中原
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※原作より五年位前。
「……オイ、何してんだ手前」
その日非番だった俺は、特に用もないまま昼間の横浜を歩いていた。街を抜け、港を海沿いに歩き、宛もなく歩き続けたそこに、其奴は居た。
「……わたし、ですか?」
「手前以外に誰が居る?」
其奴はきょろりと視線をさ迷わせた後、声を掛けられたのが自分だと気が付いたのかその高い位置にある顔を下に降ろし、漸く其奴を見上げている俺を見た。
こんな言い方になるのに、俺の背が低いことは全く以て関係ない。其奴が俺を見下ろし、俺が見上げるのには列記とした理由があるのだ。もう一度言う、背は関係ない。
「いい歳した、然も女が何で木の上になんざ登ってんだ?」
そう、其奴──俺より幾らか年上であろう女は、そこそこに高さのある木の上に登っていた。このご時世、然もこんな所で一体何をしているのか。キチガイか只の馬鹿か、はたまた何処かの胸糞悪い包帯男のように自殺願望でもあるのか……然し女が乗っている枝に首を吊るためのロープ等は見当たらない。考え過ぎだろう。
「──ねこ、」
「んあ?」
見上げたまま、休みの日にまで嫌な奴の事を思い出してしまった事実に内心舌を打っていると、小さな声が降ってきた。我に返った俺が焦点の合っていなかった視線を再び女に合わせて見ると、女は眉を八の字に下げて、ほとほと困り果てたように「猫が、」と言葉を続けた。
「如何やら、降りられなくなってしまったようなんです。何とかしようと登った迄は良かったんですが…」
そう言う女の腕の中には、よくよく見れば茶トラの猫が居る。下からの位置でもそれが確認出来た俺は猫と女を交互に見て大体の事を察した。
「この仔を抱えたまま降りるには、少し、大変な高さだと気付きまして」
予想通りの答えを紡いだ女が、それで如何しようか悩んでいたんですと困ったように笑う。然しその反面、猫の頭を撫でる手つきはひどく穏やかで、その所為だろう、困った状況にも関わらず猫は気持ちよさそうに眠っていた。
「そうか……」
女の言葉を聴いて、俺も如何したもんか、と思案する。
確かに、一般人が飛び降りるには危険な高さ──それにしても、よくこの高さを登ったものだと感心してしまうほどだ──ではあるし、木を伝って降りている途中、今は大人しい猫が暴れ出してしまう可能性だってある。無茶はしない方が利口だろう。
此処で俺が何か出来るとすれば、己の異能を使う事が第一候補に挙げられる。互いに手を伸ばしあったところで触れられない距離ではあるが、其処は俺が自身の身体の重力を無くせば良いだけだし、一度猫なり女なりに触れてしまえば、自ら浮かばずとも一人と一匹の重力を軽くしてやれば良いだけの話だ。
然し、其れが出来ない理由がある。
(異能自体、一般人にそう易々と見せて良いもんじゃねぇしなぁ)
とある人物に、昔言われた事がある。其れは己の所属する場の上司であり、師である女性の言葉で、口を酸っぱくして言われ続けた事だ。──異能を使うのは、仕事の時だけに留めよと。
其れが如何いう意味か、十七にもなった今なら良く理解できる。それだけ沢山、社会の狡い部分も人間の汚い部分も目にしてきたのだ、悟るには十分な齢だろう。──最も、表で生きている同年代はそうとは言えないが。
嗚呼然し、だからこそ俺は今迷っている。
「……あの、一つ提案なんですが」
「あん?」
「今からこの仔落とすので、下で受け止めてもらえませんか?」
突拍子もない案を挙げる女に怪訝な反応を示せば「あ、若しかして猫アレルギーですか?」なんて的外れな事を言ってくる。それに違うと否定すれば、女は「それは良かったです」と言ってまた困ったように笑った。
