトに、ソニアは恥ずかしくなった。
「うぅ……わかってる、わかってるよぉ……ただの時間稼ぎです。でも、せめてもう少しくらい、こころの準備をさせてくれてもいいじゃんよぉ……」
 泣き言を言いながらも、ソニアはドラパルトに背を向けて、再び坑道の奥を目指した。このままでは、きっと追いつかれてしまう。鍾乳洞まで出れば、入口とは違う出口があるはずだ。
 ワンパチが、心配そうにこちらを見ている。ふわふわと先行するランプラーも、ソニアの背後を守るゴルーグもマタドガスも、ソニアの焦燥や不安に反応するように落ち着かなくなっていた。
「ごめん、ごめんねみんな……うう、もう少しだからね」
 もはや、自分がなにをやっているのか、なにがしたいのかわからなくなっていた。
 思えば、昨日シュートシティから逃げ帰ってから、ソニアは夢中で身体を動かし続けた。当座の仕事を片付け、外部との段取りを調整し、自分が姿をくらませるための準備に奔走した。そのまま一睡もせず、妙に気分が高揚した勢いで、自転車で調査に出発。そしてそのまま、薄暗い地下坑道を進み、挙句の果てにはダンデと鬼ごっこ。
 無敵のアドレナリンと、失恋によるショック状態の貯金が、そろそろ底を尽きかけている。
 それでも、まだ、ダンデに会える自信がない……
 幼馴染の顔で笑って、彼のために育てた恋心を殺す準備が、まだできない。
 ただ、ただ、もう少し。もう少しだけ、時間が……
 その時、シャリン、と金属が鳴るような音と、なにかがぶつかって歩行する音が背後から聞こえた。ぎょっとして振り返ると、狭い坑道を縦になり横になりながら、ギルガルドとオノノクスがこちらへやって来る。
「きゃーっ、もう、なんなのー!」
 ソニアは思わず叫びながら、残り少ない坑道をひた走った。馴染み深いポケモンたちである。追いつかれても、身の危険を感じることはこれっぽっちもない。
 けれど、追いつかれたら、かれらのおやがやってくる。
 いま、ダンデと顔を合わせてしまったら――
 自分が、なにをしてなにを口走るか、全然予想がつかなかった。
 坑道の終わりは突然現れ、眼下に自然の力が作り上げた巨大な鍾乳洞が広がった。ソニアは反射的にゴルーグの腕にしがみつき、ワンパチを小脇に抱いて叫んだ。
「ゴルーグ、みんな、鍾乳洞の底に飛んで!」
 その命令に、ゴルーグは足から放つジェット噴射で飛び上がった。ランプラーとマタドガスもそれに続き、ソニアたちは一足飛びに鍾乳洞の底へ向かう。
 薄暗い底面へ降り立つと、マタドガスがガスの動きで出口を見つけ、ソニアに示した。ソニアはワンパチを下ろし、ゴルーグに礼を言って走り出す。
 とにかく、ここから出て、それから。
 ああ、それからどうしよう? 一生、ダンデくんから逃げ隠れするの?
 ぞっとするような疑問に、ソニアが息を詰まらせる。十七年以上の恋心を葬るのに、二か月もあれば大丈夫なんて、誰が言った?
 本当に、下手をすれば一生、自分はダンデから逃げ続けなければならないのかもしれない。
 ――そんなこと、絶対に嫌だ。
 暗い道の先に、かすかな光が見えた。ソニアは息を切らせてそちらへ向かう。ここを出たら、ダンデくんに言おう。きみのことが好きだったけど、もう諦めるねって。だけどきっと、上手く諦められないかもしれない。だから、ダンデくんも協力して、わたしの初恋にとどめを刺してよ……
 わたしひとりじゃ、もうどうしようもできないんだから。

「……ソニア」

 眩しい自然光に目がくらんだソニアの耳に、やわらかなテノールが響いた。
 彼女の身体を抱きとめるように、横ざまから腕が伸びて、薄明の髪がばさりと覆いかぶさってくる。ソニアはカクンと力を失い、そのまま倒れこむようにその腕に身を投げた。
「……ダ、ンデ、く……」
 ゼイゼイと息を切らせるソニアに、ダンデはにっこりとする。キャップのつばを押し上げて、ちいさいころのように、屈託なく笑って言った。 

