fugue
バトルタワー広報室。
新たなガラルの主興業であるバトルタワーの、渉外事業を一手に担うそこは、責任者にタワーオーナー秘書室長のオリーヴを擁する、組織の要ともいうべき部署である。
前バトルリーグ委員長、マクロコスモスグループ総帥という、ガラルそのものを牽引してきた時代の風雲児ローズの秘書として仕えてきたオリーヴは、一時はローズの罪に連座し、表舞台から消えようとしていたが、他ならぬローズの説得により、彼の正式な後継者と目されたダンデの補佐をする道を選んだ。
あくまでも、ローズの望みだからという姿勢は崩さない彼女だが、仕事に関しては正確無比。一分の隙も無い辣腕ぶりは健在で、チャンピオン時代とは異なる世界での一歩を踏み出そうとしているダンデの、これ以上ない右腕である。
その日も、オリーヴはいつも通りの正確な時刻、バトルタワー秘書室へと現れた。
身に着けるものは、ローズの秘書だったころと変わらず、白いリクルートシャツの上から赤いチューブトップ、黒のタイトスカートにストッキングと黒いハイヒールを履き、お決まりの白衣を颯爽と羽織っている。隙のないメイクと気だるげな表情は、どれほど仕事が立て込んでいようと、現場が混乱しようと、決して崩れることはない――
「……は?」
直通の内線電話が鳴り、コンマ一秒でそれを受けたオリーヴの、三白眼気味な瞳がわずかに丸くなった。それから、額に落ちかかった髪を抑えながら、呻くように呟く。
「……わかりました。すぐに行きます」
通話を終え、デスクの上のヤブクロン型置時計を確認すると、時刻はきっかり九時。
――早すぎる。
事が動くとは予想していたが、まさかこれほど早いとは。
オリーヴは二秒だけ、項垂れてため息をつく自由を自分に許した。そしてそのまま、さっと顔を上げて背筋を伸ばし、秘書室長室を出る。アシスタントに広報室へ向かう旨を伝えると、重役用のエレベーターで真っ直ぐに目的の階へと降りていった。
扉が開くと、常には華やかで活気のあるフロアが地獄のように静まり返っている。社員たちは遠巻きに奥のブースを見つめ、半透明のガラス張りのそこには、時折薄明色の影が見え隠れしていた。
「オ、オリーヴ様!」
彼女に気づいた社員たちが、一斉に救世主を見つめるように迫ってくる。オリーヴは細い指を軽く振り立て、いつもの冷静な口調で命じた。
「業務に戻りなさい」
その言葉に、広報室の時間が動き出す。ぎこちなく持ち場へ戻る社員、その中から、年かさの管理職が額に汗を滲ませて近づいてきた。
「オリーヴ様……」
「聞いているわ。対応は、誰が?」
「広報室長と、『Battle Focus』編集長、担当ライター、広報主任です」
「……」
責任者が雁首を揃えている。彼らの説明も説得も、一切通用しないほどの事態なのだろう。泣きそうな声でオリーヴに助けを求めてきた、編集長は旧知の仲だ。百戦錬磨の彼女でも、伝説のディフェンディングチャンピオンの迫力には太刀打ちできるはずもない。
オリーヴは迷いのない足取りで、来客用の接遇ブースへと進んだ。
「……ですが、オーナー。スポンサーの意向に逆らうことは、現時点のバトルタワーの運営上リスクが高すぎます」
扉を開く直前、広報室長の絞り出すような声が聞こえた。彼の正面に座る薄明色の髪の男は、静かとさえいえる声音で答える。
「オレのインタビュー記事を『意向に逆らうもの』と断じるスポンサーなら、タワーオーナーとしてビジネスは続けられない。チャンピオン時代とは違うんだぜ」
穏やかな返答に、広報室長は息を呑んだようだった。声色や口調では決して図れない、滲み出るような憤怒の迫力が、扉を通してですら伝わってくる。彼は十年、ガラル中の期待、憧憬、興奮を背負ってきた。陽のエネルギーを請け負えるということは、反転すればすさまじい陰の力を発することができる。
オリーヴは意を決して、静かに扉を開いた。
「オーナー。お待たせしました」
現れたオリーヴに、ダンデの金の瞳が向けられる。表情や物腰には一切出ない彼の感情は、その黄金の瞳が、どろりとした溶岩を溶かしたように赤黒く光っていることから十分に察せられた。
「オリーヴ」