「いや、あの、本当に手を煩わせてしまうのは申し訳ないと思うんですけれど。このままでは埒があきませんし、それに放るのではなく真下に落とすだけなら、この仔も吃驚するとは思いますがそこまで暴れたりしないと思いますし」
一寸の間だけ、手を貸して頂けませんか。そう言い頭を下げる女を見上げ、ここ迄謙る必要なんてないだろうに、そんな事を思った。今の案が、女が考えるだけ考えて出した最善策なんだろう。無謀な気もするが、確かにこのままでは埒が明かない。無駄に時間を浪費して日が暮れてしまうよりかは、幾分か良いだろう。
最初に声を掛けたのは俺だ。今更迷惑だとか、そんな事は思う筈も無い。
「別に、構わねえよ」
「! 有難うございます!」
肯定の意を示した俺に、女の表情が明るくなる。初めて見たその顔にほんの少し、身体の何処かが疼いた気もするが、あまりにも些細だったそれに俺自身気付くことは無かった。
太い枝に座っている女の真下に移動し、手袋を着けたその両手を上に挙げる。女は自身の腕で眠り続けていた猫を抱き上げ、額同士をつけて「大丈夫だからね」と安心させるような呟きを猫に落としてから、その腕を下に降ろした。宙ぶらりんになった猫と俺の指先には、まだ幾らか距離が空いている。
「じゃあ、離しますね」
「応、」
「壱、弐の…」
参。その数と共に女の手を離れた猫は、真っ直ぐ俺の元に落ちてくる。そのままキャッチ出来るだろうと思った俺は、果たして油断していたのだろうか。
落ちている途中、猫は自分で体勢を整え、あろう事かその身を俺の手ではなく──被っていた帽子の上に、見事着地した。
「ぶっ」
「あ、」
予想外の頭頂部の衝撃に、つい変な声が出てしまう。首が痛いやら恥ずかしいやらで染まってくるのがわかる頬をそのままに猫を睨みつけようと振り返るものの……既に其処には、何者の姿もなく。
──に、逃げやがったなあの糞猫…ッ!!
「ふっ…ははっ!」
遣り場のない怒りにわなわなと震えていると、堪えきれないといった様な笑いが上から降ってくる。鋭い視線のまま木の上を見上げると、例の女が足をぶらつかせ腹を抱え、大口を開いて盛大に笑っていた。俺の睨みに怖がる様子もない、寧ろ気付いてすらいないのか、げらげらと何時までも……
「………チッ」
笑い者にされて、いい気なんてする筈がない。帽子の形も崩れただろうし、屹度あの茶色い毛もくっついている事だろう。隠す素振りもなく舌を打つと、其れが聴こえたのだろう「はあ……ふふ、ごめんなさい」と悪びれた様子もない謝罪が降ってきた。
「あまりにもあの仔が楽しそうだったから、つい」
「あーそーかよ……つーか、彼奴逃げちまったが良かったのか」
「嗚呼、大丈夫です。わたしの飼い猫ではないので」
よくよく考えたら、あれだけ大事に抱えていた猫をいとも簡単に逃してしまった。彼奴を捕まえる為にこんな高い木にまで登った女の事を思うと流石に少しだけ罪悪感が湧き、謝るのは此方だと口を開いたものの……女は実にあっけらかんと否定し「あの仔、首輪もしてなかったし、多分野良猫でしょうね」なんて言いやがる。
「……じゃあ何か。手前は見ず知らずの猫を助けようとしたのか」
「まあ、そうなりますね」
「……その為に、降りられねえのにそんなトコまで登ったのか」
「そのお陰で、あの仔は無事に降りられたんですから何も問題は無いです」
ほとほと、呆れてしまった。助けるのは悪くない話だが、猫の事を最優先し過ぎて自分が如何成ろうと関係無いとでも言うようなその態度に、返す言葉はもう見付からなかった。溜め息しか出やしねえ。
「有難うございました。ご協力いただいて凄く助かりました」
そして〆と言わんばかりの言葉で締めくくろうとする女に、初対面であるにも関わらず「手前は莫迦なのか?」と思わず口に出してしまった。
否、如何考えても俺は悪くないだろう?