「――オレの勝ちだな、ソニア!」

「……うん、もう、いいや……」
 くたびれ果てて、ソニアは抵抗する気も起きない。間近できらめくダンデの黄金の瞳が、蕩ける蜜のように滴っていて、その視線に捕えられたら、どうやったって抗えない。
 逃げも隠れもできないのなら、もう、ソニアには諦めることしかできなかった。
「……で、ダンデくん。今日はなに……?」
 ぐったりとダンデの腕に体重を預けながら、ソニアが問う。ダンデは、ちっとも重さを感じていないふうにソニアの身体を支えて、彼女の瞳を間近に覗き込んだ。
「ちょ、近い近い……っ」
 睫毛の影さえ触れそうな距離に、ソニアはさすがに慌て抗う。ぐいぐいと押し返されるのにもめげず、ダンデはソニアの移ろうエメラルドグリーンの瞳を執拗に追いかけて言った。
「ソニア。きみは、オレから逃げたのか?」
 嘘やごまかしを許さない真っすぐな視線に、ソニアは咄嗟に瞳を閉じた。目の動きだけで、彼はソニアの虚勢を見抜く。けれど結局、そのまなざしから逃げたことがそのまま答えになっていた。
 ダンデはソニアの腰を強く抱き寄せる。幼馴染同士とはいえ、大人になってからこれほど近しく触れ合ったことはない。ソニアは、間近に迫るダンデを前に、無防備ではいられなくなってしぶしぶ目を開けた。
 眼前には、案の定ダンデの強い瞳。黄金の色が、いつもよりも濃く、赤銅の色を滲ませている。
「ソニア。オレには、きみがどうしてオレから逃げたのか、その理由はわからない」
「……だよね」
 改めて言われると、ソニアの恋心が生々しい血を流す。ダンデのこころに、他の女性がいることを知っても、ソニアにはなんの関係もないのだと、念を押して言われるのは辛い。
 けれどダンデは、俯こうとするソニアのあごに手を添えて、彼女の視線を決してそらさないままに続けた。
「だけど、きみに去られて、オレが必死で追いかけたいと思った理由ははっきりしてる」
「え?」
「もしもきみが誤解していて、だからオレから逃げるんだとしたら、きっちり捕まえて、言わせてもらうぜ!」
 目を丸くするソニアに、ダンデは間髪入れずに叫んだ。

