fugue
ソニアの内心がどうであれ、陽はまた昇り、日常は容赦なく始まる。
朝九時発の汽車に乗って、シュートシティへ向かうソニアのこころは、寝不足で荒れた肌のようにボロボロだった。
ルリナおすすめの高級パックや美容液は、本当にいい仕事をしてくれた。いつもより少し濃いめのメイクも、上手に目の下の黒ずみを消してくれている。ティーンのころから化粧や美容に興味を持っていてよかった、と、つくづく思った。
のどかなブラッシータウンの田園風景を眺めながら、ソニアはぼんやりとこれからのことを思った。
これから、なんて具体的な未来は、そもそもなかったのだけれど。
昨日、ダンデのインタビュー記事を読んで粉々になった恋心は、今朝もまだじくじくと赤い血を流している。伊達に十年以上しつこく想い続けていない。失恋しました、はい残念次いこう! と切り替えられるなら、この世に失恋ソングなんて流行らないだろう。
ただ、ソニアは一縷の望みに賭けていた。
あの記事は、過去のこと……ダンデくんの初恋の話、なのでは?
我ながら往生際が悪いとは思うが、雑誌に載ったダンデの言葉に、多少の違和感があった。
まず、いま現在ダンデの周囲に『ガラルの至宝』とまで言わしめる女性の影が見当たらない。
もちろん、ダンデの私生活のすべてを知っているわけではないが、多いときは三日と空けずに研究所に来ては、カレーだのサンドウィッチだの簡単な軽食に大喜びをして、黙々と論文や研究書を読み漁り、暇さえあればワイルドエリアやガラルの隅々までポケモンを探しに行く(迷子、ともいう)時間の使い方では、特定の女性と付き合っているとは考えにくい。
――チャンピオン時代に幅広く交流を重ねた『ガラルの社交界』で、高嶺の花を射止めた可能性もなくはないけれど……それを突き詰めて考えると、ソニアの恋心が悲鳴を上げるので、意気地がないとは自覚しながら、必死に目をそらしている――
そして、ダンデはインタビューに対し、はっきりと『恋人』とは明言しなかった。
本当に付き合っている相手がいるのならば、彼はごまかしたりしないような気がする。相手が一般人だからといって、あそこまで好意を駄々洩れにした相手ならば、きっぱりと交際を宣言し、その上で圧力をかけて報道を規制する方が、ガラルの王様には相応しい。
以上の根拠から、ソニアが導き出した推論――
あの記事に書かれた『特別な女性』は、過去にダンデのこころを奪った、思い出の女性なのでは?
ポケモンバトルのことしか頭にないと言わしめるほど、その方面の情緒発達に疑問を感じるダンデだが、彼とて健全な、もうすぐ二十三歳になる青年だ。ソニアが知らないところで、目くるめく思い出のファム・ファタルと出会っていたとしたら……
それはそれで、かなり辛い……けれど、まだソニアにもチャンスはある。
これまでの十七年少々、全く女性扱いされてこなかったとはいえ、それはソニアの方にも問題があった。
ポケモン博士という過酷な道を歩むと決めたソニアは、一般的な女の子の何倍も生き急ぎ、夢に向かって突っ走った。気が付けばダンデは遠い遠いところにいて、それを寂しいと感じる暇もないほど無我夢中で努力した。ソニアの方からダンデに連絡を取ることはほとんどなく、同じく子供らしからぬ多忙なダンデが、思い出したように繰り返す短い連絡だけが、蜘蛛の糸のように細く脆くも続いていた。
そんなふうだから、五歳のころから知っている男の子を『異性』として認識したのは、記憶にないくらい曖昧な変化だった。
約一年前、目標だったポケモン博士に任じられて、輝かしい功績が認められた。それは様々な人の力を借り、決して自分一人では成し得なかった偉業だったけれど、間違いなくソニアの人生において、ひとつの大きな山場を超えた瞬間だ。
目標に向かって突っ走ってきた努力の天才ソニアは、その時ようやく、自分のこころに『ポケモン研究』以外の大事な大事なものが、ずっと眠っていたことに気が付いたのだ。
つかず離れず傍にいた、十七年来の幼馴染。
いつの間にか、怖いくらいに好きになっていた。
