あなたのそばに




 夕飯の時間になっても、バルトが現れることはなかった。
 仲間たちが食事を終えた食堂で、マルーは従兄がやってくることをじりじりと待っている。何度か部屋に迎えに行ったが、どこへ雲隠れしたのやら姿はなく、かといってフィールドに出た形跡も報告されておらず、心当たりを探すべきか、と時間とともに思い募っていく。
 それでも、しばらくは近づくな、という言葉が思いのほかマルーの行動を縛っていた。
 バルトがどうしてそう言ったのか、理由も事情もわきまえている。理性では、当たり前のことを当たり前に言われただけだと理解していても、感情はそうはいかない。バルトの傍に近づけない、その手に触れて寄り添えない、そのことがひどくマルーを苛んでいた。
「遅いわねえ、バルトったら……」
 マルーの様子を慮りながら、エリィがため息を吐く。傍らで、フェイも心配そうに眉を寄せた。
「あいつのことだから、なんか打開策を探してるとは思うんだけど……」
「ひとりで抱え込んでるよりも、とにかく皆で相談すべきだよ。なにせ、人知を超えた現象、なんだからさ」
 プリムの食事を見守っていたビリーも、毒舌をひっこめて存外心配そうに呟く。マルーの様子にも胸は痛むが、バルトの方にもさすがに同情を感じている。例えば僕とプリムがそうなったら……などと考えることも恐ろしい。
 そんな仲間たちの心配を知ってか知らずか、食堂にバルトが訪れることはなかった。しびれを切らしたフェイとエリィが、とにかくユグドラ内をくまなく探そう、と手分けする算段を立て始めた頃、食堂の奥にある厨房スペースから、司厨手の一人が慌ててやってきた。
「あの、マルー様。ガンルームよりメイソン卿から内線がありまして、至急お越しいただきたいとのことです」
「え? ボク?」
「はい、マルー様がもしいらっしゃれば、と仰っていましたが……」
 司厨手も、メイソン卿の言伝が要領を得ていない気がするのか、しきりに小首を傾げている。それにしても、ガンルームから内線での呼び出しを受けることなど、ついぞなかったことだ。マルーは、バルトの不在も相まって、嫌な予感を感じながら慌てて立ち上がった。
「マルー、俺たちも行くよ」
 フェイとエリィもマルーに同道し、三人が急いでガンルームにやってくると、メイソン卿が珍しく慌てたようにそれを迎えた。
「ま、マルー様……やはり、いらっしゃいましたか」
「メイソン爺?」
 マルーの登場に、メイソン卿は安心したような混乱したような、しわがれた声で呟いた。それから、ガンルームの奥にある二人掛けのソファに視線を送ると、そこに座る人物に皆の視線が集中する。
「えっ……」
「バ、バルト、と……?」
「マルー???」
 見ると、柔らかなソファに背を預け、長身の青年が傍らの少女と身を寄せ合うようにして座っている。いつもより少し距離が近いようだが、その光景はふたりを知る者にとって、特に驚くべきほどのことではない。
 だが、バルトに寄り添っているマルーは、マルーであるはずがない。誰よりもそれを知っている、本物のマルーが思わず叫んだ。
「若っ!!」
 その声に、傍らのマルーを見つめていたバルトがふと顔を向ける。それから、よう、と呑気な声を上げた。
「どうした、おまえら。おそろいで血相変えて」
「わ、若!」
 ここに至って、バルトの様子がおかしいことに気づく。第一、マルーがふたりいることに、まったく反応を示さないのは異常だ。
「若、その……その子は、なに」
「は?」
 マルーの問いかけに、バルトは頓狂な声を上げる。それから、傍らに座るマルーと、真っ青な顔でこちらに近づくマルーとを見比べ、さもわけがわからんというふうに首を傾げた。
「なにって、なんだよ? マルーはマルーだろ」
「ま、マルーはボクだよ!」
「ああ、おまえもマルーだな」
「おまえもって、その子は……」
「こいつも、マルーだ」
 バルトが偽りなく断言すると、傍らのマルーが嬉しそうに笑って彼の胸にほほを寄せた。あまりにも近しい距離に、バルトはけれどなんの抵抗もなく、当たり前のように彼女の肩に腕を回す。まるで恋人同士の睦言を見せつけられているような状況に、マルーはかぁっと頭に血が上った。
「違うよ、その子はボクじゃない、ボクだけがマルーだよっ」
 マルーの叫びに、けれどバルトは心底わけがわからないというように眉を寄せ、不機嫌そうに言う。
「なに言ってんだ、おまえ。そんな言いがかりつけるなんて、ケンカでもしてんのか?」
