女性棋士さんの
とある女性棋士の人生。
name
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
ふと思い立ち、次の対戦相手の過去の棋譜を目的に向かった将棋会館で。
「……ん?」
廊下に転がった、草履を見付けた。
時刻はもう夜遅い時間帯、恐らく今この場に居るのは館に勤める職員のみで、あと一時間もすればこの場所も施錠され、誰も居なくなるだろう。
その所為もあって、こうして廊下での落とし物も誰に気付かれることなく此処に転がっているのだろう。そう推測した俺は、何となしにその草履を拾い上げた。
「何で草履が…?一体誰のだ……」
言いかけて、気付く。持ち上げたその草履が自身の骨張った手に収まるくらいの大きさしかないことと、草履の向こうに色鮮やかな布が無造作に落ちていることに。
ますますわからない現状に、とりあえずそれも拾おうと歩を進めた。
そういった要領で、次々と廊下に落ちているものを拾い上げながら、今日は此処で誰が対戦していただろうかとぼんやり思い返す。もしかしたらその中の誰かの物かもしれないと思ったからであって……「あ、」浮かんだ心当たりに、自分の行動は間違っていなかったと安堵したとともに、いやちょっと待てよともう一人の自分が焦りだす。
(小さな草履、明るい布地、男物とは明らかに違う着物……これってもしかしなくても)
女物の着物を着る人物なんて、此処では一人しかいない。
(そして僕は、今とんでもないものを拾っているんじゃ……!)
そう思いながら最後の一枚──それは、所謂襦袢と呼ばれるもの──を拾い上げたとき、それの下に見えた肌色に彼の身体の動きは完全に停止した。ギギギ、と顔だけが動き、視線をずらし確認する。
そこには今しがた自分が手にしている白い薄手の布を上に被せただけの、下着姿で眠りこける一人の女性の姿があった。
こちらの心情など知りもしないといった様子で床で爆睡しているその顔は、憎いほどに穏やかでどこか愛らしい。しかし閉じられた双眸のすぐ下にうっすらと浮かんでいる隈が、彼女が今に至るまでよく眠れていなかったことを証明していた。
彼女のことは、よく知っていた。
「──名字、さん…っ」
とは言え、言葉を交わしたことはほとんどありはしないのだけれど。
もう夜も遅い時間帯、将棋会館の廊下にて、まるで蛇が脱皮をするように脱ぎ散らかされた着物の先に、下着姿で横たわっている女性がいて。
(め、目のやり場が……!!)
そう思いつつも、そこは男の性というものなのか、ちらちらと視線を送ってしまう。括れたウエスト、華奢な肩や足首、けれども決して痩せすぎという訳でもなく、見た目からして柔らかそうな体躯は男のそれとは明らかに違う。そして、最後の砦としてきちんと役目を果たしている胸部と臀部を覆い隠している青い下着……その奥を想像してしまって、がばっと勢い良く顔を逸らした。
(お、思ってたより大き……いやいや思ってない!考えてない!!)