チャンピオン時代、幼かった彼のサポートも担っていたオリーヴには、敬称がつけられていた。けれど、リーグ委員長、バトルタワーのオーナーとして新たな関係を築くにあたり、オリーヴからの要請で、それを取り去っていた。
目の前に座る男は、もはや幼さなどどこにも見当たらない。オリーヴは、気圧される自分を叱咤するように、静かに対面の席に着く。
「ご用件を、もう一度説明していただけますか」
「君も噛んでいるんだろう。重々承知のはずだ。オレは言い訳を聞きに来たんじゃないぜ」
すっと明度が下がる瞳。どこまでも重々しく、滑らかに語るダンデのオーラが狭い接遇ブースに満ちていく。息継ぎさえ難しいほどのプレッシャーに、オリーヴ以外の誰も顔を上げることができない。
オリーヴは、丹田に力を込めて真っ直ぐに視線を返した。
「ここにいる担当者が申し上げたことは、言い訳ではなく状況の説明です」
「オレの言ったことを捏造し、故意に誤解を与えるような文言に変えたこと、それに対する説明は『スポンサーの意向』だと。それは言い訳とは言わないのか?」
「事実です。オーナーの語られたプライベートな話は、オーナー個人の問題ではなく、バトルタワー、ひいてはバトルリーグの経営に打撃を与える可能性があります。開業間もないバトルタワーにおいて、スポンサーの意向は死活問題です」
「言い訳だな」
切って捨てるように言うと、ダンデは胸の前で腕を組んだ。
「そもそも、オレのプライベートが問題なら、最初から特集記事なんて組む意味がないだろう。もはやチャンピオンでも公人でもないただの企業人に、エンターテイメントのパブリックイメージを引き継ぐ必要はない」
「それは違います、オーナー。貴方はバトルタワーオーナーである前に、十年無敗のディフェンディングチャンピオンです。その一挙手一投足に、国民の関心は集まって当然でしょう」
「その国民が、オレのプライベートを知りたがっている。だから、包み隠さず明らかにした。そこに捏造を加えることは、国民に対する裏切りじゃないか?」
「……タワーの運営が軌道に乗ったとはいえ、まだ危うい時期です。貴方のイメージが、バトルタワーの浮沈にかかわることは事実です」
「そこがそもそも違うんだ、オリーヴ」
断固とした声音が、オリーヴの次の言葉を奪った。
「チャンピオン時代のオレは、ポケモンバトルを『魅せる』エンターテイナーだった。力を誇示し、観客たちを魅了し、バトルの世界に没入させる、いわば『象徴』だ。だから、そこにオレ個人の色が乗ることは、決して許されなかった。ローズさんは、オレを無色透明のチャンピオンの器に仕立て上げ、オレを通じてファンひとりひとりが、そこに自由な色を見た。オレは、オレでありオレではない『チャンピオン』として、舞台に生きていた」
ダンデの言葉に、その場にいた者たちが思わず顔を上げ、自分たちの憧れであり、絶対の王者だった青年を見つめた。青年の眼差しは、いつしか穏やかな金の色に戻り、そして誰をも魅了する輝かしい笑顔を浮かべている。
「それがオレの望みだったし、みんなの望みだったろう。だが、時代が変わった。オレを降したチャンピオンが、オレと同じチャンピオン像を踏襲するかはわからない。彼女には、彼女の色があり、みんなはそれを求めている。そしていま、オレはひとりの企業人として、バトルタワーの運営に携わり、その責任を負っている。だが、それはあくまでビジネスであり、オレ個人をエンターテイメント化して行う興行じゃない」
ダンデは言って、再びオリーヴを真っ直ぐに見つめた。
「仮に、オレがタワーの運営において不適格だと見なされれば、挿げ替えればいいだけだ。すでに、バトルタワーの社会的意義、有益性、経済効果など、十分周知されている。オレの存在ひとつでどうこうできるような脆い構造じゃないはずだ」
「それは……」
「そのうえで、オレの存在が貢献している部分も少なからずあるだろう。だが、さっきも言ったけれど、オレはもはやエンターテイナーじゃない。ひとりのポケモントレーナーであり、企業人であり、ただの『男』だ」
