fugue




 ブラッシータウンのポケモン研究所まで、ハロンタウンのホップの自宅から歩いて三十分。自転車ならば十分程度の距離だ。
 研究所の業務開始は朝九時だが、下っ端研究員(見習い助手)であるホップは、誰よりも早く出勤することを心がけている。
 研究所にはもうひとり、謎めいた女性研究者が常駐していたが、いろいろあって現在はホップがその穴を埋めている。もちろん、なんの修行も学業も納めていない、まさに駆け出し研究者の少年には、難しいことを任せてもらえるわけがない。だからこそ、ホップはどんな雑用でも全力で取り組み、ソニアから得られるものは細大漏らさず吸収しようと日々邁進している。
 そんなわけで、早朝の開錠作業も、ホップの大事な仕事のひとつだった。
 一昨日は結局、研究所の片付けもそこそこにげきりんの湖に向かい、色違いヨーギラスには会えなかったものの、ユウリとの時間を楽しむことができた。
 向かう途中で、ソニアから『ゆっくりしておいで。明日はお休みにしたげるから、ユウリと仲良くね』とのありがたいメッセージをもらい、お言葉に甘えて久しぶりにキャンプをすることになった。
 ダンデを降した新たなチャンピオンとして、一年近く前から離れてしまった隣家の女の子は、毎日の目まぐるしさをちっとも感じさせない元気はつらつな様子で、久々に会えたライバルにあれこれと近況を語った。ホップもまた、ソニアの下で学び始めた山ほどのエピソードを熱く語り、結局夜も白々と明けるころまで、二人のおしゃべりが止まることはなかった。
 その後、改めてげきりんの湖を中心に珍しいポケモンを探したり、お互いの手持ちたちを存分に遊ばせたり、ナックルシティでランチを食べたりと、ここしばらくのデータ処理で溜まった疲れを発散するように英気を養い、ユウリと別れてからは真っすぐに帰宅して、ぐっすりと眠った。
 そうしてようやく思い出したのが、ダンデのインタビューが載っている雑誌の存在だ。
 チャンピオン特権で発売前の記事を読んだらしいユウリは、にまにまと可愛らしい笑みを浮かべながら「まだ全部は読めてないんだけど、ちらっと見た限り、ダンデさんてばすんごい攻勢に出てたよ~」と、謎のコメントを発していた。
 気になったホップは、いつもよりも早起きをして研究所へ向かった。到着すると、まだ七時にもなっていない。正面玄関の鍵を開け、ステンドグラスから漏れる朝日が美しい温室を臨む、レトロで格調高い研究所に足を踏み入れた。
「おはよーございまーす」
 誰もいないとわかっているが、癖であいさつをする。そのまま、空気を入れ替えるため窓へと向かう前に、本日の業務内容が書かれているはずのホワイトボードへと目をやった。
 バトルタワー案件は一昨日で一段落ついたから、次に取り組む予定だったキルクスのガラル粒子北方分布のデータ整理かな。それとも、ナックルシティのポケモンラボとの共同研究に着手するとか……
 というようなことをつらつら考えていたホップの目に飛び込んできたのは、ボード一面にびっしりと書き込まれたソニアの文字。それは少なく見積もっても、今後数週間のホップの作業を事細かに指示しており、結びには一言、こう書かれていた。

『わたしはしばらく、フィールドワークに出ます。電話は通じないから、緊急時以外連絡はしないように。三日に一度、こちらから定期報告をするので、作業に不明点があったらそれを待つこと』

