A tesoro mio
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やや遅い昼食は簡素に、夜にはそれなりのディナーを用意して、去年と同じに雲雀の部屋で時を過ごす。例年は雲雀と共に本部の警備に当たっている骸は、帰宅と入れ違いにどこかへ出向いて行った。もしかすると去年の諍いを繰り返さぬよう配慮してくれたのかも知れない。
食器の片付けも終わり雲雀は気だるげに風呂に行く。もうルイがここに居る理由は無いのだが、何となく一人の部屋には帰りたくなくて、窓の前に佇み静かな時計の音を聴き続けていた。カーテンの隙間から覗く外、闇夜をうっそり照らす雪華をまんじりともせず眺めながら。
銀世界が想起させるおぞましい記憶とベルモンドの言葉が、ぐるぐるぐるぐる廻る、廻る。
「まだ見てるの?」
振り向けばいつの間にか湯上がりの雲雀がすぐ後ろへ立っていた。
「ずっと外ばかり気にして。雪がそんなに珍しいかい?」
「嫌いなの。雪。早く止めば良いのにって」
「嫌い?」
「ね、雲雀さん。私もいつか子供欲しくなるのかなぁ」
「はぁ?」
ぽつぽつ説明する。今日あった出来事とそこへ繋がる経緯を。
数年前に旅先で倒れていたベルモンドを偶然居合わせたルイが救命したのが発端だった。傍で狼狽えていた息子にとってルイはまるで空より舞い降りた天使に見えたらしい。それ以来すっかりルイに熱を上げてしまった息子の想いを叶えてあげたいベルモンド、その親心は今や執念の域に。そうしてかくの如き言論を駆使しては何とかルイをその気にさせようと必死なのだ。
雲雀は黙って聞いていた。が、話し終えた後は少し不機嫌な顔を見せる。
「ベルモンドなんてイカれた爺さんの戯言真に受けてるの?馬鹿馬鹿しい。大体君は男だの結婚だのあれ程拒絶してた癖に何の心変わりだい。その息子とやらが気に入ってるのかな?親の手借りなきゃ女一人口説けないおしゃぶり付きを?」
「まさか。素敵な人だけど…それだけ」
「素敵だって?」
雲雀の眉間の皺が深くなってもルイは気付かない。催眠にかけられたように薄暗い雪景色に囚われていたから。
「あの人はおしゃぶり付きじゃない。文武両道のスーパーエリートっていうの?親の七光りは御免だって学生時代から企業立ち上げて、若き実業家として各界から脚光浴びてる野心家よ。見た目良し性格良し、その癖ベンツの横に乗せてるのは女じゃなくてペットのチワワ。びっくりでしょ」
彼は悪い男では無い。むしろその性分には好感を持ってすらいる。けれど、けれども。
「でもね、あの人がどんな人かなんて関係ないの。こんな仕事してたら患者やその家族に心寄せられるなんてザラで、あの人は私の事なんか本当は何にも知らないんだから」
そう、何も知らないのだ。いくら一途に想ってくれていたって、そんなものに何の意味がある。今ルイの胸を縛っているのは一つの想いだけ。
「私は自由で居たい。結婚なんて…それは本当なの。ただね、」
ひらひら舞う白雪を見つめて。
「普遍的な幸せってあるじゃない。ジェンダーに強要されたそれじゃなくて、人間の根幹的な欲求の成就って意味の…。そう考えた時に私は…それを見ないふりした事をいつか悔やむ日が来るのかもって、ほんのちょっと思っただけ」
「…ふぅん」
静寂が落ちる。
こんな事に今更心を乱されるのは、疎ましい雪の日だから。そして、…この人に出会ってしまったから。
もし自分が普通に生まれて普通に生きて来られたならば。もし、普通の女だったなら――
今背後に佇んでいる男を真っ直ぐ見詰めてあなたが好きだと言ったのだろうか。頬を染めて返事に期待して。もし願いが叶ったならば、何の罪悪感にも縛られぬ幸せなだけのキスを受け入れて、柔らかなシーツに横たえられて、羞恥に目を伏せその時を迎えたのだろうか。左の薬指に光るリングに涙して、我が子を迎える日を心待ちにしたのだろうか。
「……」
そんな事分からない。どんな生まれだったとしてもそうはならなかったのかも。何れにせよ人生にもしもなど有り得ないのだ。証明されたパラレルワールドの存在、しかし自分は結局ここに立つ自分でしか無いのだから。
ボヤいたら僅かに気が晴れた気がした。
「ごめんね変な話して。忘れて…じゃ、私部屋戻」
踵を返そうとした時だった。不意に背を包む感触。背後から抱き竦められ息を飲んだ。
