薄明とか背徳とか

 
 共同浴場を出て誰もいないはずの校舎の見回りをしていたら、むっくんが風を切ってやってきた。
 しゃがみ込んで、よしよし、と撫でると背負ったスピーカーから久々に港区の上司の声が聞こえた。

「…………わかりました。すぐに準備します」

 もうそんな時間だったのか。教師として、この羅刹学園に来て何度カレンダーを破り捨てただろう。書き込んだ入学と卒業の予定の数は少なくない。
 いくら新入生が入っても、鬼関の人手不足が解消されることはない。これが事実であるということが、この学園での生活で、私の心を蝕んでいた。


「何を準備する気だ」


 頭上から影が降ってきて、振り返るとそこにいたのはいつものマスク姿ではなく、素顔を晒した皇后崎くんだった。

「明日になればわかるよ。ほら、夜遅いし皇后崎くんも早く寝な」

 ね、と首を傾けるが彼は納得のいかない顔でこちらを見る。

「はぐらかすのか?」

 幼子にサンタについて言及される気持ち、とでも言うものか。
 いつもより表情が見えるせいか、皇后崎くんの感情が少し窺えるようだった。かわいいなぁ、なんて思いながら、ふふっと微笑んで立ち上がる。

「明日はきっと戦闘訓練だよ。頑張ってね」

 おやすみ、と軽く右手を振って一方的に会話を終わらせた。やや無理矢理感はあるがしかたない。
 ……そもそも彼はなぜこの時間に出歩いているのかという疑問を抱きつつも、野暮用だろうと指摘はせずに、彼にくるりと背を向けた。

「……おい」

 踏み出した足を引き留めて首で振り向くと、皇后崎くんは手首を掴んで、その勢いのまま体ごと私を壁に押し付ける。
 もう片方の腕で彼を退けようとしたが、そちらも手首を掴まれて、反撃できぬよう両腕を顔の横に押さえつけられた。壁面の冷たさが布越しに伝導していき、体の芯を冷やす。

「……誰かきたらどうするの」

「来ねぇよこんな夜遅くに」

 皇后崎くんはそう言い捨てると、私より高い目線から見下ろした。

「見回りがあるのよ」

 その見回りはここにいる。

「いやほらさ、先生、未成年淫行になっちゃうから」

 顔を背けてせめてもの抵抗に彼の倫理観にすがってみた。しかし効果はいまひとつなようだ。

「ね皇后崎くん」

 悪巧みをする子供を諭すように優しく声をかける。それが伝わってしまったのか、彼は口を結んでムッとした表情をした。

「あと数年もしたらかわんねぇよ」

 張り合っちゃうところに年相応の少年らしさが残っている。そういうところ、なんて口が裂けても言えないものだ。

「鬼に法律なんて関係ねぇ」

 残念だけど皇后崎くんには倫理観が備わっていないようだ。いや、皇后崎くんからしたら大丈夫かもしれないが私は社会的に死ぬ。
 壁に押し付けるように掴まれた腕に力が込められた。

「……それとも……無駄野か?」

 体の奥で心臓が握られたかのように音を立てて軋む。彼があまりにも弱々しい声で呟くもので、逃げるように背けていた顔を向け視線を合わせた。
 まっすぐこちらを見据える瞳が揺れた。苦しい、そんな心の内が聞こえてきそうな表情をするから、私の胸まで痛くなる。端正な顔に見つめられて赤面した内心を隠すように、もう一度視線を外した。

「いや……ちがうよ」

 震える声で答えると、彼が腕を握る力が弱まった。

「花魁坂か?」

 先輩の二人とは同じ職場で働いているため接触は少なくないが、それも同僚程度の距離感である。何が普段冷静な彼をこんなにも掻き立てるのだろうか。

「ほんとにそういうのじゃなくて」

 皇后崎くんのひざが割って入り、いよいよ動きを封じられる。

「好きなやついねぇんだろ?」

 安心したのか、皇后崎くんの表情は、いつも通りの平静に戻っていた。

「ま、まぁ……」

 それどころか彼は返事を聞くと挑発的に薄く笑い、獲物を狙う獣のように目を細めた。

「じゃあ」

 彼の瞳が閉じ、整った顔が視界を満たしていく。鼻と鼻が触れ合う距離感で、互いの呼吸の温度が混ざりあい肌を溶かした。

「俺でいいじゃねぇか」

 私の返事は柔い何かによって、行き場をなくして口内に漂う。それが、彼の唇だということを認識するのにたいして時間はかからなかった。驚いて口を開くと、その小さな隙間を広げるようにように彼は深く口付ける。 

「……!……はぁっ……」

 両手を固定されなす術なく彼の思うまま、そのキスの隙間から浅い吐息を漏らした。
 彼が瞼を持ち上げゆっくりと顔を離すと、名残惜しむように銀糸が二人の間にかかった。

「皇后崎くん」

 困ってしまうはずなのに、体はすでに熱に浮かされたように火照る。心臓の音がやけに体に響いてうるさい。
 ふいに、いつかの京夜先輩の言葉が頭をよぎる。私を射る瞳が欲情に濡れ、彼の興奮が空気を通して伝わるようだった。
 先生と生徒という関係の前に、二人きり、男と女という事実は変わることはない。年下のまだ幼気な少年に年甲斐もなく心を乱されてしまう。
 本能と理性の狭間で揺れる感情を、どこで処理していいのかわからなくて、内側でドロドロとしたものが渦を巻いていた。

「なんだよその顔ずりぃ」

 先程と同じように彼が近づき口付けられる。
 はやく、拒まないといけない。私は大人であり教育者だから。でも、わかっていてもそれを言葉に、行動に移すことはできなかった。
 鬼として隠れて生きてきた生徒が、自由のきかないこの学園で、オアシスのように教師に惚れることは知っている。悔しい。私は悪い大人だ。この口付けを拒めないことがそれを端的に表しているだろう。

 一度受け入れて希望をみせられてから突き落とされるのは、どれほど残酷なことだろうか。
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