「は?」
「なにがあったか知らねぇけど、あんまきついこと言うなよ。マルーは繊細なんだからさ」
 バルトの様子に、マルーはぐらぐらと頭が揺れるような混乱を覚えて、思わずへたり込みそうになった。目の前でバルトに寄り添う『マルー』は、鏡を見ているようにそっくりで、だからこそ、その得体の知れなさに恐怖心が湧き上がる。そんなものを、バルトの傍にいさせたくないと、強く思った。
「バルト」
 その時、静かなフェイの声が背後からかけられた。はっとして振り返ったマルーの目に、まるで戦闘時のように隙のない構えを見せるフェイと、同じく張りつめた表情で立つエリィが映る。ふたりの様子をマルー越しに見やったバルトが、驚いたように目を丸くした。
「おいおい、なんだってんだよ。物騒な気配させんなよ、フェイ」
「バルト。その……『マルー』と離れてくれないか」
 フェイの声色に真剣なものを感じて、バルトは面喰いながらも言い返した。
「なんでだよ? ってか、おまえらまさか、マルーになんかするつもりか?」
「バルト、その子はマルーじゃないわ」
 鋭くエリィが反論すると、バルトの肩がピクリと震える。すうっと細められた碧玉の隻眼は、気心の知れた仲間を前にして、まるで捕食者のように残忍な光を宿した。
「いい加減にしろよ、おまえら……」
 ビリビリと地を震わせるほど低い声色に、マルーが思わずビクリとなる。滅多にマルーが聞くことのない、本気で怒っている時のバルトの声。絶望的な眼差しで彼を見やると、傍らの『マルー』を庇うようにして立つバルトは、腰に提げた愛鞭にためらわず手を這わせた。
「あくまでマルーに手を出そうってんなら、たとえおまえらだって容赦しねぇぞ」
「バルト……」
 バルトの戦意に、さすがにフェイがためらう様子を見せる。このまま、狭いガンルームで事を構えるわけにもいかないし、そもそもバルトを傷つけるつもりもない。けれど、このままでは確実に、得体の知れない『なにか』に、バルトが取り込まれていってしまう。
 膠着状態だった三人の間に、その時マルーが身体ごと割って入った。
「待って!」
 バルトの殺気をもろに浴びて、マルーは震えそうになる足を叱咤する。そのまま、冷たくこちらを見やるバルトへと向き直った。
「若。その『マルー』は、若の知ってるマルーじゃないよ」
「なに言ってんだ。マルーはマルーだ」
「ううん、違う。その子は、ちっちゃい頃から若の傍で、若の役に立ちたいって願ってたマルーじゃない。自分の背中を預けられる仲間に、若がそんな冷たい目で、武器を向けようとしてるのに、止めもしないでただ笑ってるなんて、そんなのマルーじゃない!」
 言いながら、マルーはふわふわとほほ笑んでバルトの傍らに立つ『マルー』を強く睨んだ。自分と同じ顔、同じ身なりで、若の傍にいるくせに、若のことちっともわかってない!
 マルーの言葉に、バルトは一瞬眉を寄せ、それから庇うように『マルー』の前に立つ。
「いいんだよ。マルーはただここにいるだけで。俺のためになんかしてほしくて傍においてるわけじゃねえ」
 その言葉に、マルーは悔しいような悲しいような、爆発的な感情を覚えて怒鳴る。
「若のためになにかするのは、ボクの意志だ! たとえ若にだって、それをいらないなんて言わせない……っ」
 そう言って、マルーはまっすぐにバルトに飛び込んだ。彼の胸に抱きついた瞬間、焼けつくような痛みと衝撃を受けたけれど、必死に腕を回してしがみつく。少なからず衝撃を受けたバルトは、見る見るうちに青ざめていくマルーを離そうと、彼女の腕を掴んだ。
「おい! やめろ、マルーっ」
 肩を押すと、顔中に赤いやけどのような色を乗せたマルーが崩れるように倒れる。その瞬間、バルトは反射的に彼女を抱き寄せ、再び強い衝撃を受けながらも悔しげに怒鳴った。
「なんっ……なんだよ! なんで、マルーを傷つけるんだ!」
 自分の手が、肌が、彼女を苛む。今の今まで、甘い夢でも見ていたようなバルトが、目の前で苦しむマルーによってはっきりと我に返った。床に崩れ落ちるマルーから素早く身をひるがえすと、背後に立っている『マルー』に鋭い視線を向ける。
「てめえ! 何者だ!」
 『マルー』は、バルトの形相に少しだけ困ったふうに眉を寄せ、小首を傾げた。
「わか?」
 その可愛らしいさえずりも、けれどいまのバルトにとっては憎むべき敵だった。完全に鞭を引き抜き、臨戦態勢になったバルトの傍へやってきたフェイと、マルーを抱え起こすエリィも油断なく『マルー』を睨む。
