中原
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──ええと、何が如何してこうなっているんだっけ?
わたしは唯いつものように街を見回っていて、悲しい事に猫の轢死体を見掛け、これ以上その小さな身体が鉄の塊に蹂躙されるのは見過ごせるはずもなくて、車道に乗り込んだのだ。使う機会等来なければいいと思い乍らも常時持ち歩いているゴム手袋を装着し真っ白なバスタオルを道路上に広げ、横たわる猫の正面に膝を着いて手を合わせてからその身体を持ち上げタオルで包み抱き抱えて。然るべきところへ連れて行ってやらねばと顔をあげた時、意外と間近まで迫っていた一台の乗用車に漸く気が付き、あ、これ死んだわと悟った正にその時。
不意にわたしと車との間に割り込んできた黒い影が、〝何か〟をした。すると驚く事に、車はヘリウムガスの入った風船の様にふわりと浮き上がり、其れを見た野次馬もわたしも、ぽかんと呆気に取られてしまう。目が点になるという事態に初めて出会した。浮いた車はその黒に車道から歩道の方へと移動させられたかと思えば、何とまあ、群がっていた野次馬たち目掛けて落とした。
途端、この場は阿鼻叫喚と化す。逃げ惑う人、下敷きにされた何人かの悲痛な呻き声、状況に付いていけず気を失った運転者、先刻から端末のレンズを向けていた無断盗撮者は、その大事な大事な端末が車に潰されたようで怪我人其方退けで悲鳴を上げている。
なんだこの現場は。人間世界の縮図だろうか。
歩道側で起きている惨状を、未だ車道側に立ったまま呆と見詰めていると、この惨状を見事作り出した隣の黒い影に肩を掴まれて我に返り其方を見る。見て……既視感を覚えた。
はて、この空色。何処かで見た事があるような。
「行くぞ」
「はっ?行くって、」
「黙んねーと舌噛むぜ」
有無を言わさずにそれだけ言った黒は、自分より幾らか背の高いわたしを難無く横抱きにして地を蹴る。二人の身体は有り得ないほど高く跳躍し其れにもわたしは一人驚いていたのだが、人々は地上の惨状にばかり気を取られていて誰も此方の様子に気付いていなかった。
黒い風貌に、空色の瞳。そして何時もより軽く感じる身体、わたしを抱えるこの少年の、人ならざる力。
其処で漸く、この少年と一年くらい前に逢った事がある事を思い出す。少年は、以前よりも強い死の香りを纏っていた。
そして、冒頭に戻る訳なのだれけど……思い返した所で、わたしに非があるところ無いよね?こうやって拉致られる理由無いよね?
となれば、わたしが少年に付き合う理由も無いというものだ。わたしには遣らねばならない事があるのだから。そう、遣らねばならない……おえ。
「あの、お洒落帽子の少年」
「アァ?黙ってろって言っただろーが…」
「いや進言させてください。……早く下ろしてください」
「ことわ、」
「もう、むり、気持ち悪い、吐く」
「はっ!?」
言っただろう、わたしは絶叫系が苦手なんだ。あの場から離れてからというものの自分の意思関係無しにビルを飛び移る度に、わたしの内臓たちは身体の中で掻き混ぜられて、当の限界を超えている。
口元を押さえたくても両手は塞がっているし、視界は目が回っているようでぐるぐるしている。見事乗り物酔いをした時のような感覚を起こさせてくれた少年の上で吐こうが、わたしは何も悪くない筈だ。そんなの、少年の自業自得だろう。
「ちょ、一寸待て我慢しろ!」
「むり」
──本当は、他に少年から香ってくる強い血の匂いに酔ったのもあるけれど。血と死の匂いは彼だけの所為では無い故に、口に出す事はしなかった。
「オイ、大丈夫か」
「はあ……まあ何とか」
結局、わたしは耐えた。堪えた。
この腕に抱く猫の為に。この仔をこれ以上汚してしまわぬ様に。
喉をせり上がってくる苦酸っぱいものを幾度となく胃内に戻した所為で咥内や食道がピリピリと痛み不快感が増すが、そのお陰もあってか少年は意外と早いうちに何処かのビルの屋上で止まってくれた。
何回も跳躍していた脚はゆっくりとした速度で平たいコンクリートの上を歩き、備え付けのベンチに下ろしてくれる。何方かと言えば乱暴寄りの口調と態度が目立つ少年にしてはその所作は丁寧で、更に言えばわたしをベンチに座らせたあと、膝を着いて様子を伺うように此方を見上げてくる姿に、人の良さが見えた気がした……先刻まで怒っていた様に感じたけれど、気の所為だったのかな。
