女性棋士さんの
しまだ
name
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あとふたつ。あとふたつ勝てば、タイトルが取れる。
タイトルが取れたら、やっと、やっとわたしは──
「あのねえ名前……何度言えばわかるんだ。そうほいほいと男物を着るもんじゃない」
「だって、着替えなんてないもの」
起きて早々、こうして開さんがわたしにお小言を言うのはいつもの事だ。そしてこの応酬は、いつも同じ結末を辿る。
「いいじゃない。クリーニング前のシャツなら勿体なくないでしょう?」
「いや、それはそれで勿体……せめて下も穿いてくれ」
「着るなって言ったり着ろって言ったり。開さんわがまま」
「だからそれは……っ──〜〜〜もういい」
はあーーーと、それはもう魂まで吐き出してしまうんじゃないかという程に長く深い溜め息と諦めの言葉で、このやり取りは終わる。それも偏に、開さんが優しい国の住人だからに他ならない。起きたばかりだというのに何処か疲れた様子の彼を見、ひそかに口角をあげた。
「何笑ってんの」
おや、気付かれてしまった。
「いや、こうやって面倒な事になるのをわかってていつもわたしを拾ってくれる開さんは優しいなと」
「……別に、俺に限ったことではないだろう」
「まあね」
将棋の世界は狭い。プロの世界では特に。それ故殆どの棋士とは顔見知りであった。
だからなのか、わたしが昨夜のように将棋会館で寝落ちていると、必ず誰かが拾ってくれていた。それは何かと階級が同じメンバーが多く、この間なんて目が覚めたら隈さんと同じ部屋で寝ていた。あれは流石に吃驚した。
「お前が廊下で寝なければ良いだけの話なんだがなあ」
「ふふ、いつも迷惑かけてごめんなさい」
「それでも、わたしは改めるつもりはないよ」
わたしがそう言い切ると、これまでののんびりとした雰囲気がぴりりと張り詰めたのがわかった。見ると開さんの表情が呆れのそれから変わり、怒りとか、苦しさとか、そんなものが垣間見えるものになる。
「……名前」
「あとふたつなの。あとふたつ勝てばタイトルが獲れる……わたしが生きた証が手に入る」
咎めるようにわたしの名を呼ぶ声に被せて早口に言うと、開さんの顔はいっそう厳しくなる。でもそんなの怖くはない。
誰に怒られようが悲しまれようが、どうだっていい。わたしはわたしの感情に、素直に生きているだけなのだ。他人の気持ちなど、知ったことではない。
「だから邪魔しないで」
わたしは、死ぬために生きているだけなのだから。
「いくら開さんでも、許さない」
「……邪魔するな、ねえ」
風が、音を立てて窓から部屋の中に入り込んでくる。それに混ざるようにして聴こえた低い声は、嘲笑とも取れる笑顔を浮かべた開さんから発せられた。
「それを言うなら、お前こそ邪魔しないでもらえるか。俺だってタイトル獲らにゃいけないんでね」
いつもは優しく細められる三白眼が、今はまるで親の仇を見るように吊り上げられている。保護者ではなく戦士としての顔で見下ろされれば、ぞくりと背中が粟立つ感覚。
恐怖ではない。これは、武者震いだ。
「名前。お前には今回も負けてもらうからな」
「そんな上から言える立場?実力はほぼ互角じゃない」
「宗谷と当たるのは俺だ」
「冬司さんに勝つのはわたしだもん」
わたしも、開さんも、自分の目的のために戦い続ける戦士の一人でしかない。
それが心地好い。男も女も、年上も年下も関係ない、対等で居られるその距離がいいのだ。
プロ棋士、それもA級以上の彼らとばちばちにやり合い、そして死ねたなら。こんなに幸せなことはないだろう。
「……上等だ、この小娘が。なんなら今から存分に負かしてやろうか」
「いいよ受けて立つわ。過去の戦績見るより今の開さんの弱点探すのにちょうどいいもの」
五日後に迫る対局、相手は目の前で不敵に笑う島田開八段。
この人に勝って、挑戦権を得たわたしは名人すらも倒し、タイトルを獲る。
そして、鮮やかに散って見せるのだ。わたしの命そのものを。
殺伐とした雰囲気を叩き壊したのは、盛大に鳴いたわたしのお腹の虫だった。
「……開さん、おなかすいた」
すっと表情を戻しお腹を押さえるわたしに、脱力したのか開さんからはふかあい溜め息が零れ落ちる。
「お前って奴は……まあ知ってたけど」
「カツ丼がいい」
「朝からがっつり行くね……胃、もたれない?」
「全然。開さんはお蕎麦にしたら?」
「そうしようかねえ……」
わたしとは別の意味でお腹を押さえる開さんの横をすり抜け、島田家の固定電話の傍にあるカタログを見ながら受話器を持ち上げる。
「出前にしよ。で、食べながら指そう」
「いいけど、盤上に落として汚すなよ?」
「はあい」
穏やかな風が吹く晴れやかな日、出掛けるにはきっと最適であるこの日でさえも、わたしたちは家に引きこもる。
「ん、どうしたの?天ぷらもつけてもらう?」
「……いや、」
開さんのワイシャツ越しに触れる持ち主の体温を背中とお腹に感じて、くすぐったさに身を捩るけど、離してくれる気はないらしい。
頭に顎を載せ、わたしの腕を掴んでカタログを眺める様子は、もういつもの開さんだった。
「あー、やっぱりえび天つけて」
「いも天は?」
「それ名前が食いたいだけだろ……まあいいけど」
「やった」
半分こにしましょうね。はいはい。
そんなやりとりから電話を終えるまで、開さんは離れてはくれなかった。
好きなものと、盤上と、最高の相手と。