 その、やや一方的な指示に、ホップは思わず眉根を寄せた。
 いつものソニアならば、自分が責任者である研究所を長く空ける場合、事細かに段取りを相談して、ホップに共有するはずだ。一昨日の様子では、フィールドワークに出るなんて微塵も言っていなかったし、ホップに突然の休みをくれるくらいには、差し迫った案件もなかった。
 それに、ここに書かれた指示も妙だ。まるで、自分はいつ帰ってくるかわからない、とでもいうように、ルーティンワークをすっかり任せている。ソニアの権限でしかできない仕事は、おそらく前倒しにこなしているのだろう。下手をすれば、数か月単位で戻ってくるつもりはないのではないか。
 これはおかしい、とホップは不安になった。
 誰かに相談しようと考えて、真っ先に思い浮かんだのはダンデの顔だった。ソニアの変事に兄の姿が重なるのは、もう癖のようなものだ。逆もまた然りで、ダンデがムゲンダイナとの戦いで大怪我を負ったとき、ホップがいの一番に連絡したのも、母親とソニアだった。
 けれど、ソニアがポケモン博士として下している判断ならば、マグノリア博士に相談する方が筋が通っているかもしれない、と冷静に思い直す。ソニアと同居している博士なら、より詳しく彼女の状況について知っているだろうし、まずはそこへ確認を……と、ホップがロトムを取り出そうとした時、目の端に映ったダンデの写真に動きを止めた。
 一昨日、ホップがバタバタと研究所を飛び出した際、自分の机に置きっぱなしだった雑誌が、ソニアの机に乗っている。
 そんな些細な違和感だったけれど、ホップの中の“勘”が反応した。
 まるで匂いでもかぎつけたみたいに――妙な胸騒ぎが、じわりと広がった。
 ホップは雑誌を手に取り、パラパラと読み進めた。他愛無い話が続き、無敵のチャンピオン・ダンデのプライベートに迫る内容は、兄のファンにはたまらないだろうと感想を抱きつつ、話は核心へと迫る。

 ――バトルタワー開設という偉業を成し遂げたオーナーダンデの、支えとなっているものはなんでしょう?
 ――そうですね。家族や友人、そしてチャンピオンだったオレを応援してくれた人たち、みんなが支えです。ただ……中でも、特別な存在は、いますね。
 ――それは、どういった『特別』ですか?
 ――(考えるように沈黙して)彼女は、誰とも比べられないほど『特別』な人です。
 ――相手は、女性?
 ――ええ。他の誰にも、彼女の代わりはできない。オレにとっても……そして、ガラルにとっても稀有な存在だ。
 ――ガラルにとって……と言いますと、著名な方でしょうか?
 ――そうですね。才能も、情熱も、そして実績もある。まさに、ガラルの至宝と言っても過言ではありません。
 ――その女性は、オーナーダンデにとって、恋愛の対象、ということでしょうか?
 ――恋愛の対象、というか……。オレには、彼女しかいませんね。

