昨日と違う明日

 キスレブ共和国北西にある市、通称D地区。
 人類の大半を犠牲にした、凄惨を極める『大戦』以前は、そこは罪を犯した者、社会的立場の弱い者の巣窟として知られていた。軍事国家として名を馳せていたキスレブの、暗黒の部分を象徴する陰惨な歴史は、未だに人々の記憶に生々しい。
 しかし、大戦を機に国情は一変した。
 辣腕で知られるジークムント総統は、生き残ったキスレブの民を善政で導き、すでに無きB委員会、ひいてはソラリスの布いた悪政を悉く改革し、果断に国の立て直しを図った。
 その結果、総統府という機関は解散され、軍事において治めてきた国政を変革、議会制度を強化し、民主的国家として生まれ変わらせた。
 現在は、ジークムント元総統は議会の元老院議長として国政を見守るものの、実権の殆どは後進に譲り、新たな国家を築く礎として日々を暮らしている。
 そのジークムント氏が、大戦後最も頼りとし、キスレブの建て直しに多大なる貢献をした人物こそが、現在D地区の地区議長を務めている、リカルド・バンデラス。
 彼は、大戦において人類を救ったとされる一団の主力戦力であった上、伝説的なバトリングチャンピオンとしても知られた、キスレブとしてはこの上もなく有名な男であり、混沌とした大戦後の情勢において、彼が重用されることに異議を唱える者など皆無に近かった。
 そのため、ジークムント氏とリカルド・バンデラスとの間にある個人的な繋がりを知る人間は、未だ一握りしかいない。
 しかしこの先も、恐らく両名ともその事実を公にすることはないだろうというのが、事情を知る者たちの一貫した意見であった。
 それはさておき。
 今やキスレブ共和国において、最も意欲的に復興を遂げているD地区。その地区議長として中央政権にも進出しているリカルド・バンデラスの日々は多忙を極めた。
 元来は、政になど興味も意欲も皆無の、屈強なバトラーである彼にとって、一つの街の運営を任され、人々を纏め上げる責務を負った現状は、決して望むところではない。
 けれど、情勢が彼を自由にすることを許さず、人々が彼の統率力と決断力を望む今、生来男気のある兄貴肌の彼は、その全ての期待に背くことなどできるはずもなく。
 その日もまた、深夜に近い時刻になって、ようやく自宅への帰路についたのであった。
「議長、お疲れ様でございました」
 玄関先まで送ってきた部下に、さしもの屈強な男も疲労が滲む苦笑を浮かべた。
「おう。お前も早く帰ってゆっくり休め。かみさんによろしくな」
「はい。さすがに一週間も家を空けると、女房のまずい飯も恋しくなりますよ」
 本日正午まで、キスレブの中央政権であるノアトゥンにて議会が開かれていた。都合一週間ほど出張だった間、先月結婚したばかりだという新婚の部下の、惚気だか愚痴だかわからないお喋りにつき合わされていた男は、可愛げのないことを言いながらもうきうきとバギーに乗り込む部下を見送りつつ、灯りの消えない我が家を見やった。
 表札には、真新しい字体で『BANDERAS』の文字。新興住宅地から僅かに離れた、彼にとっては馴染みの深い元バトリング会場近くの一軒家の前で、家主であるリカルド・バンデラスは衣服の襟元を緩める。
 2メートルを軽く越す長身の、筋骨隆々とした彼の身頃にあった服など、そうはない。議会用のこの正装も、いわゆるオーダーメイドという奴だ。
 このご時勢に贅沢なことだと、リコは軽く肩を竦めた。着心地のいい趣味の良い服は彼だけのためにあつらえられたものであり、彼のちょっとした癖や仕種にさえぴたりとはまる、最高の意匠である。
 リコは、手にした鞄をちらと見やった。その中には、ノアトゥン出張で彼が購入した、ささやかな土産が入っている。今回の正装をあつらえた者への、感謝と労いの気持ち。
 柄にも無いことをしている自覚があるのか、リコは淡緑色の肌を僅かに火照らせて、ごほんと深く咳をした。そしてそのまま、自宅の前庭を歩き、扉の前に立つ。
 薄暗い夜の中、ぽっと灯った電飾の明かりは暖かく、リコは無意識に穏やかな瞳を向けながら、来訪のチャイムを押した。