それさえあれば、わたしには何も要らないのだ。
タイトルが取れたら、やっと、やっとわたしは──
「あのねえ名前……何度言えばわかるんだ。そうほいほいと男物を着るもんじゃない」
「だって、着替えなんてないもの」
起きて早々、こうして開さんがわたしにお小言を言うのはいつもの事だ。そしてこの応酬は、いつも同じ結末を辿る。
「いいじゃない。クリーニング前のシャツなら勿体なくないでしょう?」
「いや、それはそれで勿体……せめて下も穿いてくれ」
「着るなって言ったり着ろって言ったり。開さんわがまま」
「だからそれは……っ──〜〜〜もういい」
はあーーーと、それはもう魂まで吐き出してしまうんじゃないかという程に長く深い溜め息と諦めの言葉で、このやり取りは終わる。それも偏に、開さんが優しい国の住人だからに他ならない。起きたばかりだというのに何処か疲れた様子の彼を見、ひそかに口角をあげた。
「何笑ってんの」
おや、気付かれてしまった。
「いや、こうやって面倒な事になるのをわかってていつもわたしを拾ってくれる開さんは優しいなと」
「……別に、俺に限ったことではないだろう」
「まあね」
将棋の世界は狭い。プロの世界では特に。それ故殆どの棋士とは顔見知りであった。
だからなのか、わたしが昨夜のように将棋会館で寝落ちていると、必ず誰かが拾ってくれていた。それは何かと階級が同じメンバーが多く、この間なんて目が覚めたら隈さんと同じ部屋で寝ていた。あれは流石に吃驚した。
「お前が廊下で寝なければ良いだけの話なんだがなあ」
「ふふ、いつも迷惑かけてごめんなさい」
「それでも、わたしは改めるつもりはないよ」
わたしがそう言い切ると、これまでののんびりとした雰囲気がぴりりと張り詰めたのがわかった。見ると開さんの表情が呆れのそれから変わり、怒りとか、苦しさとか、そんなものが垣間見えるものになる。
「……名前」
「あとふたつなの。あとふたつ勝てばタイトルが獲れる……わたしが生きた証が手に入る」
咎めるようにわたしの名を呼ぶ声に被せて早口に言うと、開さんの顔はいっそう厳しくなる。でもそんなの怖くはない。
誰に怒られようが悲しまれようが、どうだっていい。わたしはわたしの感情に、素直に生きているだけなのだ。他人の気持ちなど、知ったことではない。
「だから邪魔しないで」
わたしは、死ぬために生きているだけなのだから。
「いくら開さんでも、許さない」
「……邪魔するな、ねえ」
風が、音を立てて窓から部屋の中に入り込んでくる。それに混ざるようにして聴こえた低い声は、嘲笑とも取れる笑顔を浮かべた開さんから発せられた。
「それを言うなら、お前こそ邪魔しないでもらえるか。俺だってタイトル獲らにゃいけないんでね」
いつもは優しく細められる三白眼が、今はまるで親の仇を見るように吊り上げられている。保護者ではなく戦士としての顔で見下ろされれば、ぞくりと背中が粟立つ感覚。
恐怖ではない。これは、武者震いだ。
「名前。お前には今回も負けてもらうからな」
「そんな上から言える立場?実力はほぼ互角じゃない」
「宗谷と当たるのは俺だ」
「冬司さんに勝つのはわたしだもん」
わたしも、開さんも、自分の目的のために戦い続ける戦士の一人でしかない。
それが心地好い。男も女も、年上も年下も関係ない、対等で居られるその距離がいいのだ。
プロ棋士、それもA級以上の彼らとばちばちにやり合い、そして死ねたなら。こんなに幸せなことはないだろう。
「……上等だ、この小娘が。なんなら今から存分に負かしてやろうか」
「いいよ受けて立つわ。過去の戦績見るより今の開さんの弱点探すのにちょうどいいもの」
五日後に迫る対局、相手は目の前で不敵に笑う島田開八段。
この人に勝って、挑戦権を得たわたしは名人すらも倒し、タイトルを獲る。
そして、鮮やかに散って見せるのだ。わたしの命そのものを。
殺伐とした雰囲気を叩き壊したのは、盛大に鳴いたわたしのお腹の虫だった。
「……開さん、おなかすいた」
すっと表情を戻しお腹を押さえるわたしに、脱力したのか開さんからはふかあい溜め息が零れ落ちる。
「お前って奴は……まあ知ってたけど」
「カツ丼がいい」
「朝からがっつり行くね……胃、もたれない?」
「全然。開さんはお蕎麦にしたら?」
「そうしようかねえ……」
わたしとは別の意味でお腹を押さえる開さんの横をすり抜け、島田家の固定電話の傍にあるカタログを見ながら受話器を持ち上げる。
「出前にしよ。で、食べながら指そう」
「いいけど、盤上に落として汚すなよ?」
「はあい」
穏やかな風が吹く晴れやかな日、出掛けるにはきっと最適であるこの日でさえも、わたしたちは家に引きこもる。
「ん、どうしたの?天ぷらもつけてもらう?」
「……いや、」
開さんのワイシャツ越しに触れる持ち主の体温を背中とお腹に感じて、くすぐったさに身を捩るけど、離してくれる気はないらしい。
頭に顎を載せ、わたしの腕を掴んでカタログを眺める様子は、もういつもの開さんだった。
「あー、やっぱりえび天つけて」
「いも天は?」
「それ名前が食いたいだけだろ……まあいいけど」
「やった」
半分こにしましょうね。はいはい。
そんなやりとりから電話を終えるまで、開さんは離れてはくれなかった。
好きなものと、盤上と、最高の相手と。
それさえあれば、わたしには何も要らないのだ。
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