福沢
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その日、わたしは茶虎の野良猫と共に街を適当にぶらつき乍ら何か異常が無いか見回っていた。とは言えわたしが注視するのは専ら犬や猫等といった人間以外の動物達の事で、別に人間同士が交通事故っていようが路地裏に連れ込まれていようがそんな些末な事知ったこっちゃない。そもそもこのヨコハマという街は治安が悪いのだ。いちいち構っている暇など無いし、わたしはお人好しでもなければ自ら突っ込んでいく程の野次馬根性も持ち合わせてはいない。そんなのは市警というプロに任せておけばいいのだ。
さて、話がずれてしまったがわたしが見回る理由は、不幸な動物達が居ないか確かめる必要があるからだ。人間の勝手な都合で棄てられる仔犬仔猫は居ないか、人間が乗り回す凶器とも言える鉄の塊に轢かれた動物が居ないか、何か困っている動物は居ないか、わたしは仕事の休みの日を使ってパトロールをしているのだ。まあ、唯の自己満足ではあるが。誰にも迷惑は掛けていないのだから、文句を言われる筋合いは無い。
「うん、今回は君以外、特に異常は無しかな」
「にゃあお」
「はは、いやいや決して嫌味なんかじゃないよ。怒んないで」
如何やら今日は幸いな事に、不幸な動物達は居なさそうだ。そう胸を撫で下ろしつつ腕に抱えた茶虎に話し掛けると、忽ち不満気な声と共に尻尾がぱしんと腕を叩いてくる。言葉は通じていない筈なのに不思議だよなあと感心しつつもつい会話の様に言葉を続けてしまうのは、動物好きであれば仕方が無い事であろう。其処は察してほしい。
茶虎の彼──確認したら列記とした雄だった──に機嫌を直してもらおうと必死に宥めていると、前方から歩いてくる人の姿が目に入る。今時珍しく和服に身を包んだ男性で、太陽に透けるような銀色の髪を襟足まで伸ばした、壮年の……と其処迄確認した後、既視感を覚えたわたしはつい「あ、」と声を洩らしてしまう。わたしの声に便乗した茶虎も一鳴きしたのも要因だろう、その人が此方へと視線を向けて僅かに目を見開いたのを、視界の端で捉えた。
──如何やら、見間違いではないようだ。
「こんにちは」
「貴殿は、先日の……」
二週間くらい前に、道端で野良猫に煮干を与えようとしている人に説教をしてしまった事がある。その説教の後ほんの少しだけ後悔したものの、でもわたし何も悪い事言ってないしと反省はせず、もう彼の人とは逢う事も無いだろうから如何でもいいやと開き直った其の人が、今目の前に居る御仁だった。
「私の名は、福沢諭吉と言う」
「え?あ、その…名字名前です……」
院長よりも幾らか歳上であろうその男性は、福沢さんというらしい。
何故急に名乗られたんだろうと疑問に思いつつもわたしも名乗り返せば、福沢さんは「名字、名前……」と何故か自身に覚え込ませるようにわたしの名を復唱してから「先日は世話になった」と言ってきた。
「無知な私に助言をしてくれて礼を言う。」
「え、あ、そんな!お礼なんて止めてください!」
こんな社会に出たばかりの小娘が、正論ではあるが随分と生意気な事を言ってしまったのだ。理不尽な怒りをぶつけられこそすれ、礼を言われるなんて思ってもみなかった。だのにこの人は、こんな小娘相手に丁寧に頭まで下げて……居た堪れなくなったわたしが焦って頭を上げるよう言うのは仕方の無い事だと思う。いやだって、初対面──詳しく言えば二度目まして、だが──の人に頭を下げられる謂れは無いというものだ。
必死の願いが通じたのか、其の人は頭を下げるのは止めてくれたけれど。其れでも、その気持ちは変わらないようで。
「貴殿が教えて呉れなければ、私は取り返しのつかない事をしてしまう処だった」
「いや、貴方一人の煮干でどうこうなる程、この仔達も柔では無いですけれど」
「否、私が止めた事であの猫が一日でも長く健やかに生きてくれるならそれに越したことは無い……最も、煮干を食べてくれた事は今まで一度も無いのだが」
聞くと、野良猫を見付けては餌付けという名のスキンシップを取ろうと試みていたそうなのだが、何時も途中で何かに怯えたように走り去ってしまうのだとか。「故に私は煮干を与えた事は無いのだ」淡々と事実を語る其の顔と声色が妙に寂しげに見えてしまったのは、屹度気の所為なんかじゃないのだろう。
──なんか、可哀想になってきた。
大方、猫達が逃げてしまうのはこの人の顔だとか如何にも堅気じゃない雰囲気というか圧力的なものが原因な気がするのだけれど……そんな事を言ったら、本格的に落ち込んでしまいそうだな。
何より、同じ猫好きとしてはこの人の気持ちは痛い程わかる。其れはもう、身を切るような切なさなんだよね!わたしもみんながみんな寄ってきてくれる訳じゃないからね!
