福沢
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※原作より四年位前。
散歩の途中、石塀の上で器用にも寝転がっている黒猫を見掛けた。暦の上では今は秋、吹く風は徐々に肌寒いものになってきているものの、其れが無いに加え今日は雲一つ無い快晴だ。太陽光は燦々と地上へ降り注ぎ、猫が日向ぼっこをするには最適な気候なのだろうと思った。
「……」
己の目線より少し高い位置にいる猫を見上げたまま、組んでいた腕を解き袖からある物を取り出す。すると先刻まで夢現だった金色の目がカッと見開かれ、それに向かって打撃を──わかりやすく言えば、猫パンチなるものを──繰り出してくるものだから、つい驚きに目を見張ってしまった。
猫は好きだ。然しその意に反して、何故か猫に何時も逃げられてしまう。好物であろう煮干を引っ提げて行っても興味こそ示すものの、視線が交われば忽ち瞳孔が開き脱兎の如く離れていってしまうのだ。
其れが何故か、理由は判明してはいないが……矢張り少なからず、物悲しい気持ちになっていた。
そんな折、助言という名の説教をしてくれた女性がいた。
「……ふむ」
取り出した猫じゃらしに夢中でじゃれつく黒猫に満足した私は、最後に其れを相手に差し出し散歩の続きをする為に歩を進める。途中で再び、彼女に出逢えたら御礼を言おう、密かにそう決めて。
『それ、やめていただけませんか』
先日のことである。散歩の合間に見かけた猫に煮干を与えようとしていた所を、鋭い声が咎めてきた。
背後を振り返るといつの間に居たのか、其処には若い女が立っていた。不機嫌を隠しもしない表情でじとりと此方を睨みつけていて──然し、その双眸と視線が交わることは無かった──、明らかに私に向かって言ったのだとわかった。
『……失礼。この猫は貴殿のだったか』
『いえ、違いますけど』
『……?それならば何故』
自身の飼っている者に無断で餌をあげられるのであれば、怒るのも納得がいくというもの。そう予測を立て謝罪をしたものの如何やら的が外れたようで、それならば自分は何で彼女の怒りを買うようなことをしてしまったのだろうかと考えてみるものの、つい今しがた逢ったばかりの相手では心当たりなどまるで無かった。なので正直に判らないことを伝えると、彼女は『それです』と言ってある一点を指差す──私が手に持つ、煮干を。
『野良猫に餌を与える事もあまり推奨はしませんが、煮干は特に駄目です。』
『然し、猫は煮干や鰹節等を好むものなのではないのか』
『確かに好きですよ。でも猫にとって、煮干や鰹節、カニカマなどを与え過ぎるのはかえって毒になるんですよ』
カルシウムやマグネシウム、ミネラル等の過剰摂取により下部尿路系の疾患を冒したり、腎臓や心臓に負担が掛かり、余計な病気を招く原因にもなります。
『飼い猫なら兎も角、野良猫が病気になった時、誰がこの仔たちを病院に連れて行ってくれるというのですか。無責任な行動は慎んでいただきたいです』
一歩一歩、ゆっくりと近付いてくる彼女の低い声も然る事乍ら、何より発せられる殺気にも似た圧に、少なからず充てられる。恐怖こそ感じないが相手がどれほどの思いでそれを言っているか、流石にそれくらいは痛い程判って。
『……済まない。知らないが故に軽率だった』
私の口からは、自然と謝罪の言葉が零れ落ちた。
そのお陰かはわからないが、彼女は瞬きひとつで眉間に寄った眉も、圧も、ぱたりと消し去り。
『……いえ。わたしこそ突然、申し訳ありませんでした』
途端に眉を下げあまりにも申し訳なさそうにするものだから、その変わり様に目を見張り彼女を凝視してしまった。
然しそれに気付かれることなく、彼女の視線はただ只管、猫に注がれている。憂うようなその視線に、余程猫が好きなのだろうと感じた。
『もし貴方が、これからもこの仔たちを可愛がってくれるというのなら。今後は煮干などではなく、是非此方を』
言いながら彼女が取り出したのは、ひとつの猫じゃらし。少しの風でもゆらゆら左右に揺れるそれを視界に入れるなり、先程私が煮干を与えようとしていた猫が忽ち目を輝かせ、体勢を低くし尻尾を左右に揺らし出す。
『これなら猫の本能を擽るので無視はされませんし、運動不足の解消にもなるのでプラスな事しかありません。差し上げますので、是非試してみてください』
『……良いのか』
『勿論。猫好きに悪い人は居ませんから』
飛び掛ってくる猫を器用に避けながら、彼女は手に持つそれを私へと差し出してくる。視線が交わることは終ぞ無かったが、最後に彼女が浮かべた表情は笑顔だった。
それが、名も知らぬ彼女との出逢いだ。
あれから二週間程経過しているが、未だ再会の目処は立っていない。とは言え元々偶然的に逢えれば良いと思っている手前本気で探す事もしていない為、逢える可能性等皆無に等しいのだろうが。
──せめて、名前だけでも訊いておくべきだったか。
そう思った自分自身に驚いて、そして嘲笑。如何やら自身で思っていた以上に、私は彼女にもう一度逢いたいらしい。それが同じ猫好きだからか、将又あの交わらない視線の意味を知りたいからか、定かでは無いが……
にゃあ
「あ、」
「?」
不意に聴こえた猫と人の声に、意識を前に向ける。すると其処には先程まで脳裏に思い描いていた女性の姿が有り、更にその腕には茶虎の猫が抱えられている。逢いたいと思っていた矢先に偶然対面出来た現実に目を見張っていると、彼女も私を覚えていたのだろう、微笑んで「こんにちは」と挨拶をくれた。
相も変わらず、視線は合う事は無いが。
(その理由を、訊いても良いだろうか)