『好き』の種類が変わったわけではなく、たぶん五歳のころからずっとこころに芽吹いていたものが、年を経るごとにじわじわと、自分でも気が付かないうちに容赦なく、濃く鮮やかな花を咲かせていた。
今更『初恋だったんだなあ』としみじみ自覚するほどに、ソニアの中にはダンデしかなく、現在進行形でその地位は不動だった。
けれど、自覚したからといって突然態度を変えることもできず、十七年の気の置けない距離感は、恋の自覚に戸惑うソニアには悪魔的に心地よく、つい、ずるずると時ばかり過ぎて――
そしていま、現実に打ちのめされている、というわけだ。
「……いや、でもまだ、まだ終わりじゃないよね?」
ダンデのこころにどれほど素晴らしい『ガラルの至宝』が輝いていたとしても、いま現在、彼の傍に彼女がいないのならば、それはおおきな意味を持つ。
あのダンデが――十年無敗の伝説のガラルチャンピオンが、欲しいと思った女性を、手に入れられなかったということは。思い出に変えて、慕情を封印していたとしたら。
それは、なんらかの『絶対に無理な理由』が、あるはず。
――あのダンデくんが、手に入れるって決めた相手をみすみす逃がすはずないもんね。
ソニアにとって、ダンデという男への不思議な信頼が、そう思わせるのだ。
そうならば、まだ、ソニアにも足掻く余地はある。
ダンデがいくら、思い出の女性に想いを寄せていても……『彼女しかいない』と言わしめていても……
十七年以上の重くてしつこい恋情は、そう簡単に諦められないのだ。
そう思いながらも、ソニアはずきずきと痛む胸を抑え、ため息をつく。そろそろひんし状態が近い、悪あがきだとわかっているけれど。
まだ、とどめの一撃は届いていないから――
ポケモン勝負のように、最後の最後まで、なにが起きるかわからないのが世の中だ。
遠くに見えるナックルシティの尖塔を見つめて、ソニアは細い指を組み、祈っていた。
バトルタワーのガラル粒子測定は、ローズタワーという名称のころにはなかった作業だった。結果としてポケモンをダイマックスさせるに足るガラル粒子を発生させていた施設だったが、そこでポケモンバトルの興行をすることはなく、粒子の安定的な発生を保証する必要がなかったからだ。
けれど、バトルタワーと名を改め、ダイマックス及びキョダイマックスバトルを行う施設になった以上、ガラル粒子の精度、安定、調整は必須事項となった。ちょうど、マグノリアからポケモン博士の業務をおおよそ引き継ぎ始めたソニアにとっての、初のメイン案件である。
そういう事情から、測定の結果報告には、わざわざブラッシータウンからソニア自らが出向いていた。事業が軌道に乗れば、この作業もデータのやり取りだけで済ませられるだろうが、いまはまだソニアの『ポケモン博士』としての顔つなぎと、不測の事態に対応する機動性が求められていた。
昨日の今日で、ダンデと顔を合わせるかもしれない事は気が重かったが、それはソニアだけの都合だ。ダンデはソニアの気持ちには気づいていないし、あのインタビューを読んだソニアが、どう感じるかなんて全く考えてもいないだろう。
つくづく、自分はオンナとして見られていないなあ……などと、自虐的に考えながらも、ソニアは寝不足による集中力の散漫を気力でもたせて、なんとか報告と説明を終えた。
「――以上で、四半期の粒子報告を終わります。なにかご質問は」
小会議室に顔を出した面々の中に、ダンデはいなかった。バトルタワーのオーナーとして、彼は細大漏らさず現状を把握するために、あらゆる業務に関わっているが、今日はランクアップ挑戦者が多く、表舞台に出張っているらしい。
タワー事業が軌道に乗るまでは、陰に日向にダンデの責任は重い。つくづく、英雄気質だとソニアは感心していた。
ダンデのいない会議は、予定調和で終了した。ソニアは丁重にもてなされ、つつがなく業務を終了する。あとは帰るだけだとなった時、やっぱりダンデくんの顔だけでも見たいな、と素直に思った。
「あの、オーナーにお目にかかりたいんですけど……」
ダメもとで言うと、いつもソニアに親切に接してくれる粒子測定担当の社員が、インカムで何事かを確認し、にっこりとソニアに微笑んだ。
「ちょうどいま、ランクアップ試験が終了したそうです。オーナー控室へご案内します」
