fall out of step
「まだ引きずってるの?」
ハナは眉を下げて、真っ直ぐに私を見てくる。色素が薄いから、その瞳の中心が私をしっかり捉えていることがよく分かる。ハナはクラスの女の子達には見下すわけでもなく、ただ冷ややかな目線を向けるばかりだが、私にだけはこうやってしっかりとした熱を送ってくれるのだ。私とハナの関係は友達ではなかった。かといって親友と呼ぶには近すぎる。恋人ではもちろん無い。しかし、私たちは私たち2人きりの、この冷めた放課後のお喋りが好きだった。
「あんなことがあれば、こうなってもしょうがなくないかな。」
「でもなるべくしてなってるんだから。あなたはあなただし、ご両親はご両親だし、もっと言えばお母様はお母様、お父様はお父様よ。」
私の両親は、半年前にお互いに背を向けた。私はその時になるまで、2人の亀裂に気づけなかった。2人の座るダイニングテーブルに招かれ、ドラマの裁判官が判決を言い渡す時のような重々しい父の声が告げる。
「お父さんとお母さんは別々に暮らすことにしたんだけど、お前はどうする?」
私という存在は、言わば2人の愛だと思っていた。愛しているから共に居て、愛しているからベッドを共にし、愛しているから私を産み落とした。この2人でなければ私は私でなかっただろうし、そもそも存在すらない。私は愛だ。愛だ。愛。2人が身を重ね私を存在させた時、どんなに美しくシーツの海がうねっただろう。どんなに美しく母の髪はその海に散っていただろう。一人娘である私は、これまで何一つ不自由なく17年という月日を過ごしてきた。それは私が私という存在である前に、私は2人の愛だからこそ与えられた幸福だと、信じて疑わなかったのだ。
実際のところ、私は愛でもなんでもなく、ただの子供だった。愛は地球を救うとかいう24時間テレビのキャッチコピーに惑わされた、井の中の蛙だった。私という自我は、2人が居なくなっても崩壊しなかった。しかしどこかが、着実に、崩れていく。依然として私はあまり大きくはない胸と、無駄に発達したふくらはぎを保っている。他、自身の体を触ったとて異常はない。何かが壊れていく、その感覚だけを残して、その夜お父さんは家を出ていった。翌日お母さんと2人で家の掃除をしているとお父さんのへそくり5万円が出てきた事も、お母さんはパート仲間との笑い話にしたらしい。
2人の人間が下半身で繋がって、出来た子供は愛じゃないというのか。どうせ下半身で繋がろうがWiFiで繋がろうが人は1人だとでも言うのか。無惨なものだな、と私は思った。
だから正直、もうすぐベットまで行きそうと声を潜めて話す女の子のことは、よく分からない。ベットまで行くことは決して愛の証明ではない。愛していなくともお互いの体を求めてベットで体をくねらす事はよくあるらしいし、この歳くらいの男の子のベッドの誘いは大抵がそれだと聞いたこともある。
私がその旨を正直に話すと、ハナはうすらと笑ってみせた。「やけにあなたは期待してるのね。」
「本当に相手のことが好きな純愛は世界中どこを探しても見当たらないわ。相手のことが好きな自分が好きだったり、世間体を気にして好きだと言ってみたり。色んな愛のカタチがあるけれど、1番わかりやすく相手の愛を感じられるのが、ベッドという場所だってだけ。」
「ハナの男の人への愛は本物じゃないの?」
「本物にしていくのよ、今からね。」
ハナの男の人は、車持ちらしい。どこで知り合ったとか、有名人なら誰に似てるとか、普段何をしてる人なのかとか、そんな事は私は知らない。ただ一度、学校まで車で迎えに来たのを見かけたことがあるだけで。車の硝子越しに彼を見つけたハナは、小さく跳ねた。持っていた傘の柄をより一層ぐっと握って、口角を静かに釣り上げた。熱い視線。淀みのない真っ直ぐな支線が、彼に注がれていた。
「ねぇ、ハナは今まで何人の男の人を知ってるの?」
私は尋ねた。どれくらいの人数を経験すれば、この子供じみた考えから脱せるのか、私は知りたかった。
ハナはうーんと唸りながら頬杖をつく。その時に見えたハナの爪には、落とし方が悪かったのかもしれない、赤いエナメルが残っていた。昔はお洒落なんて気にも止めなかったハナなのに、やっぱりハナは大人になろうとしている。
「忘れた。」
「初めての時ってどんな感じだった?」
「それも忘れちゃった。」
「嘘よそんなの。女の子の初めては何より大切なんでしょう?」
「誰が言ったの、そんなこと。」
私はたじろいだ。そんなこと誰も言ってはいないから。私の中に生成された、当たり前の認識だったからだ。私が返答に困り目を右へ左へとしていると、読み取ったのだろう、くすり、と、ハナは笑う。
「もうその反応が全てなんじゃないの。男の子なら抱いた女の子の数は勲章だけど、女の子は違う。そんなのおかしいと思うわ。1人愛せば純愛だけど、3人4人愛せばコメディよ。経験が増えれば増えるほど女として出来てるとか、男として良いとか、そういうの辞めよう、ね。」
そして、ハナは付け加えた。
「私ね、本気で愛した人の単なる人生の香り付けをするエッセンスにはなりたくないの。」
そう言って、ハナは彼に貰ったという金のブレスレットに軽くキスをした。茶色い彼女の瞳が、ブレスレットと同じ色の光を、放つ。