 深夜に近い時刻でも、明かりが灯っている以上、このチャイムの音をずっと待っている者がいるのだ。
 程なく、簡素な玄関の扉が勢いよく開かれた。
「お帰りなさいっ」
 熱烈な歓迎に、リコは仰天する。勢いよく抱き付いてきたのは、癖のない金色の髪を散らばせた、彼の肩ほどにもない細身の女性。彼女は、扉を開けるや来訪者の確認もせず、しなやかな跳躍でもってリコの首に飛びついてきた。
「…ただいま」
 儀礼的に挨拶を返し、リコは俗に言う『お姫さまだっこ』の体勢で彼女を受け止めていた。彼の野太い首にしがみつき、耳元で「お帰り」を連発する女性に、呆れたような声で言う。
「まったく…いつものことながら、お前には警戒心というものがないのか、サラフィナ」
「あら…っ、だって、リカルドだとわかっていました。間違えようもないですもの」
 ぱっと顔を上げて、サラフィナと呼ばれた女性が至近距離でリコを見つめる。今まで何度となく、彼女の顔を眺めていたリコですら、そのはっとするような美貌に面食らって、不器用に視線をそらした。
「だとしても、だ。仮に、俺の他に人がいたらどうする…部下だとか」
「なにか問題があるのですか? 一週間もおうちを離れていた、最愛の、大好きな、大切な旦那さまのお帰りを、一心に喜ぶ妻に?」
「………もういい」
 悪びれずそう言って、再び自分の首に懐くサラフィナに、リコは特大の溜め息を落としてさっさと家に入った。深夜とはいえ、近所ではすでに名物となっているこの万年新婚夫婦の掛け合いを見物に来る者がいないとも限らない。
 『お姫さまだっこ』から片手で彼女を支える抱き方に変え、リコは放り投げていたかばんを掴んでのしのしと玄関をくぐった。サラフィナは上機嫌で、ドアかまちに頭をぶつけないように身を屈める。
「あなた、お疲れでしょう? お風呂が沸いていますわよ。それから、酒肴の用意も。先にお背中流しましょうか?」
「いや…軽く何か食べる。考えてみれば、昼からなにも食ってないんだ」
「まあっ、それは大変!」
 早速スープを暖めますわ、などと言いながらも、サラフィナは一向にリコから降りる気配はない。仕方なく、リコはサラフィナを抱えたまま、リビングへと足を進めた。
 と。
「…見えんっ」
「目隠しをしましたもの」
 リビングを目の前にして、突如サラフィナの細い手がリコの眼窩を覆った。突拍子もないのはいつものことだが、それにしても脈絡のなさ過ぎる彼女の奇行に、リコが渋面になる。
「何を遊んでいる。早くメシを食わせてくれ」
「うふふ…では、問題を出します。これに答えなければ、ご飯は出してあげられませんわ」
「またか…勘弁しろ」
 言いながらも、結局はこの天真爛漫な愛妻に、いつもつき合わされる苦労性の地区議長は、げっそりと肩を落としながらもその手を振り払うことなく、立ち止まった。
「問題です。今日は何の日?」
「………」
 予想通りの質問に、リコは仕方なく頭の中のカレンダーをさらう。
 今月は…確か、月初めが『初めて会った日』だったはず…『初めて名前を呼んだ日』は先週だったから、『初めて味噌汁を美味いと言った日』だったか…? いや、それは来月の末…だったと思う。
 サラフィナは、俗に言う『アニバーサリーの女』だった。
 それにいちいちつき合い、世間一般のカレンダーよりもはるかに多くの記念日(というよりも、何もない日の方が珍しい)を祝わされるリコは、仕方なくあてずっぽうで答えた。
「初めて二人で街を歩いた日」
「ぶっぶ~。違います、それは明後日です」
「…降参だ」
「リカルド、本気で考えていらっしゃいます?」
「いいや」
「もうっ」
 可愛らしく朱唇を尖らせ、サラフィナはリコの瞼から手を外した。そしてそのまま、悪戯っぽく彼の首もとに擦り寄る。
「…ごめんなさい、意地悪をしました。今日は、何の日でもありません…まだ」
「まだ?」
 怪訝そうに眉を寄せ、リコはさっさとリビングに入った。
「…?」
 と、そこに用意された豪華すぎる食事に唖然となる。