「桐山?」
「はい考えましたごめんなさい!!」
自分の思考に頭を振ってセルフツッコミをする彼の名を呼ぶ第三者の声に、少年──桐山零は滅多に張らない声を上げて咄嗟に謝罪の言葉を叫んだ。
これに驚いたのは先程桐山、と声を掛けた人物だが、彼の真っ赤に染まった顔とその傍で呑気に眠りこけている女のあられもない姿に全てを察し、深い深い溜め息を零した。
「全く、こんな所で寝ちまいやがって……悪かったな桐山、服拾ってくれて」
「へ、あ、はい、大丈夫です……」
咎められるどころか相手からも謝られてしまい、暴走していた少年の頭もすうっと冷静になっていく。そして我に返った彼の目に映るのは、慣れた手つきで眠る彼女に襦袢を被せ身体を隠し、軽々と横抱きにする相手の姿だった。
合間に、相手が事の顛末を教えてくれる。
「ここ一番の対局の時には、着物で来ることが多くてな。それで長丁場の対局が終わると、締め付けられていた身体を早く解放したくなるんだそうだ」
「はあ……でも今回は控え室まで間に合わなかったと……?」
「いや、恒例行事だよ」
「え、」
「部屋から出た瞬間から脱ぎ始めるから、廊下にはいつも着物が散らばってる。ついでに言うと本人もぶっ倒れてる。俺らA級棋士たちの間では既に見慣れた光景だよ」
全く、いい迷惑だよ。口では呆れた物言いではあるが、彼女を見下ろす相手の目には優しいものが含まれていることに、少年は気が付いた。
「邪魔したな」
「いえ、僕は全然」
持っていた彼女の着物の一部を相手に渡し、踵を返すその細い背中に「あの、」と声を掛ける。
「名字さんは、その……」
言い淀む少年の言いたいことを察したのだろう。遮るように返ってきた「勝ったよ」の言葉に、少年は俯かせていた顔を上げて二人を見る。
「こいつがこんな風になるのは、勝った時だけだからな」
「そ、うですか」
本当はまだ、相手に聞きたい事があった。でも二の句が告げなかったのは、その背中が、その横顔が、〝今は聞いてくれるな〟と、強く訴えてきているような気がして。
「じゃあ、またな」
「お疲れ様、でした……」
結局少年は、ただただ見送ることしか出来なかった。
一人残された桐山少年の頭には沢山の〝どうして〟が浮かんでいた。
どうして、彼が今日、この場にいたのか。
どうして、彼女が勝ったと教えてくれた時、苦しそうな、何かを耐えるような顔をしたのか。
どうして、まるで見えない何かに彼女を奪われてなるものか、というように、彼女を抱える腕に力を込めたのか。
考えたところで、自分一人の頭では答えなど出る筈もなく。相手の告げた〝また〟が来るまで大人しく待っていようと、ぽこぽこ浮かぶハテナを一度払拭した。
「……それにしても」
あの細腕のどこに、成人女性を軽々と抱えられる力があるというのだろう。
と、普段なかなかお目にかかれないような相手──島田の男らしさを感じさせる部分を目の当たりにして、少年桐山は感動から今更ながらに頬を赤らめたのだった。
名字名前、28歳、女性。
職業──プロ棋士。
あの島田と並ぶA級八段の実力を持つ、数少ない女性棋士の一人である。
「……ん?」
廊下に転がった、草履を見付けた。
時刻はもう夜遅い時間帯、恐らく今この場に居るのは館に勤める職員のみで、あと一時間もすればこの場所も施錠され、誰も居なくなるだろう。
その所為もあって、こうして廊下での落とし物も誰に気付かれることなく此処に転がっているのだろう。そう推測した俺は、何となしにその草履を拾い上げた。
「何で草履が…?一体誰のだ……」
言いかけて、気付く。持ち上げたその草履が自身の骨張った手に収まるくらいの大きさしかないことと、草履の向こうに色鮮やかな布が無造作に落ちていることに。
ますますわからない現状に、とりあえずそれも拾おうと歩を進めた。
そういった要領で、次々と廊下に落ちているものを拾い上げながら、今日は此処で誰が対戦していただろうかとぼんやり思い返す。もしかしたらその中の誰かの物かもしれないと思ったからであって……「あ、」浮かんだ心当たりに、自分の行動は間違っていなかったと安堵したとともに、いやちょっと待てよともう一人の自分が焦りだす。
(小さな草履、明るい布地、男物とは明らかに違う着物……これってもしかしなくても)
女物の着物を着る人物なんて、此処では一人しかいない。
(そして僕は、今とんでもないものを拾っているんじゃ……!)
そう思いながら最後の一枚──それは、所謂襦袢と呼ばれるもの──を拾い上げたとき、それの下に見えた肌色に彼の身体の動きは完全に停止した。ギギギ、と顔だけが動き、視線をずらし確認する。
そこには今しがた自分が手にしている白い薄手の布を上に被せただけの、下着姿で眠りこける一人の女性の姿があった。
こちらの心情など知りもしないといった様子で床で爆睡しているその顔は、憎いほどに穏やかでどこか愛らしい。しかし閉じられた双眸のすぐ下にうっすらと浮かんでいる隈が、彼女が今に至るまでよく眠れていなかったことを証明していた。
彼女のことは、よく知っていた。
「──名字、さん…っ」
とは言え、言葉を交わしたことはほとんどありはしないのだけれど。
もう夜も遅い時間帯、将棋会館の廊下にて、まるで蛇が脱皮をするように脱ぎ散らかされた着物の先に、下着姿で横たわっている女性がいて。
(め、目のやり場が……!!)
