彼女とわがまま
それは決して自分のためじゃなく
だけど誰のためでもなくて
許されるわがままじゃないけれど
許されなくても、もう決めたから
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「フェイ!」
タムズの雑多なブリッジを歩いている途中、背後から明るい声をかけられて、フェイは反射的に振り返った。
茶褐色の柔らかい髪を大きなリボンで一つに束ね、トレードマークであるオレンジ色の法衣を身にまとった少女は、フェイの肩口までしかない身長で、彼を見上げて微笑んでいる。
「ああ…、マルー」
知り合ったばかりの少女の名をぎこちなく呟いた青年に、まるで昔馴染みに向けるような、屈託のない明るい笑顔が返された。
「シグに言われて、若を探しに行くところなんでしょ? ボクも手伝うよ」
ちょこちょこと小走りでフェイの隣に立ち、彼の歩調に合わせるようにせっせと歩く彼女を見下ろして、フェイは小さく苦笑した。
「…あれ?」
わずかにゆっくり歩き始めたフェイに気づいて、マルーが小首をかしげる。
「もしかして、歩調を合わせてくれてる?」
「…ああ」
まっすぐに問われ、フェイは何となく気恥ずかしいものを感じて視線をそらした。彼女はさりげない思いやりやいたわりを見つけ出すのが得意で、それをてらいなく口にして感謝する姿勢を忘れない。出会って間もないながらも、フェイは何度もこの直截な好意に触れていた。
「…ありがとう、フェイ!」
そう言って真夏の太陽のように明るく笑うマルーを見ると、フェイの心も僅かに和む。相手を問わず、この少女には人を和ませる不思議な力があるようだった。
「若はね、ちっとも合わせてくれないんだ。いっつも一人でずんずん速く歩いちゃってさ、ボクはついていくの大変なんだよね」
そういって子供っぽく唇を尖らせるのを横目に、フェイは思わず頷いた。怒涛のような勢いで歩くバルトの後ろを、雛鳥のようにちょこまかとついていくマルーの様子が簡単に思い浮かぶ。
「あいつは…そんな感じだな」
「…あっ、でもね、別に意地悪してるわけじゃないんだよ。ホントに若は、歩くのが速いだけなんだ」
妙に納得した風のフェイに気づき、まるでバルトの肩を持つようにマルーが慌てて付け加える。その表情の変化があまりにも鮮やかで、まるで万華鏡のようにくるくると変わる彼女の可愛らしい幼さに、フェイは思いがけず大きな声で笑っていた。
「えっ? 何? 何かおかしい? フェイ」
突然朗らかな笑い声をあげた彼に、マルーは驚いて目を丸くする。
「い、いや…ゴメン、笑ったりして」
言いながら、フェイはすまなそうにマルーを拝んだ。マルーは腰に手を当てて、怪訝そうな顔でフェイを見上げていたが、不意に柔らかい微笑みを見せた。
「…えへへっ、いいよ、笑っても。その方がいいよ、フェイ」
その言葉に、フェイははっとする。
エリィがドミニア達に連れ去られてから、フェイの表情は暗く沈み、頭の中は彼女の安否で一杯だった。
そんな気落ちした彼を、この小さな少女はさりげなくいたわろうとしている。
暖かいマルーの気持ちに触れて、フェイは今更ながらに彼女の存在に感謝した。
そして恐らく、フェイなど比べものにならないほど彼女の存在に救われ、全身全霊を込めて守ろうとしている男のことを思いだし、ふと口を開く。
「…バルトのヤツが、言ってたんだけど…」
本当は、あまり気軽に吹聴していい類の話ではなかったが、つい先ほど素直でないバルトに邪険にされたばかりのマルーに、少しでも彼の本音を知って欲しくて打ち明けた。
「本当は、マルーにユグドラに乗って欲しくなかったって。勿論、邪魔になるとかってわけじゃないぜ。マルーがいてくれれば、クルーのやる気も出る。それは、解るだろ?」
その言葉に、マルーは少しだけ驚いたような顔をして、小さく頷いた。
「うん…」
「バルトは、マルーを戦いに巻き込みたくなかったんだ。すでに、ニサンもユグドラと大差ないほど危険だけど、それでも最前線で戦う戦艦よりはマシだろ。だから、マルーにはニサンに残っていて欲しかったんだ」
フェイの言葉に、小柄な少女は俯いていたため、フェイにはその表情を見ることはできなかった。多弁な少女が押し黙り、じっと何かを考えている様をただ見守る。