 テーブルいっぱいに並ぶ自分の好物料理に、さすがに眉を寄せた夫から、サラフィナは重力を感じさせない仕草で地に降り立つと、呆然とした彼の腕をとってテーブルに導いた。
「さあ、お着きになって。今、スープを温めます」
「サラフィナ…一体これはなんだ?」
「お祝いです」
「お祝い?」
 なおも聞きたそうにするリコを椅子に座らせ、サラフィナは上機嫌に立ち動いた。スープの大鍋に火を入れ、冷やしておいたワインをグラスに注ぎ、万事テーブルセッティングをしたところで、リコの正面にちょこんと座る。
 にこにこと笑う妻に、不審そうな顔を向けつつも、リコは食前酒で喉を潤した。
「…で?」
 湯気の立つスープを前に、リコがじろりとサラフィナを見やる。サラフィナは、絶世の美女と誉れ高い美貌を幸せそうに微笑ませて、リコの視線の先でこう言った。
「今日は、今までで一番大切な記念日になります」
「なんだ?」
「新しい家族の誕生を知った日、ですわ」
「…………」
 スープを半ば口に持っていきながら、リコの動きが停止した。
 彼の視線の先で、サラフィナは絶えずにこにこと笑っている。嬉しくて、嬉しくて、仕方がないという顔。
 対照的な表情の二人に、沈黙は長くなかった。
「…何だと?」
 かちゃり、と、リコのスプーンがスープ皿に沈む。固い声音に、サラフィナがようやく気づいたように、小首を傾げた。
「リカルド?」
「どういうことだ…サラフィナ?」
「ですから……」
 不思議そうにしながらも、サラフィナはゆっくりと、その手を下腹部に添えて。
「ここに、あなたの赤ちゃん」
「………」
 そう言って笑うサラフィナの目前で。
 リコの、表情が凍った。
「……リカルド…?」
 さすがに、様子がおかしいと悟ったサラフィナが、眉を寄せる。まるで、見えない敵とでも戦うように、厳しい表情で静止した夫に、そっとその白い手を伸ばした。
「どうかしたのですか? 怖いお顔をして…」
「……」
 伸ばした繊手に触れもせず、リコは額を抱えるようにしてテーブルに肘をついた。その拍子に、ワイングラスが傾いて、白いテーブルクロスに染みを作る。
 驚いたサラフィナは、立ち上がってリコの傍らに駆け寄った。
「リカルド? リカルド…どうなさったの? 具合でも…」
「……めだ…」
「え?」
 低く、リコが呟く。聞き取れず、さらに身を寄せて表情を窺おうとするサラフィナに、再びリコが囁いた。暗い、地を這うような声だった。
「…駄目だ…産むな、サラ」
「……!」
 瞬間、サラフィナの美貌が凍りつく。
 彼女の動揺を汲むように、リコが顔をあげた。怖いほど真剣な表情で、呆然としている妻を見つめる。
「子供は、…諦めろ」
「どうしてですか?」
 存外、落ち着いた声だった。透き通るような白い肌を真っ青に変えながらも、サラフィナはリコから視線をそらさずに、静かに問い返す。
 先に視線を外したのは、リコだった。
「言ったはずだろう…俺は、子供は好きじゃないと。結婚の条件は、それだったはずだ」
「でも、できてしまいました」
 場違いなほどあっさりした言葉に、リコは眉根を寄せた。
「……それは、すまん」
「謝られるのは嫌!!」
 突然、冷静だったサラフィナが声を荒げた。そしてそのまま、苦渋に俯くリコの頬に手を添え、無理やり視線を合わせる。
「なにひとつ、いいですか、リカルド、わたくしはなにひとつ、あなたに謝られるような覚えはありません。感謝こそすれ、謝られるようなことは!」
「…ああ、わかった。わかった…泣くな」
「泣いてなどいません」
 言って、サラフィナは素早く涙の粒をはらった。それから再び、リコに視線を合わせる。凪いだ海原のように深い瞳が、じっとリコの双眸を見据えた。
「リカルド、教えてください。あなたは何故、生まれてくる命から目をそらそうとするの? この子を、愛していないと言えるのですか?」
「……」
「目を、そらさないで。リカルド…」
「……」
 じっと己を見つめる蒼い双眸に、リコは苦しむように息を吐いた。それから、まるで壊れ物を扱うように、そっと、信じられないほど優しく、サラフィナの身体を引き寄せる。