そう思いつつも、そこは男の性というものなのか、ちらちらと視線を送ってしまう。括れたウエスト、華奢な肩や足首、けれども決して痩せすぎという訳でもなく、見た目からして柔らかそうな体躯は男のそれとは明らかに違う。そして、最後の砦としてきちんと役目を果たしている胸部と臀部を覆い隠している青い下着……その奥を想像してしまって、がばっと勢い良く顔を逸らした。
(お、思ってたより大き……いやいや思ってない!考えてない!!)
「桐山?」
「はい考えましたごめんなさい!!」
自分の思考に頭を振ってセルフツッコミをする彼の名を呼ぶ第三者の声に、少年──桐山零は滅多に張らない声を上げて咄嗟に謝罪の言葉を叫んだ。
これに驚いたのは先程桐山、と声を掛けた人物だが、彼の真っ赤に染まった顔とその傍で呑気に眠りこけている女のあられもない姿に全てを察し、深い深い溜め息を零した。
「全く、こんな所で寝ちまいやがって……悪かったな桐山、服拾ってくれて」
「へ、あ、はい、大丈夫です……」
咎められるどころか相手からも謝られてしまい、暴走していた少年の頭もすうっと冷静になっていく。そして我に返った彼の目に映るのは、慣れた手つきで眠る彼女に襦袢を被せ身体を隠し、軽々と横抱きにする相手の姿だった。
合間に、相手が事の顛末を教えてくれる。
「ここ一番の対局の時には、着物で来ることが多くてな。それで長丁場の対局が終わると、締め付けられていた身体を早く解放したくなるんだそうだ」
「はあ……でも今回は控え室まで間に合わなかったと……?」
「いや、恒例行事だよ」
「え、」
「部屋から出た瞬間から脱ぎ始めるから、廊下にはいつも着物が散らばってる。ついでに言うと本人もぶっ倒れてる。俺らA級棋士たちの間では既に見慣れた光景だよ」
全く、いい迷惑だよ。口では呆れた物言いではあるが、彼女を見下ろす相手の目には優しいものが含まれていることに、少年は気が付いた。
「邪魔したな」
「いえ、僕は全然」
持っていた彼女の着物の一部を相手に渡し、踵を返すその細い背中に「あの、」と声を掛ける。
「名字さんは、その……」
言い淀む少年の言いたいことを察したのだろう。遮るように返ってきた「勝ったよ」の言葉に、少年は俯かせていた顔を上げて二人を見る。
「こいつがこんな風になるのは、勝った時だけだからな」
「そ、うですか」
本当はまだ、相手に聞きたい事があった。でも二の句が告げなかったのは、その背中が、その横顔が、〝今は聞いてくれるな〟と、強く訴えてきているような気がして。
「じゃあ、またな」
「お疲れ様、でした……」
結局少年は、ただただ見送ることしか出来なかった。
一人残された桐山少年の頭には沢山の〝どうして〟が浮かんでいた。
どうして、彼が今日、この場にいたのか。
どうして、彼女が勝ったと教えてくれた時、苦しそうな、何かを耐えるような顔をしたのか。
どうして、まるで見えない何かに彼女を奪われてなるものか、というように、彼女を抱える腕に力を込めたのか。
考えたところで、自分一人の頭では答えなど出る筈もなく。相手の告げた〝また〟が来るまで大人しく待っていようと、ぽこぽこ浮かぶハテナを一度払拭した。
「……それにしても」
あの細腕のどこに、成人女性を軽々と抱えられる力があるというのだろう。
と、普段なかなかお目にかかれないような相手──島田の男らしさを感じさせる部分を目の当たりにして、少年桐山は感動から今更ながらに頬を赤らめたのだった。
名字名前、28歳、女性。
職業──プロ棋士。
あの島田と並ぶA級八段の実力を持つ、数少ない女性棋士の一人である。
1/1ページ