 『マルー』は、悲しそうにバルトを見やり、それからおずおずと頭に乗せた花冠を示してみせた。バルトの手によって作られた、可憐な野花のそれを見て、バルトは唸るように呟く。
「……おまえにやれるのは、その花冠だけだ。おまえは、俺のマルーの代わりにはなれない」
「…………」
 バルトの言葉に、『マルー』はしょんぼりと肩を落とす。静かにほとりと涙をこぼすと、その雫が地に落ちる前に、ふっと幻のように掻き消えていた。
 まるで手品のような状況に、一瞬誰もなにも言えず沈黙が流れる。それから、はっと我に返ったバルトがマルーを振り返った。
「マルー!」
 エリィに抱えられ、床に座り込んでいたマルーは、赤みの引き始めた顔に弱々しい笑みを浮かべている。バルトは反射的に手を伸ばしかけて、ためらうように止まった。
「若」
 そんなバルトに、マルーが呼び掛ける。バルトはマルーの傍らに膝をつき、こちらに差し伸べられたその手をそっと、恐る恐る掴んだ。
 それは痛みも衝撃もなく、ただやわらかな体温を伝える。
「マルー……」
 ほうっとおおきく息を吐いて、バルトは思わずどかりと尻を落とす。フェイとエリィも、同じく安堵のため息を吐いた。
「もう……無茶しないで、マルー。あんなふうにバルトに触れて、もし取り返しのつかない怪我でもしたら、どうするつもりだったの」
 エリィが厳しげに言うと、マルーはしゅんと眉を下げた。
「ごめんなさい……」
「まあ、いいじゃないか。結果的にバルトも正気に戻ったわけだし……ていうか、バルト。あれはいったいなんなんだ?」
 とりなすフェイに、バルトは安心したのかぼんやりしていた顔をはっと仰向けて言った。
「いや、俺にもわからん。ただ……ちょっと、心当たりはあるんだが……」
「なんだよ、心当たりって」
「たぶん、アレは『石』だと思う」
「石?」
 訝しむ三人が詳しい話を聞こうとする前に、最前からはらはらと成り行きを見守っていたメイソン卿が声をかけてきた。
「若、マルー様のご様子は……」
 その言葉にはっとし、バルトは改めてマルーを見やった。マルーの顔や手足の赤味はきれいに引いていたけれど、疲れ果てたように青白い顔をしている。
「マルー。大丈夫か」
「うん……」
 頷く仕草も頼りなく、バルトはエリィに寄りかかるようにしていたマルーに手を伸ばすと、危なげなくその身体を抱きかかえて立ち上がった。
「詳しい話は、明日にでもするよ。とりあえず今日は、マルーを寝かせてくる」
「ええ、お願いね、バルト」
「無理するなよ、マルー」
 バルトの腕に抱かれて、マルーは安心したように力を抜いていた。ガンルームを後にし、マルー用の客室へと向かう道すがら、バルトはぽつぽつと事の経緯を説明する。
「じゃあ……その、石が……?」
「ああ……つっても、なんでそうなったのか、なにがそうさせたのか、さっぱりわかんねえ。あいつがやりたかったことも、わけがわかんねえし……」
 客室につき、マルーの身体をそっと寝台に乗せると、マルーは名残惜しげにバルトへと手を伸ばす。
「ね……若」
「ん?」
 互いに触れられなかった数時間、たったそれだけのことだけれど、それぞれのこころに負った傷は大きい。普段ならば、照れくさくて逃げ出したくなるような空気にも耐えて、バルトは優しくマルーの傍らに座った。
 バルトの腕に手を添えて、マルーは静かに彼の碧玉を見つめる。
「若がもし、ボクになにもしなくていいって言っても……きっとボクはまた、若のためにがむしゃらになっちゃうよ。それでたとえ、若が傷ついてしまっても……」
 その言葉に、バルトは黙ってマルーの頭を引き寄せ、自分の胸に彼女の重みを引き受けて、言った。
「……わかった。それでいい」
 自分のせいで傷つき、目の前で苦しむマルーを見るのは、耐え難い苦痛だった。
 けれど、それと引き換えに、このぬくもりが傍に在ってくれるのならば。
「けど、無茶はやめてくれ。こっちの身がもたねぇよ」
 せめてのもこころの安寧を得ようと、バルトが心底から願う。それに、バルトの胸をあたたかくさせる笑い声をあげて、マルーは答えた。
「ふふ……はぁい」
 マルーの身体は、暖かくしっとりしている。おそらくもう、だいぶ眠たいのだろう。
 そんな彼女を、けれどもうしばらく手離せそうにない。バルトはゆっくりと深く息をつくマルーの鼓動を確かめるように、そのままずっと、彼女の身体を抱きしめ続けた。



6/7ページ
スキ