覗き込んでくる顔を見るけれど、視線は合わせず。へらりと笑う。
「相変わらず、凄い能力ですね」
「! 覚えてんのか、俺の事」
「いや、今の今まで忘れていましたけど。途中で思い出しました」
「……相変わらず、失礼な女だな」
人の名前と顔を覚えるのは苦手なんですと素直に言えば、少年は呆れた溜め息とともに「抑も名乗ってねぇだろ」と吐き出しては立ち上がりわたしの隣にドカリと座り込んだ。
うーん、脚を組む姿が様になってるな。背は小さいけれど。
「中原中也だ」
「名字名前です。……真逆また、こうして会うとは驚きですね」
今更過ぎる自己紹介に可笑しさを感じていると、少年……基中原くんはわたしの気遣いには反応せず、「歳は?」と訊いてくる。
「歳? 今は21だけど……」
「俺は十八だ」
「あ、やっぱり年下だったかあ……」
「まだ学生か?」
「え? いや、違うけど……」
「じゃあ仕事は?」
こんな具合に、何故か中原少年による矢継ぎ早での質疑応答が始まった。何が何やら訳が分からないままに、訊かれるがままにわたしが答えると、同じように少年も自分の素性を明かしていく。その中に幾つか嘘が織り交ぜられているような気がしたけれど、特段少年の事を知りたいと思わないわたしは其れをスルーしては答え、又答えを聞いた。
中原少年の質問に答えていく間に、体調は幾らか良くなっていった。となれば、もう此処に居る意味は無い。
……今思えば、この仔が居るにも関わらずよくもまあ呑気に会話なんて出来たな。この人。
普通、気になって気味悪がって仕方ないだろうに。
「あの、中原くん。わたしもうそろそろ……」
「まあ待てよ。あと少しだから」
ベンチから立ち上がったわたしの腕を、少年は掴んでそう言う。言葉は優しいものの腕を掴む強さは有無を言わさないと訴えてきていて、渋々腰を下ろした。
「……これ以上、何を」
訊きたいんですか。そう続けようとしたのに、反対の手に顎を掴まれ無理矢理相手の方へ向けられた事で、わたしの言葉は不意に途切れた。
顎を固定する手は人本来のあたたかさを感じさせない、黒い革特有の硬さと冷たさを持っている。比較的近い距離──然し輪郭がハッキリとわかる程離れた距離で見つめられる事なんて今の今まで無くて、其の気不味さに視線を落とすけれど「手前の、」あとに続いた言葉に、わたしは一瞬だけ目の前の蒼色を見た。
「手前の眼に、人間は映ってるか?」
「その話をする前に、この仔の事を弔わせて貰えませんか」
そう言ってあの場を凌いだわたしは、少年に頼みヨコハマの全貌が見える場所へと連れて行ってもらった。街並みも港も海も見える場所は幾つかあるが、わたしが指定したのは、その中でも元々墓地のある所。わたしの用があるのは、その内の一画だった。
其処は、無造作に作られた土山が幾つもある。
「此処は……?」
「この仔たちのお墓です」
勿論、無断ではなくちゃんと許可は頂いてますよと訊かれる前に言って、わたしはその一番手前にしゃがみ込む。そしてずっとこの腕に抱いていた猫の遺体を優しく地面に下ろして、穴を掘り始めた。
「この仔のように、飼い主のいない動物たちの遺体を見つけては、此処に埋めているんです」
「……そンなの、行政に任せりゃ良いだろうが」
「そうですね。わたしのしている事は、所詮自己満足に過ぎません。それでも、他人に任せる事は嫌なんです」
少なくとも、この目に見える範囲、この手が届く範囲の動物たちの事は、わたしの出来うる限りをもって助けてあげたいんです。其れが仮令、既に命が宿っていないものだとしても。
「わたしたち人間の所為で奪われた命なんです。せめてわたしが、弔ってあげないと」
手が汚れていく、爪に土が入り込む。其れでも止めない。穴を掘り続ける。
無心で掘り続ける。今回の土は掘りにくいな。其れでも、わたしは掘り続ける。
そんなわたしを、背後で見詰める少年は一体どんな顔をしているだろうか。憐れみか、嫌悪か、それとも無関心か……嗚呼、如何でも良い、どうでもいい、そんなもの、他人からの評価なんて。其れでわたしが変わる訳では無いし、変えられたら其れは、本当のわたしでは無いのだから。
不意に、わたしの視界に黒が入り込む。
「爪剥がれてンぞ。これ着けろ」