 サラフィナは立ち上がり、椅子に座っているリコの頭を抱えるように、彼を抱き返した。さらに強く抱き寄せられたために、サラフィナは彼の膝に座って、燃えるように赤い髪を優しく撫でる。
 サラフィナの温もりに顔を埋め、リコはしばらく沈黙した。
「……サラフィナ」
「はい」
 やがて、リコが呟いた。小さな小さな、ごく僅かに震える声帯の、聞き取りにくい声だった。
「人が、亜人の子を身ごもるのは、想像以上に辛い」
「……」
「俺のお袋は、俺を生んだせいで死んだ」
 ぐ、と、サラフィナを抱くリコの手に、力がこもる。
「それに…俺には、親になる資格などない」
「……」
「生まれてきた子供が、俺と同じだとしたら…俺は、そいつに親として、なにをすべきかわからない…誰よりも、この身体の業を身に染みて知っている俺が、同じ運命をたどるだろう子供に、なんと言えばいいんだ」
「リカルド」
 強く抱きしめていたサラフィナの身体から、直接リコの身に発声の振動が伝わる。身をよじり、サラフィナはリコの顔を上げさせた。苦渋に表情を固くした夫の頬に手を添え、優しくその額にくちづける。
 それは、母親のような仕草だった。
「だいじょうぶ、リカルド。心配はいらないわ」
「サラ…」
 決然と答える妻に、リコはさらに何かを言い募ろうとして、口を閉ざした。真っ直ぐに自分を見据える彼女の双眸は、深い深い生命の色をたたえていた。
「わたくし、強いの。ご存知でしょう? あなたの子供を産めるのなら、もっともっと強くなれます。だって、母は強しと言うでしょう?」
「……」
「それに…あなたはきっと、いい父親になるわ。生まれてくる子供に、なにをすべきかなんて、あなたはもう、解っているはず」
「…どういうことだ?」
 問い返したリコの声音は、大分落ち着いていた。サラフィナはにっこりと微笑んで、自信げに答える。
「あなたを、こんなに優しく、強く、素晴らしく育て上げたお母様…例え、一緒に生きた時間が短くても、あなたはお母様の愛情を覚えていらっしゃるでしょう?」
「……」
 サラフィナの言葉に、リコは僅かに目を見張った。至近距離で揺れる彼の瞳を、サラフィナはじっと見つめる。
「わたくし、あなたに似た子供がたくさん欲しいわ…たくさん、たくさん、数え切れないくらい」
 ふふ、と、悪戯っぽく微笑む。瞳をきらきらと輝かせて、まるでいずれ訪れる未来図が、目の前に広がっているかのように。
「素敵だわ。わたくし、その子達をみんな、愛せる自信があります。あなた以上に、とは言えませんけれど、きっと私自身よりも、愛せると思います」
「…サラフィナ…」
「わたくし、母親になりたいわ。そして、あなたのお母様が、あなたに注いだ愛情を、一生懸命見習うの。そうしたらきっと、子供はあなたと同じように、素晴らしい人間になるわ。考えただけでも素敵。幸せすぎて、涙が出ます」
 揺れる大きな瞳を瞬かせて、サラフィナはこつん、とその額をリコの額に合わせた。
「ねえ、お願いです。私を母親にしてください。あなたを父親にさせてください。あなたが不安に戸惑うなら、わたくしが支えます。わたくしの至らないところは、あなたが補ってください。二人で一人の親になるの。ねえ? この子の、親になりましょう…」
 囁いて、サラフィナは自分を抱きしめていたリコの腕を、そっと下腹部に導いた。未だ膨らみすらないしなやかなそこは、けれど確かに暖かく、生命の息吹を感じる。
 無骨な手の平に柔らかな肌を感じて、リコは目を閉じた。
 やがて小さく、彼が言う。
「……解った」
「! リカルド…!」
 ぱっと額を離し、サラフィナは至近距離でリコを見つめた。大きな海原色の瞳が電飾を吸って潤み、長い金の睫毛が上向いてリコを捕らえる。
 リコは、己の妻の美しさに柄にもなく目を奪われ、苦笑した。
「産んでくれ、サラフィナ…俺の、子供だ」
「…っはい! はい、リカルド…嬉しい…大好き!」
 満面の笑顔を浮かべて、サラフィナはリコの首に強く抱きついた。さらりと肌触りのいい金の髪が、リコの鼻先をくすぐる。