「…子供は欲しくなった時に作れば良いだろ。欲しくも無いのに急ぐなんて馬鹿げてる」
「あなたはそうでしょうね。私には色々有るのよ。色々…」
鎖骨の上に回された両の腕に、そっと指を絡めて。とくん、とくん。感じるのは自分の鼓動か背中越しに伝わる彼のものか。何故こんな事をしているのだろう。分からないが振りほどく気にはなれない。なれる訳がない。
「キャリアなんか上手くやればどうにでもなるさ。君に引退されて困る人間は腐る程居るんだから。とにかく今の君が悩む事じゃない」
「……」
「ねぇルイ」
滅多に呼ばれぬ名に心臓が跳ねた。ぎゅうと抱いて来る力が強くなる。耳元で、低く、優しく。ほんの僅かに掠れた声で。
「いつか本当に子供欲しくなったらいつでも協力してあげるよ」
「は……?」
意味が分からなかった。咄嗟に振り返れば視線がかち合う。吸い込まれそうに冴え冴えとした灰の瞳に自分が映る。微かに揺れる。ひんやりした手が頬に添えられ、ゆるりと触れ合った唇が酷く熱い。肌を滑る手はやがて耳に、髪をくぐり抜けうなじに。ちゅ、ちゅ…小さなリップノイズが響く。子供の戯れのようなそれを幾度も繰り返して。
「、」
入り込んで来た舌がねとり絡み合った時、内側に仄かな火が灯るのを確かに感じた。ちろちろ、舌先をくすぐられて柔く吸われて撫ぜ上げられて。かくも面妖なる蹂躙に恐れ慄き拒絶する理性とは裏腹に、それは否応無く体の奥深い中心に熱を宿しじわりじわり広がって行く。酷く甘美な痺れが、脳髄まで満たした時。
「ふぅーー…」
奇妙な音が聴こえた。自身の声帯に残る微かな感触に気付いた瞬間、弾かれたように体が跳ねた。何をしているのだ。馬鹿じゃないのか。だって、今ルイの体を支配していたのはきっと――
「ルイ」
飛び出した秘めやかな世界へ再び手招く囁き。魔性の声で放たれる言葉を全身で聴いた。
「僕にしなよ」
「え…」
「君が好きだって言ってる。縛ったりしないよ。君は好きに生きれば良い」
決して逸らされる事の無い瞳。嘘、有り得ない、何言ってるの?動転する心の裏側で、それでも彼は嘘なんて吐いていないと理解する。駆け巡る今まで向けてくれた眼差しや言動、その全てがそれを証明していたから。
バクバク苦しいまでの心音が止まない。息が苦しい。嬉しくて堪らない。けれど…。
今、自分はどんな顔をしているのだろう。どんな顔をすれば良い。
「…あり、がと……」
ひしゃげたような喉から振り絞る声は掠れに掠れて目前の男に届くかどうかも怪しい。こんなに嬉しいのに、ああ、彼の目を直視出来ない。だって。
窓に向き直って開く。舞い込む冷気。重々しい牡丹雪。
雲雀は何も知らない。彼とはこの一年ちょっと良い事もそうでない事も随分分かち合って来たけれど、それでも知らないのだ。優しい賢いルイ先生しか見えていないベルモンドの息子とそういう意味では変わらない。
「私…」
あなたが好き、と。言えたら良いのに。どうしても、どうしても。胸の中の重りがどんどん体積を増して心臓を圧迫する。
遠い日の大雪原。肌に食い込む枷。猛吹雪で霞む視界、死んだ世界。谺響する忌まわしい呪い。
クレージュ、クレージュ。お前は最高の…
最高の玩具だ
ぎゅうと拳を握る。嫌だ。この人には知られたくない。絶対に、死んでもこの人にだけは。知ればこの人は去って行くだろう。好意を嫌悪と軽蔑に塗り変えて、あっさりと。
けれど言わないのは卑怯な事。騙すも同然の重罪だ。それでもどうしてもこの人を、この狂おしい程に愛しい想いを失いたくは無い。
だから振り向いてはにかむ。
「嬉しい。ね、私もあなたが…」
好き、言おうとしたら胸が痛む。口に出来ない想いの代わりにその胸に頬を寄せてみた。どうかこの気持ちを受け取って欲しい。いつか来たる崩壊の時までは。少しの間だけで良いの、大好きなあなたと優しい夢に浸らせていて。
もう後戻りは出来ない。最低な開き直りをしてしまえばむしろ心は軽くなる。楽しんで良いのよ、どうせ天罰が下るのだから。そんな破滅的思考がもたらした一種の狂気だったのかも。しかしそんな事どうでも構わなかった。愛しい男が大事にするよと強く抱き締めてくれたのだから。
そうして惹かれ合う二人は晴れて恋仲となった。
この日のルイの最高の幸運、或いは最悪の不運。それはすっかり浮かれ上がってしまった故に、熱を孕んだあの深い口付けで、生まれて初めてじゅんと熱く濡れそぼった下着に気付かずにいた事——