そう言ってわたしの隣にしゃがんだ少年は、彼が何時も嵌めていた黒の手袋をわたしに押し付け素手で穴を掘り始めた。一連の行動に驚いたわたしは暫く目を丸くして少年を見ていたけれど、やがて自身の指先に感じる痛みで我に返り……成程、少年の言った通り右の人差し指と中指の爪が剥がれ血が出ていた。自覚すると痛みというものは唐突にやってくるもので、傷に土が入っているのも相俟ってじくじくと痛む。
申し訳ないと思い乍も、今は早くこの仔の眠れる場所を作ってやりたい。わたしは少年に一礼だけしてから投げられた手袋を嵌めて、作業を再開した。
少年の協力もあり無事に掘れた穴に、タオルに包まれたままの猫をそっと入れる。一度顔を覗き身体を撫で、この仔が生きていた時の事を思い憂う。
──この仔の毛色は、屹度雪原のように真白だったのだろうな。はみ出ている片目は蒼色だし、屹度綺麗な青眼だったのだろう。
全部推測でしか無いけれど、其れでも絶対、可愛い声で鳴いてくれたに違いない。
「──おやすみ」
最期に其れだけ告げて、身体の上に土を被せていく。姿が見えなくなり小さな山が出来上がったら、両手を合わせ祈りを捧げる。
──如何か、次はしあわせな時を過ごせますように。如何か、人間にだけは転生しませんように。
そんなわたしの隣では、中原少年も帽子を頭から外し胸の前で抱え目を閉じている。……正直、此処までの人だとは思わなかったなあ。
「……わたしの眼に、人間は映っているのか。でしたっけ」
「あァ」
「では此処で、例えばの話をしましょうか」
は?と素っ頓狂な声を上げる少年を置いて一人立ち上がったわたしは、彼に背を向けてピッと人差し指で1を作った。
「問一、貴方は今、小振りの船に乗っています。途中で人間と猫が溺れている所に出会しました。残念な事に、その船が乗せられる命は二つまで。貴方は、何方を助けますか?──わたしは迷わず、猫と答えます」
「問二、溺れているのが人間と犬と猫だったら?──犬と猫を助け、わたしと誰かは共に沈みます」
「問三、溺れているのが犬と猫だったら?──二匹を助け、わたしは沈みます」
中指、薬指と指を増やし、三本指になったところでわたしは少年に向き直る。そしてその怪訝な顔に向かって微笑んでやる。視線は、勿論合わせない。
「之が、わたしという人間です。ご理解頂けましたか?」
「……質問の答えになってねェが、今は置いといてやる。代わりにもう一つ訊きてェ事がある」
問四、だ。そう言って少年はわたしに倣い、親指以外の指を伸ばし4の字を作る。
「若し溺れているのが何方も人間だった場合──手前は如何する?」
露わになっているその汚れた手を見詰めて、苦笑する。
「……如何しましょうか。以前までのわたしだったら、問答無用で助けないと答えていたのですが……」
「最近如何にも、人間の中にも真っ当な人が居るみたいだと思う事がありましてねえ。若しその人が溺れているのなら、助けてしまうかもしれませんね」
貴方のように。そう思った所で、そういえばまだ助けてもらったお礼を言ってないなと思い至り、「先刻は助けて下さって、有難うございました」と頭を下げる。
「……ッ、手前、死にたがりじゃねェのかよ」
「え?真逆、そんな訳無いじゃあないですか」
頭を上げると何故か少年は酷く動揺しているようで、恐る恐る見当違いな事を訊いてくる。一瞬だけぽかんとしてしまったが、直ぐ様きっぱりと、丁寧に否定した。
「確かにわたしは、この視界に入れたくない位には人間の事が嫌いですし滅べばいいと思っていますが、生憎とこの世界に絶望はしていないのですよ」
わたしはわたしの命が尽きるまで、動物たちの為に使うと決めたんです。自殺なんてそんな勿体の無い事、する筈がありません。
そう言い切ったわたしを今度は少年がぽかんとした顔で見詰め、やがて彼の中で納得したのだろう、クッと噴出したかと思えば、盛大に笑いだした……何故笑う。
「いや、悪ィ悪ィ。手前みてェに信念のある奴、俺は好きだぜ」
いやいや、笑い乍ら言う事じゃなくね?と異議を申し立てたい所だったけれど、少年の少年らしい部分を初めて見れたしまあ、良しとしようか。
(わたしも君みたいな子は嫌いじゃあないよ)
(動物たちを殺さなければね)
「……あ、手袋返し忘れちゃった」
別れた後に気付くも時既に遅し、わたしの手には借りた手袋が嵌められたままだった。
「うーん……まあ、洗わないとだし。後で返せばいいか」
屹度又逢えるだろう。なんて根拠の無い自信があったわたしは、夕暮れの街を歩くのだった。