「手前は如何する心算だよ。ずっと其の侭其処に居る心算か?」
「真逆。何とかして降りますよ」
「その方法は?」
「先程とは違って、両手両足使えるんです。また木を伝って降りれば……」
そう言い乍ら、女は早速一人で降りようと動き出す。然し登るよりも降りる方が大変な所為かやたらもたついていて、唯見ているだけの俺の苛付きは更に募っていった。
猫の時とは違い、自分の事となると他に頼ろうとしないその態度が、何だか癪に障る。ここまで迷惑を掛けておいて何を今更とも思うし、何より……
──その、自分は如何成ろうとも構わないといった態度が、どっかの青鯖を思い出してムカつくんだよ…!
正確に言えば、あの野郎は自ら死にに行くような奴で、此奴の場合別に怪我したり死んだりしても構わない、ってくらいの微妙な違いはあるのだろう。然しそんなもの、他人から見れば同じようなもので、死のうが怪我しようが如何でも良いと思っているその性根が、忌々しくて許せなかった。
今日初めて逢った奴だ、俺がそう感じるだけで、女の中ではまるで違う事を考えている事だって有り得る。死んでも良いだなんて、これっぽっちも思ってすらいないかもしれない。
今日初めて逢った奴だ、そんな奴に対して如何してここまで苛つくのか……苛つくのなら関わらなければいい、女の事など放っておいて、自分はもうこの場を離れればいいだけの話だ。
それなのに、未だ俺は木の根本に突っ立ったまま、自力で降りようとしている女の姿を視界に捉えている。
「チッ……面倒臭ェ」
元来気が長い方ではない俺が、それを黙って見ているなんて事する筈もなく。盛大な舌打ちをかました後、蹴りつけるようにして木の幹に足裏を付けた。そして地球の重力をまるで無視した俺の身体は木に垂直になるよう真横を向き、まるで道を歩くのと変わらない様子で木を登り、女に近付いていく。
「オイ」
「え……えっ!?」
「ちんたらしてンじゃねぇよ」
あっという間に女の居る高さまで登り詰めた俺が其の侭の状態で声を掛けると、同じ高さから聴こえた声と有り得ない光景に女は素っ頓狂な声を上げる。
かちり、其処で初めて、女と視線が交わる。其処で初めて、今まで女と視線が合っていなかったことに気が付き──之も苛立ちの一因だったのかと、今更乍に自覚した。
「見てらんねぇんだよ莫ァ迦」
「いや、あの、貴方それ如何やって……」
「あ?ンなのあとででいいだろ」
良いから、とっとと降りるぞ。そう言って女の腕を掴むと同時に、ニィと態とらしく口角を釣り上げる。
──そういや、先刻は随分盛大に笑ってくれたよな。
その仕返しをして、今度は俺が笑ってやろうと密かに心に決め、訝しげに此方を見ているその眼を見つめたまま──俺は己に掛けていた異能を解いた。
当然、地球の引力に引っ張られる身体は真っ逆さまに落ちて行く。そして其れは俺だけの話ではなく、俺が腕を掴んだままでいる女も同じだった。
姐さんの言葉に従うなら、今異能を使うのは良しとしない。然し之まで様々な人間を見て養われた俺の観察眼は、今此処に居る女は己にとって害になる人間になるとは考えにくいと言っている。例え異能を使って見せたとしても、何とも思わないのではないか。そんな、妙な確信があったのだ。──其れが果たして良い意味なのか悪い意味なのか、まあ置いておくとして。
女の悲鳴と、俺の笑い声が。人気の無いその場に響いた。
(必死になってしがみついてくる姿が可愛かった、なんてガラにも無ぇ事を思ったもんだ)