織田
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あの仔を河原で見送り、明るい月に照らされ乍ら職場に戻った時。ドアに手をかけたところで不意に気配を感じて振り返ると、看板の前に先程まで無かった筈の姿があった。
月光に照らされたその姿は半透明で、その足下に影は見当たらない。真逆そんな状態の〝人間〟が──然も其れが見知った相手だなんて──此処にやって来るなんて思いもしなかった。そしてそれは相手もだったのだろう、ぼんやりと看板に目を向けていた彼が自分の置かれている現状を把握出来ていないのが分かった。
わたしは彼の存在に気が付いているけれど、彼は未だ此方に気が付いていない。其れがまるで初めて出逢った時のようで……誰にも見られていないのをいい事に、くすりと笑んだ。
「──こんばんは、織田さん。」
そうしてわたしは、彼に声を掛けた。初めて交わった彼の鳶色は、迷子の子供を思わせるように少しだけ不安げに揺れていたものの、徐にその血に染まっている手を取ってあげると安堵したように細められ、そして矢っ張り、少しだけ潤んだ。
寡黙な彼の語り口は、まるで小説の一節を紡ぐようだった。
14の頃まで二梃の拳銃を操り、殺し屋として生きていた事。転機となった一人の男との出逢いにより殺しを止め、〝人殺しをしないマフィア〟として横浜の裏社会の頂点に立つポートマフィアの最下級構成員として生きてきた事。気の置ける友人の事、あの仔を飼っていた子供たちの事、抱いていた夢、そして死ぬに至った事件の事。
普通の生温い世界で生きてきた一般人のわたしからはまるで想像もつかない程、其れこそフィクションのような人生だったようだ。
然しわたしなんかよりもずっと、現実世界を生きていたのだなと思った。だって彼は、ちゃんと自分と同じ人間たちを愛せていたのだから。
捲し立てるように、然しひとつひとつ大事に語り尽くした彼に差し出したお茶を勧めると、矢張り渇いていたのだろう、その湯呑の中身を一気に呷り喉を潤していた。話し出す前に用意したお茶だったから、苦味は増しているだろうけど屹度飲みやすい温度にはなっている筈だ。彼に釣られ湯呑を傾けたわたしには少し冷めすぎているような気がするけれど、其処はまあ、些末な事でしかない。渋茶は好物である。
「……驚かないんだな」
ふと、声のトーンが普段通りに戻った彼がわたしに問う。其れに対しわたしは肯と答えた。
「他人がどのような人生(みち)を歩もうが、わたしの知るところではありませんから」
表だの裏だの、何処に居ようが〝人間〟というだけでわたしには皆一緒です。きっぱりと彼の瞳を見詰めたまま言い切ったわたしに、彼は如何いう訳か寂しそうに目尻を下げる。
「名字は、強いな」
「? そうですかね」
「普通は、表に居る人間と裏に居る人間は違うと言う人の方が多い」
「抑も、その違いは誰が決めたのでしょうね」
そんなもの、自分は善人だと宣う人間たちが勝手に決めた些末な違いだろう、そう、まるでこの冷めきった渋茶のような。ずずーっとお茶を啜るわたしを、織田さんは目から鱗といった驚き顔で見てくる。え、何か可笑しな事言った?
「……何です。その顔」
「いや……そういう考えもあるんだなと思ったんだ」
「だってそうでしょう。──大体、矛盾してるんですよ。人を殺す事が絶対悪と謳われているのに、何故戦争では沢山殺せば殺す程褒められるんです?そんな人間、百回死罪になっても英雄にはなれないのに」
そんなゆるゆるな常識や概念を押し付けられたら、溜まったもんじゃないですよ。
「本当に、人間が嫌いなんだな」
不機嫌丸出しで不平を零すわたしに、彼は確認する様にそう問う。とは言え其れは最早疑問符も付いてなくて、既に彼の中で確定されているようだった。
「──ええ。嫌いですよ、人間なんて。滅んでしまえば良いと思う程には」
だからわたしも、今更取り繕う事などせずに本心を吐露する。聞かれた所で死人に口無し、この人はもう死んでしまっているのだから他の誰かがこの事実を知ることは無いし。
そんなつもりは無かったけれど結果的に打算的な発言だったなあとぼんやり考えていると、織田さんはまた、無表情の中に少しの寂しさを滲ませてわたしを見た。
「……聞かせてくれないか?」
「何を」
「お前の今まで生きてきた人生を。……お前が此から、如何生きていこうとしているのかを」
吃驚した。
真逆、自分が訊かれる立場になるなんて思ってもみなかった。
先刻とは反対に驚いているわたしを見つめる鳶色は、然し先刻のわたしとは違って何処までも真っ直ぐで、そして真摯だった。
(……貴方とは違って、何の面白味も無いですよ)
(其れでも良い。俺は其れが聴きたいんだ)
(わー…物好きぃ)
「邪魔したな」
空が白んで来た頃、徐に彼は立ち上がった。それに倣いわたしも立ち上がり出入口まで先導し、ドアを開けてやる。
「今日は仕事か?」
「ええ。此から入院中の仔たちの看護します」
今日は不眠での仕事ですねえとおどけて言うわたしに、彼は眉を下げて「申し訳ない」と謝ってくる。
「謝罪の必要は皆無ですよ。わたしも楽しい時間を過ごせましたし……あ、社交辞令じゃないですよ?」
「判っている。お前はそんな風に他人に媚びたり出来ないだろう」
「……ん?貶されてる?」
「俺としては褒めた心算だが」
「なら良いです」
他の誰かが聞いていたら思わずツッコミを入れたくなるような会話も、之で最後なのだと思うと少しだけ物悲しい。人間は嫌いだけれど、会話をする事自体は其処まで厭ではないし、何より相手が一年前のあの時、猫を譲るに値したあの織田さんなのだ。信頼していた人を失うのは、矢張り惜しい。
こんなわたしでも、信頼している人は、両親をはじめ数人居る。信用しているかは兎も角。
「……名字」
「はい?」
「お前の歩む道は、屹度大変だと思う。なかなか理解されない上、自身の命すら危うくなる事もあるだろう……俺としては、本当は止めて欲しいのが本音だが」
「でもお前は、自分が正しいと思った事は何が何でもやり遂げるのだろう。それなら俺は、見守るだけだ」
──いや、わたしの事は構わずにさっさと成仏して下さいよ何の為に徹夜で語り合ったと思ってるんですか。
なんて悪態は、頭に乗った大きな掌の衝撃で言葉にはならなかった。
その手は頭を右往左往し何度か撫でた後、名残惜しそうに離れていく。それに合わせて視線を上げると、また彼と正面から眼が合った。
細められた鳶色は、何処までも優しい。人間不信のわたしでさえ、その視線に込められた感情をすんなり受け入れてしまいそうだ。
「──本当に、残念です。もう貴方と会えないなんて」
だから、こんな事を口走ってしまったのだろう。織田さんはわたしの発言に少しだけ目を丸くしたあと、くっと笑いを噛み締めた。
「生きていた時の俺とは、此処まで話す事は無かっただろうに」
確かにその通りだな。そう思いわたしも笑った。
(朝の空気はまだ誰にも穢されていない様な、そんな爽やかさと清々しさがある)
(わたしはその空気を胸いっぱいに吸い込んで、汚い二酸化炭素を吐き出す)
「……ああ、今日も良い天気になりそう」
(隣にはもう、誰も居なかった)