 華奢な妻を抱きしめて、リコは改めて苦笑した。
「そうと決まったら…いいか、これから子供を産む間、くれぐれも自重しろよ」
 しかつめらしく言う夫に、サラフィナは上機嫌に笑いながら僅かに身を離した。
「え? なんですか?」
「まずはもちろん、バトリングは一切禁止だ」
 きっぱりとした言明に、サラフィナは少し目を見張って、それから残念そうに頷く。
「…はい、解りました」
「それから、ロードワークも中止。軽いジョギングくらいならいいが、トレーニングは却下」
「えぇ…解りました」
「それから、さっきみたいな歓迎の仕方も駄目だ。地上30cm以上のジャンプはするな」
「…でも…」
「それから、重いものも持つな。高いところにも上るな。坂道を歩くな。冷やすな温めるな衝撃を与えるな。それから…」
 延々と続く言葉に、サラフィナは見る見るうちにその花の顔容を陰らせて、恨みがましいようにリコを見据える。
「むやみに抱き付くのも禁止。朝起こす時、上に乗るのも駄目だ。それから…」
「まだあるんですのっ!?」
 元来行動的なサラフィナの生活の殆どが禁止条例になり、さすがにサラフィナは悲鳴を上げた。確かに身体は大事にするが、聞いているとまるで腕一本自由に上げられなくなるようだ。
「これが最後だ。聞きたくないか?」
「もう十分です。これ以上聞いたら、お家から一歩も出られなくなりますわ」
 可愛らしく唇を尖らせて、拗ねたようにリコを睨むサラフィナに、リコは意地悪く片頬を上げた。
「そうか…産み月までは、できるだけ俺の傍にいるように計らうつもりだったが…お前がそう言うなら、あまり拘束はしないでおくか」
「えっ?!」
 途端に、サラフィナの大きな瞳が零れ落ちそうなほど開かれる。それから、白い肌を真っ赤に染め、悔し涙さえ浮かべてリコの胸を打った。
「ずるいずるい! そんなことを言われて、わたくしが喜ばないはずがないと、解っていらっしゃるくせにっ」
「お前が言ったのだろう? 『もう十分だ』と」
「…っリカルドのばか! 嫌いです、意地悪っ」
 ぽかぽかと力の無い手でリコを打つサラフィナに、リコは飛び切り優しく微笑んで彼女の頬にくちづけた。
「悪かった。冗談だ。そう怒るな…美しい顔が台無しだぜ」
「っ…ずるい…」
 滅多に甘い言葉など口にしてくれない夫の殺し文句に、サラフィナは涙目で抗議した。けれど寄せられる唇にあっさり陥落して、そのまま幸せに瞳を閉じる。
 大人しくなったサラフィナを抱き直して、リコは満足げに笑った。
「さて、じゃあそろそろ飯にするか。さすがに出張続きで家の味が恋しくなった」
 すると、リコの膝に乗ったまま、サラフィナは悪戯っぽい瞳を笑みの形に曲げた。リコはそれに気付いて、条件反射的にぎくりとなる。
 予測のつかない愛妻の言動に身構えたりコだったが、結果は予想通り突拍子もない一言だった。
「そうですね! 精のつくものをたくさん用意しましたので、早く食べましょうv」
「ん?」
「一週間も、離れていたんですもの。たっぷり埋め合わせはして下さるのよね?」
「おい」
「さあ、食べさせてあげますわ、あ~んしてv 後で一緒にお風呂にも入りましょうね。背中を洗って差し上げますわv」
「…おい…」
 心持ち赤くなった顔を伏せて、リコは何とか威厳を取り繕ったが、天真爛漫なサラフィナがそれに怯むこともなく。
「子供が産まれてしまっては、そうそう夫婦の時間は取れませんものね。産み月までの間、じ~~~~っくりた~~~~っぷり可愛がっていただきますから、覚悟なさってね?」
「………」
 もはや反論する気力もなく。
 差し出されたチキンソテーを文句も言わず飲み込んで、リコは膝の上ではしゃぐ妻に気付かれないように嘆息した。
 もちろんそれは、幸せのため息であることは言うまでもない。


 ちなみに、無事に彼らの間に第一子がもうけられ、続いて第二、第三…と家族が順調に増えた後も、万年新婚夫婦の看板が下ろされることはなかったという。
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