やがて彼女は顔を上げた。その表情は気高く強く、すべてを覚悟した者の瞳だった。
「でもボクは、ニサンで若の帰りを待つよりは、若の傍にいたいんだ」
「…ああ、バルトも、どのみち危険なら自分の傍で守るって…」
「ううん、そうじゃない。ボクは、若に守られたくて傍にいるんじゃない。逆だよ」
そう言って、マルーはフェイの眼前に立つ。じっとフェイの瞳を見上げ、敬虔な殉教者のようにひたむきに語った。
「ボクはいつも、若に守られてばかりだった。シャーカーンに幽閉されていた時も、若はボクを庇ってばかりで。しょうがないよね、ボクはすごくチビで、非力で、足手まといなんだから」
「そんな…」
「それでも、子供のころは若と大差なかったんだよ。若だっておチビで、弱くて…。でも、それでも若は、ボクを庇ってくれたんだ。小さな手で、小さな身体で」
マルーは言いながら瞳を閉じた。まるで、遠い昔の痛々しい記憶を、必死に呼び起こすように。
「…それからボクは、誓ったんだ。若の子分になろう、子分になって、若に精一杯恩返しすべきだ…って」
小さな拳を握りしめ、マルーはゆっくりと目を開く。その碧玉の瞳には、戦いに挑む戦士のように、強い光が宿っていた。
「だからボクは、若の傍にいるよ、若の身に危険が迫ったとき、真っ先に若を庇えるように」
「マルー!」
思わず声を上げて、フェイは少女の肩を掴んだ。
「まさか、バルトのために死ぬ気か?」
「…やだな、ボクはそこまでロマンチストじゃないよ」
「マルー…」
「でもさ、フェイ。…ボクのこのちっぽけな力で、若を助けようって思ったら、ボクの全部を捧げないといけないんじゃないかな? 昔、若がそうしてくれたように、ボクもすべてを賭けて若を助けるよ。それが…ボクの生きている意味だもの」
そう呟いて、マルーはぱっと表情を明るくした。まるで、何かを押し隠すように。
「なーんてねっ! 今のは、あくまでも心構えの話だよ! 若もボクも、そう簡単にやられたりしないって! フェイもいてくれるんだしさ」
そう言って、またちょこちょこと歩き始めるマルーの背に、フェイはせき立てられるように声をかける。
「バルトは、そんなこと望んでいないと思うぜ!」
「………」
ぴくりとマルーの肩が揺れ、足が止まる。彼女の背中に向かって、フェイは言葉を募った。
「あいつ、言ってたんだ。自分にもしものことがあったら、マルーを頼むって。それは、もしも自分が死ぬことになっても、マルーには生きていてほしいってことだろ」
「………」
しばしの沈黙のあと、マルーはくるりと振り返った。いつもの表情だったが、どことなく悲しげに見えるのは、フェイの思い過ごしだろうか。
「そんなの、わがままだよね。死んじゃった後のことまで、口出ししてほしくないなあ!」
「マルー…」
「若がそう望むなら、ボクだって望んでもいいよね。ボクが、若のためにすべてを差し出すこと。命を…かけること。お互い様でしょ? 若だけよくて、ボクはダメなんて不公平でしょ? …フェイ、ボクは何か間違っているかな…?」
静かなマルーの言葉に、フェイは答えることができなかった。やがてねじレベーターが到着の音をたて、マルーはそれを振り返る。
「…きっと、若はビアホールにいると思うよ。ボクはやっぱり、一足先にユグドラに戻っているね」
「マルー…あのさ、」
「ゴメンね、変なこといっぱい言っちゃって。フェイは気にしないで、これはボクと若の…ううん、ボク自身の問題だから。だから、今言ったことは内緒にしていてほしいんだ」
明るく笑って、マルーはくるりと踵を返す。そのまま歩き出そうとして、ふと足を止めた。
「…ホントはね、解ってるんだ…これが自分のわがままだって。だけど、今更ボクは他の方法を見つけられない。若のためにボクができることなんて、ホントにホントに…限られているんだから…」
「………」
そのまま歩き出した彼女の小さな囁きに、フェイは答えることができなかった。
いつか、彼女の悲しい覚悟を、取り払ってくれるものがいるならば…それは間違いなく、あの豪放磊落な海賊の青年だろうが、その日が早く来ることをそっと祈りながら、フェイはねじれベーターの中へと進んでいった。
End.
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