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アヒールタイム

宿に到着し、それぞれ割り振られた部屋へ入ると、荷物を下ろし、上着を脱いで身軽になる。
「おっといけねえ」
 ベッドの上に脱いだ上着を再度持ち上げ、ポケットからアヒルを取り出すと、ヘッドボードにポンと配置した。
「お前も疲れただろ」
 朱雀に言われた通り、本当に『朱雀だと思って』なのかは分からないが玄武は優しく声を掛け、目を細めて笑う。
「見れば見るほど愛着の湧くアヒルだぜ」
 ベッドの上に身体を投げ出し、アヒルの頭の赤いトサカをつんつんと突く。
「そういえば、一希アニさん言ってたな……」
 宿までの道中、一希と色々話をした事を思い出す。その中でも印象深かったものが、
『英国紳士には、テディベアを抱いて寝る者も多い……らしい』
というエピソードだった。
 今回のツアーで、自分達は『英国紳士』をモチーフにした楽曲を披露する。であれば、英国紳士らしく倣ってみるべきか?と考える。ある意味思いついた事の正当化をしようとしているとも取れるが。
「テディベア……」
 ちらりとヘッドボードのアヒルを見やる。どう見てもテディベアでも、ぬいぐるみですらない。しかし玄武は意にも介せず、
「抱くには小さすぎるな」
布団の中でどっか行っちまう、と苦笑し、ごろんと大きく寝返りを打った。長身の玄武でもはみ出さない、余裕のあるサイズのベッドが有難い。
「そうだ、風呂に」
 旅の疲れと汚れを落としていない事に思い当り、玄武は上体をがばっと起き上がらせる。
「ついでに洗うか」
 アヒルを見下ろし、目が合ったと思えばむんずと鷲掴みにしてバスルームへと連行してゆく。
 バスルームに鎮座するバスタブの中を覗くと、栓が存在せず、湯を溜めることができない事を玄武は理解する。出発前に調べたところによれば、湯船に湯を溜めて浸かる習慣がイギリスにはなく、元々栓が湯船にない場合が大半だという事だった。
「郷に入っては郷に従え、だな」
 ユニットバスで全身の汚れを落とすと、バスタブの底の穴から泡混じりの湯がゴボゴボと音を立てて流れてゆく。それを聞きながら、玄武は目を細めて手を伸ばし、傍らに置いていたアヒルを手に取った。
 シャワーの湯と、石鹸の泡で丁寧に洗うと、黄色いボディがより鮮やかさを増したように感じた。そして頭のトサカも、より強く燃え上がるような赤へと生まれ変わったような気がしてくる。
「どうだ相棒」
 得意げな声で、手の中のアヒルに向かって話しかけ、シャワーの湯を止める。
備え付けのバスローブを羽織り、眼鏡を掛けてタオルでアヒルの水気を拭き取ると、
「漢前になったな」
満足そうにピカピカの相棒を眺めて一人喜んだ。

「おやすみ、相棒」
 その夜玄武は、ヘッドボードではなく隣の枕にアヒルを迎え、相棒似の顔を眺めてぐっすりと眠りに就いた。
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