「アニキ! 駄々洩れだぞ!!」
 思わず叫んで、ホップは真っ赤になった。
 自分の兄であるダンデが、自分の姉のようなソニアに対し、幼いころからある種執着じみた気持ちを抱えていることに、ホップはだいぶ前から気付いていた。
 七歳年上のダンデは、ホップが物心ついた時にはすでに、シュートシティで雲の上の人になっていた。無敵のチャンピオン、無敗の王者。そんなふうに、ガラル全土を巻き込む英雄として、常にホップの憧れの先、目指すべき場所に君臨していた自慢のアニキは、けれど誰がどう見ても幼馴染の女の子にぞっこんだった。
 往復に五時間もかけて、たった数十分の他愛のないお喋り。そんな、今時プライマリースクールの女の子だってあくびをしてしまうようなささやかな交流でさえ、ダンデの幸福に満ちた笑顔を引き出す特効薬だ。
 幼かったホップは、ダンデのその執着は、家族に向けるそれだと思っていた。ソニアはアネキのような存在で、アニキにとってもそうなんだろう。
 そんなふうに思っていたけれど、ホップ自身が成長し、思春期を迎え、誰とも比べられない『特別』な女の子が現れた時、ダンデのソニアに対する感情が、間違いなく『恋』だと気づいた。
 恋でなければ、なんなのだ。五時間もかけて、たったの数十分話すことも、電話で呼び出されるや否や、げきりんの湖まで突っ走ってしまうことも、恋でなければ説明がつかない。
 恋を知ったホップにとって、年上の兄たちのつかず離れずなやり取りは、もどかしくもじれったいものだった。どう見ても、お互いに好き同士じゃないか、なんて、傍目八目なアドバイスを何度飲み込んだだろう。
 兄が母親の胎内に忘れてきたデリカシーまで余計に備えたホップには、そんな無粋なことはできなかったけれど。
 それなのに、これは。
 改めて雑誌を見つめ、ホップは確信した。
 突然、トップギアに入れて、ダンデがソニアをゲットしようとしている。
 間違いなく『攻勢に出ている』ダンデの、あからさまに外堀を埋める作戦に、ホップは思いがけないほどの照れくささを感じて雑誌を閉じかけ――
 ……待てよ。ソニアはこれを、読んだんだよな?
 自分の机から、ソニアの机に移動していた雑誌。幼馴染のプライベートインタビューに、興味がわかないはずがない。
 ……その結果の、今朝なのか?
「……まさか、ソニア。アニキのところにいる、とか?」
 新たに浮かんだ可能性に、ホップの頬がさらに赤くなった。
 長年の両片想いが成就した勢いで、一気に事を進めたのかもしれない。今頃、ダンデの住まうシュートシティのペントハウスで、仲良く朝食なんて食べていたりして……
「い、いやいや、まさかそんな……え、まさかな?」
 思春期の少年には、少々刺激が強い想像だった。まして、幼いころから知っている兄と姉代わりとあっては、羞恥と戸惑いと幸せを祝う心がぐちゃぐちゃになって、目が回りそうだ。
 いったん落ち着こう。ホップは気恥ずかしい想像から目をそらすように、兄のインタビュー記事に目を戻す。
「……ん?」

 ――ということは、オーナーダンデの恋人ということでしょうか?
 ――それは、ご想像にお任せしますよ。ただ、彼女はすでに現役を退いています。なので、これ以上の詮索はご容赦ください。

「……んん!?」

『編集者注:オーナーが語る『特別な女性』は、すでに表舞台から身を引いた一般女性。取材・撮影等はご遠慮いただきたく、詳細は非公開とさせていただきます』

「な……なんなんだ、これ!?」
 思わず叫んで、ホップは雑誌を握りこんだ。
 この書き方では、まるでソニアではない、別の誰かのようだ。
 『現役を退いている』なんて、ソニアにはまったく当てはまらない。『表舞台から退いている』わけがなく、『一般女性』という表記だって怪しい。新進気鋭のポケモン博士としての活躍は、ガラル中が知っている。
 こんなふうに書けば、誰もソニアだと思わない。
 ソニアだって、きっと。
「……!!」
 ここに至って、ようやくホップの危機察知能力が最大音量で警報を鳴らした。
 ロトムを取り出して、上ずった声をあげる。
「ヘイロトム! アニキにつないでくれ!」
 時刻は、ようやく七時を回ったところだった。けれどきっと、兄は起きているだろう。手持ちのポケモンたちの世話は自分の手でというこだわりから、朝は忙しいんだ、と笑っていたのを思い出す。
 コール音は長く続かず、すぐに聞き慣れたダンデの声が流れた。
『――おはよう、ホップ。早いじゃないか』
「アニキ!」
 思わず叫んでしまってから、ホップは慌ててつばを飲み込んだ。まだ、なにも確かなことはわからない。ソニアの姿が消えたことを、そのままダンデと直結するのは、もしかして早計かもしれない。
 それでも、ホップのうなじの毛をざわざわとさせる嫌な予感は、刻一刻と大きくなっていた。
『どうした、ホップ。緊急案件か?』
「えっと……そうだぞ。ソニアの件で」
『ソニア? ソニアがどうかしたのか』
「アニキ……」
 ピリッと緊張を帯びたダンデの声音に背中を押され、ホップはわずかに震える声で答えた。

「――ソニア、家出したかも」





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