「……然し、先日貴殿に教えて貰ったように、煮干ではなく猫じゃらしを出したら逃げられなかった」
心の中で全力で同情していると、其の人はほんの少し、ほんのすこーしだけ口元に笑みを浮かべ乍らそんな報告をしてくる。其れは以前彼と初めて逢った時、煮干を与えるくらいなら猫じゃらしで遊んでやってくれとわたしが言ったからで、彼は本当に其れを実行したのだと言う。
そして其れは如何やら、猫にとってもこの人にとっても喜ばしい結果だったようで。
「貴殿には、その礼も言いたかった。だから斯うして、また逢えた事を嬉しく思う」
「そんな……大袈裟ですよ。わたしは唯……」
真っ直ぐに此方を見詰め、その視線も先程までの鋭さが少しだけ無くなり柔らかさを帯びているのを何となく感じ取ったわたしは、顔ごと視線を其の人から逸らす。
──そんな視線を向けられるような人間では無いのに。
じわじわと込み上げてくる何かを必死に抑えようと、相手の真っ直ぐな視線から逃れようと、片手で目元を隠す。片腕になり居心地の悪くなった茶虎の彼が不満げに此方を見上げてくるが、ごめん今だけは構ってあげられない。
──嬉しい、だなんて。
「……?如何した、何やら顔が赤いが」
「何でもないですちょっとほとぼり冷めるまでこの仔と遊んでてください」
「にゃおぉぅ」
「……承知した。猫じゃらしならまだ有る」
あんな独り善がりな説教、普通の人だったら真面に相手にしてくれなかった。職場で言ったところで響くのはほんの一握りの人に対してだけで、大半の人達は自分の飼いやすいように、人間基準で物事を考えやりたいように飼育をしているのが常だ。……そんな事が繰り返してあると、わたしの無けなしの自信やプライドといったものが少しずつ切り崩されていくようだった。学んできたもの全てを否定されるような、積み重ねてきた努力が全て無駄だと嘲笑われているような。達成感を得られない日々は、確実にわたしを蝕んでいく。動物病院に於ける達成感とは何か、訊かれたら答えるのは難しいけれど……あくまでわたしは、犬猫その他動物達が如何に幸せな人生を送れるかにあると思う。その手助けをしたいが為に、この道に進んだのだから。
忘れかけていたその目標を、理念を、喪いかけていた自信を、この人は思い出させてくれた。わたしの知識が役に立ったと、喜んでくれた。わたしの言葉は、ちゃんと他人に届くのだと──この人は、わたしに教えてくれたのだ。
「名字さん」
「……なんですか」
名を呼ばれ、指の隙間から相手を伺い見る。
「貴殿さえ善ければ、今後も私に御教授頂けないだろうか。……好きなものには、間違った接し方をしたくはない」
其処には、矢っ張り何処までも真っ直ぐな眼でわたしを見る彼の人が居た。
──嗚呼、世界中の人間が皆、彼の様な人であれば。動物達はもっと生き易くなるのに。
「……わたしで善ければ、喜んで」
そう、願わずにはいられなかった。