厳しく言ってのけ、ダンデはじろりと周囲を睥睨した。そこにいた『大人』たちは、無意識のうちにこの年若い青年を、偶像のように扱っていたことに気づく。彼は十年、ガラルの象徴として生きた。その呪いのような献身を、当たり前だと思っていたことに、彼らは初めて気が付いた。
わずかな沈黙の後、オリーヴのため息が空気を変えた。彼女は落ちかかる長い髪を額から払い上げながら、こわばった表情で瞳を閉じる。
「……全面的に、貴方の方に理があります、オーナーダンデ。深く陳謝申し上げます」
その言葉と同時に、責任者たちは我知らず頭を下げていた。ダンデは、その光景に頷いて、ニカッと笑う。
「ああ、謝罪は受け入れたぜ! じゃあ、次はリカバリーの相談だ」
雰囲気が明るくなったと見て取ると、さっそく編集長が真摯に請け負った。
「はい。次号のBattle Focusに、訂正記事と、インタビューの完全版を掲載します」
「オレが語った『ジムチャレンジ時代』の思い出、そこがそっくり抜けたせいで、『彼女はすでに現役を退いている』という文言が、事実と異なるものになった。きちんと『ポケモンバトルから退いている』と明言してほしい。それから、あの最悪な編集注記はすべて訂正だ。彼女が『一般人』だなんて、ガラル中が聞いて呆れるぜ」
次々と飛び出すダンデの指摘に、編集長と担当ライターがメモを取り始めた。あらかた終えると、オリーヴを残して関係者たちがブースを出ていく。
ふたりきりになると、オリーヴは少しだけ砕けた口調で呟いた。
「……本当にいいの? 今回、やり方はどうあれ、対応としては間違っていたとは思えない。貴方の『特別な女性』の存在に難色を示したスポンサーは大手よ」
それに、ダンデは襟元のジャボタイを寛げながら苦笑する。
「大手とはいえ、彼らのご意向がそのままバトルタワーの指針を左右できると勘違いさせても困るだろう。そもそも、あちらの望みは、令嬢とオレの縁組だ。永遠に叶えられない『ご意向』に振り回されるくらいなら、ここらへんで切っておいた方がいい」
「……今回のこと、彼女には伝えているの?」
その問いに、ダンデは少々不器用な笑みを浮かべた。
「いや。……というか、事後承諾で逃げ道をつぶす作戦だった」
「……呆れた。もし、うまくいかなかったらどうするつもりだったの?」
「その可能性は、考えてなかったな!」
パッと無邪気に笑って、ダンデが立ち上がる。オリーヴは心底軽蔑したように、その三白眼気味の瞳を据わらせて言った。
「言わせてもらいますけどね、オーナー。そもそも、貴方がインタビューのゲラをチェックすることを怠った職務怠慢も、今回の騒動の原因のひとつです。自分と彼女の人生を左右する大博打を打ったのなら、最後まできちんと責任を持ちなさい。貴方は昔から、どこか詰めが甘いというか……」
「おっと。それを言うなら、オレが絶対に激怒するってわかってて、スポンサーの意向を汲んだオリーヴにも責任はあるぜ。そもそも、プライベートを記事にするって案が出た時点で、オレがなにを言うかなんて察してたんだろう?」
「……十年グズグズしていた人が、ここで博打を打つなんて、誰が想像するのよ」
ムスッとして呟くオリーヴに、ダンデは勝ち誇った顔で答えた。
「ここで博打を打たないなんて、それこそあり得ないだろう! 勝機を逸するのは主義に反するぜ」
それから、すっかり不機嫌になったオリーヴに、すっと表情を改める。完全に『オーナー』の顔になったダンデは、有無をも言わせぬ口調で命じた。
「オレはこれから、休暇に入る。調整は任せた」
「は?」
ぎょっとするオリーヴに、ブースの扉へ向かうダンデが背中越しに手を振った。
「オレが煮え切らない事に愛想をつかされたなら納得もいくが、オレが攻勢に出たせいで誤解されて、結果逃げられたらまだ勝ちの目はある。悪いが、ソニアとオーナー業を天秤にかけるなら、オレの答えは決まってるぜ」
「ちょっ……」
立ち上がるオリーヴは、そのまま振り返らずに出ていったダンデの薄明色の髪を見送って、それから長く重いため息をついた。
「……オリーヴ、キレそう……!」
奥歯を噛みしめながらも、怒涛の勢いでオーナーのスケジュールを調整し始める。優秀で有能な秘書室長の伝説が、またひとつ更新されたのは言うまでもない。