「あ、えっと、大丈夫です。場所はわかりますので、自分で……あ、でも、部外者がウロチョロしたらご迷惑か」
「いえ、ソニア博士にお預けしてますカードキーで認証される場所でしたら、すべて出入り自由です」
「え。コレ、オーナー室とかもチョクで行けるって聞きましたケド……」
「はい、オーナーのご意向ですので、ご心配なく」
満面の笑みで言う職員に気圧されるように、ソニアは素直に頷いた。タワーの中に、機密事項の場所はもちろんあるだろう。さすがにそこまでは、通れないよね……さすがに、ね……と、手にした薄いカードキーの重みにプルプルと震えながら、スタッフ専用通路をランクアップバトルフロアへ向かって歩いた。
ダイマックスバトルやキョダイマックスバトルに対応する施設は、スタジアムほどではないが十分に広大で、しかもローズタワーの名残か、スタッフ専用通路は入り組んでいて薄暗い。稀代の方向音痴を幼馴染に持つソニアは、並の人間よりもマッピング能力と記憶力に優れているため、一、二度しか訪れていないフロアを、迷いなくサクサクと進んだ。
「――お疲れさまでした、オーナー! ドリンクをどうぞ」
ちょうど、最後の曲がり角を曲がろうとした時、観葉植物の陰から声が聞こえてきた。『オーナー』の一言に、ソニアの心臓がドクンと鳴る。自分からダンデの顔を一目見ようと進んできたくせに、いざ本人を目の前にすると、昨日のショックが足を止めた。
グズグズと煮え切らないソニアが、まるで隠れるように息を潜めると、特に声量を抑えるでもない会話が続いて聞こえる。
「ああ、ありがとう。今日の挑戦者はちょっと意外だったな」
「カントー出身だそうですよ」
「なるほど。だからか」
声色だけで、ダンデが楽しそうなのがわかる。地方が違えば、ポケモンの種類も性質も、わざ構成さえ変わってくる。まだ見ぬ強者との対面は、ダンデの気分を極限まで高揚させたのだろう。
「ほのおタイプのギャロップにお目にかかったのは初めてだぜ。思わず見とれる美しさだったな……」
ダンデにしては珍しい浮ついた口調に、ソニアは炎をまとうひのうまポケモンの姿を思い出す。リザードンといい、ダンデの好みは一貫している。
「美しいといえば、オーナー」
「ん?」
「あの、雑誌の記事を読みました! それであの、聞いてもいいですか?」
ソニアの心臓が、再び強く鳴った。立ち聞きの罪悪感と、ダンデの返答を知りたい欲がせめぎ合って、息すら忘れて立ち尽くす。
そんなソニアも知らず、ダンデはバトルの昂りを残したまま、ごく自然に答えた。
「ああ、なんだ?」
「あの……オーナーの、特別な方なんですけど」
「はは。改めて言われると、照れるな」
本当に、はにかんでいる。声だけで、ダンデの無邪気な笑顔が見えるようで、ソニアはこれ以上ここにいてはいけない、と思った。
けれど、身体はどうしても動かない。そのまま、上機嫌なオーナーにここぞとばかりに問い重ねる声が続いた。
「その方とは、その後のお付き合いはないんですか?」
「ん?」
「いや、えっと……みんな気になってるみたいで。あ、でも、詮索しようとかそういうんじゃなくって、ですね」
「ははは、なんだ、きみたち暇なのか。業務分掌を見直すべきかな?」
「えっ、いや、それは……」
「冗談だ。彼女とは、いまも付き合いはあるぜ。離す気はないからな」
「あっ、そうなんですね!」
その堂々とした惚気に、若い声は照れ隠しの笑い声をあげた。きっと彼は、同僚たちにいち早くこのニュースを披露したくてうずうずしているだろう。なにせ、オーナー自らが『特別な女性との付き合い』を明言したのだから……
「……っ」
弾かれたように、ソニアが踵を返した。ヒールの音を吸い込んでくれる、毛足の長い絨毯がありがたい。そのまま、まっすぐにスタッフ通路の影を縫い、もと来た道をひたすらに進んだ。
ぐちゃぐちゃになってしまう。顔も、こころも、なにもかも。
そんな姿を、誰にも見せるわけにはいかなかった。
いますぐ、消えてしまわなければ。
『ポケモン博士』としても、『ソニア』としても、まっすぐ立っていられない。
誰にも見つからない場所で、十七年来の恋心を葬る時間が必要だった。