「オレの特別な女性は、きみだ! 誰とも比べられない、誰にも代わりはできない、オレの唯一は、きみだ、ソニア!」

「……」
 ダンデの言葉に、ソニアは目と口を真ん丸に開いて絶句した。
 その表情に、ダンデはじわじわと眉根を寄せた。本当に、こころから驚いているらしい幼馴染に、理不尽とわかっていながらも恨み言が漏れる。
「……少しくらい、自覚していてくれてもいいと思ってたんだがな」
「……」
「オレは結構、露骨にソニアに求愛行動していたつもりだぜ」
「きゅ、きゅう、あい?」
 常日頃の聡明さなど欠片も残らず、ソニアのキャパシティはとっくに容量を超えていた。はくはくと口を開閉する彼女の混乱を、ダンデは好機と捉えたのか容赦なく続ける。
「往復五時間かけて、ソニアに一目会うためだけにブラッシータウンに通ったり、日々の電話をマメにかけたり」
「え、だってそれは……」
「論文や研究書の読み込みなんて、雑で単純な言い訳を、まるっと信じてたのか?」
「……だって、ダンデくん……」
 本当に、かげりなく幼馴染の顔だった。どんなに大人びても、どれほど見違えても、ソニアと会う時は、ダンデはいつも、ハロンタウンの少年の顔をしていた。
 だからソニアは、安心して――
「……ソニアが、オレに幼馴染以上を求めていないのは、わかってたさ」
「!」
 寂しげに苦笑するダンデに、ソニアは思わず絶句して、それからぶんぶんと首を振る。
「ち、ちが、ちがうよ、それは違う」
「ああ、わかってる。幼馴染以上を求めない、じゃなくて、その先に行く余裕がなかったんだろ」
「う、うう……」
 ズバズバと言い当てられて、ソニアはもう、情けなくて涙が出そうだった。願わくは、ワンパチの陰に潜ってちいさくなりたい。けれどダンデは、決して手を緩めずに、ソニアに俯くことすら許さなかった。
「ソニアが進む道が難しいことも、それに全力だってことも知ってた。だからオレは、きみがこっちを向くまで気長に待つことにしたんだ」
「あ、う……」
「それでようやく……ようやくだ。最近になって、きみが少し緩んできた。ポケモン博士になって、目標を達成して、ようやくオレに目を向ける気になった」
「うぅ……」
 ダンデの言葉に、ソニアは思わず目を伏せた――自分でも気づいていたことだった。
 ブラックナイトの真相を知り、それを著した本が認められて、晴れてポケモン博士を名乗ることができた時。
 いままでの努力も苦労も、これからの展望もなにもかも、すべてかすむほどの勢いで、ダンデへの思慕が溢れてしまった。
 まるで、必死に堪えてきたダムが決壊するように。ポケモン研究に身を捧げ、幼馴染の前で取り繕うこともなく自然体でいられたソニアが、一転して全身で恋をする娘になった。
 自分でも、恥ずかしいほどの変化に戸惑い、混乱していたソニアが――ようやく。ようやく、自分の想いと真っすぐに向き合う覚悟を決めようと、そんな矢先――
 あの雑誌が、刊行されたのだ。
「……オレは、好機とばかりに策を弄した。直接言ってまた逃げられたらたまらないから、外堀を埋め、既成事実を作り、逃げ道を塞いでからゆっくり勝負しようと――」
「だ、……ダンデくん、ちょ、もういい、もう、わかったから……」
「――思ったんだが、オレのミスできみに誤解させた。余計な気苦労をかけてすまなかった、ソニア」
 静かに呟き、ダンデはじっとソニアの瞳を見つめた。ソニアは、もう隠しようもなく赤く熟れたほほを震わせて、エメラルドを潤ませる。
「わ、わたしも……自分に自信がなくて、ずっと気持ちをごまかして、それなのに、どこかでダンデくんはいなくならないって自惚れてて……そんな中途半端なくせに、いざダンデくんがよそに行っちゃうって思ったら、もう、どうしようもなくなっちゃって……うう、ごめん、ごめんなさい、ダンデくん……」
「ソニア」
 ソニアの告白に、ダンデは太陽のように破顔して、潤んだソニアの瞳にそっとくちびるを寄せた。瞼を閉じた瞬間こぼれた涙が、厚いくちびるに吸われて、ソニアはぶるりと震える。
「――ダンデ、くん」
 わななくくちびるで紡がれる名前に、ダンデは幸せそうに瞳を細める。
「ソニア……」
 もう、言葉はいらない。
 そのまま、ちいさなくちびるを塞いでしまうべく顔を寄せたダンデの耳に、ソニアのかすれた囁きが届いた。

「――も、限、界……」

「え?」
 はたと目をやると、ソニアのエメラルドの瞳がぐりんとひっくり返った。
 真っ青になって仰向く彼女を、ダンデは慌てて抱き寄せる。
「ソ、ソニア! おい、ソニア!!」
 ダンデの呼びかけに応えたのは、安らかなソニアから漏れる、深く長い寝息。
 極限状態で緊張の糸を途切れさせたソニアが、夢の中に旅立ったことに気づいたダンデは、唖然と目を丸くしながらも、しっとりと重さを増した華奢な身体をさらに抱き寄せる。
 それから、無防備に意識を手放す幼馴染――願わくは、起きたら恋人と名乗らせてもらいたい――の白いほほにフライングの口づけを贈り、いつの間にか自分たちを取り囲むポケモンたちへとのんびりほほ笑んだ。
「さあ、みんな帰るぞ」
 収まるところに収まったあるじたちを寿ぐように、ポケモンたちはいっせいに甘えた鳴き声を上げる。ソニアはその声に一瞬だけむずがるように眉を寄せ、それから安心してダンデの肩にほほをすり寄せた。





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