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fall out of step

端的に言えばそれから3ヶ月後、ハナは学校を辞めた。呆気なかった。
「学校、辞めちゃおっかな」。カナは自身の親より先に、そんな軽い口調で、私に告げた。夕日の差し込む、いつもの時間に。

「どうして?」

私は至って冷静に言葉を返そうとした。でも語尾が震えてしまう。なぜ、どうしてって。黒いモヤのようなものが心の中に立ち込めて、全てに覆いかぶさってしまう。大きな病気でも見つかったんだろうか。家にお金が無くなってしまったんだろうか。子供みたいな憶測ばかり巡らせてしまう自分に腹が立つ。ハナは穏やかな顔をしていた。

「赤ちゃんが出来たの。」

私の胸はドキドキした。そりゃあ、男の人と寝るということは、そういう可能性もあるって事、もちろん知っている。学校の廊下にも妊娠した時の緊急ダイヤルが書かれたポスターが貼ってある。年に1度くらい、何年何組の誰々って人が妊娠しただの噂で回ってくる。そんな時私たちは、馬鹿だねぇなんて笑いながら、どこか違う世界の話を聞いたように振る舞うのだ。
男の人と寝て、赤ちゃんが出来た。その事実には微塵も驚いていないけど、それがハナの話だということに、私はうんと仰け反りそうになった。お腹に赤ちゃんができるということは、結婚してお母さんになる準備が出来ている女の人か、馬鹿だねぇと笑われる愛することなんて分かっちゃいない子供の誰かさんに似合うことな気がする。静かな調子で男の人とベッドに入るハナには似合わないと思ってしまった。
それに、ハナは学校を辞めると言ったのだ。それは堕ろさず産んで育てることを意味している。いくらなんでも早すぎる、と思う。それに、私はもうハナのセーラー服が見られなくなることが、とんでもなく苦しかったのだ。

「彼は知ってるの?」
「いいえ。まだ言ってない。」
「早とちりしないでね。こんな事を私が言う時が来るなんて思いもしなかったけれど。」
「私すごく考えたの。真夜中も考え続けた。本当にここに赤ちゃんいるのかなって、検査も数度してみたわ。だけど何回やっても赤い線が出るし、そのうち生理も来なくなった。確かにここに赤ちゃんがいるみたい。」

この、うすら赤みがかった風の吹き込む教室には、ものの10分前まではハナと私2人きりだと思っていた。実際のところ3人だと言うのだ。まだ人の形も成していないような、しかし確かに1人の人間が、ハナの腹に宿っている。

「考えて考えて、考え続けて、その答えを出したのね?」
「ええ。」

ハナに迷いは無かった。真っ直ぐに見つめてくる、視線。あれ?と、思う。違う。ハナの視線は、もっと─────。

「ねぇハナ、説明して。うんと時間がかかってもいい。どうして、子供を産もうなんて思うの。」

不要だ。

「ハナはいいお母さんになると思う。優しいし、冷静だし、何かに惑わされることなんてないし。だからこそ、よ。どうして。」

何を言ってるの。

「……………………ねえ、ハナ。」

私はどこかおかしくなってしまったのかもしれなかった。私自身に赤ちゃんが出来たわけでもないのに、腹の奥底がじんわりとあったかい感覚がある。私の嗚咽のような無意味な問いに、ハナは私を見ながらも私でないものを見るような、そんな目をしていた。
秋の風はこんなにも冷たかっただろうか。室内灯を付けずに、日が暮れて教室が暗くなれば帰る。それが私たちの放課後のルールだった。何時に帰らなきゃとか、そうじゃない。日が暮れて風が吹き込み、カラスが煩く鳴き出せば帰りの合図だ。今の風は冷たすぎる。今の日は明るすぎる。

「鎖よ。」

不意にハナはそう言った。

「不自由って嫌いだった。子供だからとか、女の子だからとか、私だからとか、縛られたくなかった。私の人生に責任を持たない人の言葉なんて、信用して何になるの。私たちってみんな籠の中の鳥なのよね。」

チラチラ、と音がするかと思えば、ハナは右手に隠れていた金のブレスレットを器用に外した。夕日の赤とブレスレットの金が混じりあって、私は何故かその昔お母さんが飲んでいたカクテルを思い出した。

「これは彼が私を縛るためにプレゼントしてくれた。でももういいの。こんなお風呂に入る時に外さなきゃいけないような鎖でなくていい。私はもう、もっと素敵なものを貰ったから。」

ハナは私に手首を出せと言った。言われるがままに左手を出すと、ハナはブレスレットを私の手首に巻き始める。あの時落としきれていなかった赤いエナメルも、今では立派にその綺麗な爪を飾っていることを、私はここで初めて気がついたのだった。

「まだ17なのに赤ちゃんとか、早いってみんな言うと思う。ううん、私自身も本当は早いと思ってるわ。だけど、いいの。」

愛はカクテルのようなものなのかもしれない、とぼんやり思う。苦味、甘み、酸味、色々合わさってコップの中でグラデーションする、あのクラクラするような液体が。
その日ハナはいつものように、日が暮れたことを確認して「帰ろ」と私に笑いかけた。
その三日後、ハナは学校から消えた。
赤色の放課後、私は教室に満ち満ちた私たちの記憶を胸いっぱい吸い込んで、そして。
言葉にするには恐ろしい感情を乗せて、茜色の空に、金色を放ったのだ。
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