ハナは眉を下げて、真っ直ぐに私を見てくる。色素が薄いから、その瞳の中心が私をしっかり捉えていることがよく分かる。ハナはクラスの女の子達には見下すわけでもなく、ただ冷ややかな目線を向けるばかりだが、私にだけはこうやってしっかりとした熱を送ってくれるのだ。私とハナの関係は友達ではなかった。かといって親友と呼ぶには近すぎる。恋人ではもちろん無い。しかし、私たちは私たち2人きりの、この冷めた放課後のお喋りが好きだった。
「あんなことがあれば、こうなってもしょうがなくないかな。」
「でもなるべくしてなってるんだから。あなたはあなただし、ご両親はご両親だし、もっと言えばお母様はお母様、お父様はお父様よ。」
私の両親は、半年前にお互いに背を向けた。私はその時になるまで、2人の亀裂に気づけなかった。2人の座るダイニングテーブルに招かれ、ドラマの裁判官が判決を言い渡す時のような重々しい父の声が告げる。
「お父さんとお母さんは別々に暮らすことにしたんだけど、お前はどうする?」
私という存在は、言わば2人の愛だと思っていた。愛しているから共に居て、愛しているからベッドを共にし、愛しているから私を産み落とした。この2人でなければ私は私でなかっただろうし、そもそも存在すらない。私は愛だ。愛だ。愛。2人が身を重ね私を存在させた時、どんなに美しくシーツの海がうねっただろう。どんなに美しく母の髪はその海に散っていただろう。一人娘である私は、これまで何一つ不自由なく17年という月日を過ごしてきた。それは私が私という存在である前に、私は2人の愛だからこそ与えられた幸福だと、信じて疑わなかったのだ。
実際のところ、私は愛でもなんでもなく、ただの子供だった。愛は地球を救うとかいう24時間テレビのキャッチコピーに惑わされた、井の中の蛙だった。私という自我は、2人が居なくなっても崩壊しなかった。しかしどこかが、着実に、崩れていく。依然として私はあまり大きくはない胸と、無駄に発達したふくらはぎを保っている。他、自身の体を触ったとて異常はない。何かが壊れていく、その感覚だけを残して、その夜お父さんは家を出ていった。翌日お母さんと2人で家の掃除をしているとお父さんのへそくり5万円が出てきた事も、お母さんはパート仲間との笑い話にしたらしい。
2人の人間が下半身で繋がって、出来た子供は愛じゃないというのか。どうせ下半身で繋がろうがWiFiで繋がろうが人は1人だとでも言うのか。無惨なものだな、と私は思った。
だから正直、もうすぐベットまで行きそうと声を潜めて話す女の子のことは、よく分からない。ベットまで行くことは決して愛の証明ではない。愛していなくともお互いの体を求めてベットで体をくねらす事はよくあるらしいし、この歳くらいの男の子のベッドの誘いは大抵がそれだと聞いたこともある。
私がその旨を正直に話すと、ハナはうすらと笑ってみせた。「やけにあなたは期待してるのね。」
「本当に相手のことが好きな純愛は世界中どこを探しても見当たらないわ。相手のことが好きな自分が好きだったり、世間体を気にして好きだと言ってみたり。色んな愛のカタチがあるけれど、1番わかりやすく相手の愛を感じられるのが、ベッドという場所だってだけ。」
「ハナの男の人への愛は本物じゃないの?」
「本物にしていくのよ、今からね。」
ハナの男の人は、車持ちらしい。どこで知り合ったとか、有名人なら誰に似てるとか、普段何をしてる人なのかとか、そんな事は私は知らない。ただ一度、学校まで車で迎えに来たのを見かけたことがあるだけで。車の硝子越しに彼を見つけたハナは、小さく跳ねた。持っていた傘の柄をより一層ぐっと握って、口角を静かに釣り上げた。熱い視線。淀みのない真っ直ぐな支線が、彼に注がれていた。
「ねぇ、ハナは今まで何人の男の人を知ってるの?」
私は尋ねた。どれくらいの人数を経験すれば、この子供じみた考えから脱せるのか、私は知りたかった。
ハナはうーんと唸りながら頬杖をつく。その時に見えたハナの爪には、落とし方が悪かったのかもしれない、赤いエナメルが残っていた。昔はお洒落なんて気にも止めなかったハナなのに、やっぱりハナは大人になろうとしている。
「忘れた。」
「初めての時ってどんな感じだった?」
「それも忘れちゃった。」
「嘘よそんなの。女の子の初めては何より大切なんでしょう?」
「誰が言ったの、そんなこと。」
私はたじろいだ。そんなこと誰も言ってはいないから。私の中に生成された、当たり前の認識だったからだ。私が返答に困り目を右へ左へとしていると、読み取ったのだろう、くすり、と、ハナは笑う。
「もうその反応が全てなんじゃないの。男の子なら抱いた女の子の数は勲章だけど、女の子は違う。そんなのおかしいと思うわ。1人愛せば純愛だけど、3人4人愛せばコメディよ。経験が増えれば増えるほど女として出来てるとか、男として良いとか、そういうの辞めよう、ね。」
そして、ハナは付け加えた。
「私ね、本気で愛した人の単なる人生の香り付けをするエッセンスにはなりたくないの。」
そう言って、ハナは彼に貰ったという金のブレスレットに軽くキスをした。茶色い彼女の瞳が、ブレスレットと同じ色の光を、放つ。