A tesoro mio
name change
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
「はー、楽しかった…」
砂浜に上がり濡れた髪先を軽く絞る。今は一体何時なのか。脱いだサンダルを履いて転ばぬようゆっくりと進む。隣の雲雀も砂だらけの上着を拾って靴を履いて、魔法に掛けられたかのような不思議な時間はもう終わり。名残惜しさに出たばかりの海を振り返れば、ふと潤の台詞が胸を去来する。
——夢の時間はもう終わり——
「……」
彼女もこんな時間がずっと続けば良いとそう思っていたのだろう。きっと。何となく複雑な気分だ。雲雀はもっとそうなのかも知れないけれど。ちらりと見上げた先の彼は砂が落ちないなどとぶちぶちボヤいている。
「…雲雀さん」
「何?」
「何て言えば良いのか分からないけど…お疲れ様。休暇ゆっくり休んでね」
それは何気無い言葉だったのだがここで初めて雲雀の表情に変化が現れた。眉を顰めてあからさまに剣呑な声。
「良く言うよ。女同士でコソコソして僕には隠そうとした癖に」
ああ、やはりそう取られていたか。返答に詰まってしまう。それこそ何と言って良いのか分からずに。
「…だって、仕方ないじゃない」
「守秘義務。正しい判断だ。君は仕事が一番大事なんだから」
何時に無い皮肉はルイの胸を酷く抉って来る。そうではない、そうではないのだ——衝動的に振り返れば一瞬の隙を付いて砂に足を取られてしまう。倒れ掛けた体を、怒りを顕にした雲雀はそれでも受け止めてくれた。
顔を上げれば真っ直ぐに目が合う。僅かな距離。心臓がまた音を刻み出す。先程とは少し違ったふうに。
「違…」
声帯がまるで仕事をしてくれない。奇妙に掠れて裏返って、それでも伝えなければ。
「ちゃんと考えてたの。あの子の未来とか、あなたの人生とか…すごくすごく考えたんだよ。正直潤さんの事だけはどうでも——いや、何でも。本当に悩んだから、どうすれば良いのかすぐには決められなくて…あなたには申し訳無かったと思ってる。けど医者としての立場なんて、あの時は煩わしいだけで…本当に」
必死に話してもそれ以上はもう言葉にもならない。沈黙の中、ルイの両腕にそっと添えられた雲雀の手はそのまま。やがて、ぽそりと聴こえる。
「…もう永遠に君を連れ出せないかと思った」
それはどういう意味なんだろう。けれど彼に良く映える冴え冴えとした灰色の瞳はルイを捉えて離さない。視線も心も何もかも。だからこう返す。
「私だってもう並盛の桜は見られないって思ったよ。…約束したのにさ」
ふと和らぐ雲雀の顔がまるでスローモーションのように映る。
「全部あなたのせいなのに私が悪いみたいに言って。ぜーんぶあなたが撒いた種なのに」
悪かったね、何て返して来るから一気に溢れ出す感情はヒートアップして行く。いけないと分かっているのに。雲雀さんの馬鹿、嘘吐き。最低男。至近距離で罵りながらもう自分が何を言っているのか良く分かりもしない。腕に触れられた両の手に僅かな力が込められる。
ザザー…ザ…
漣の歌声が二人の影を近付けて行く。ゆっくり、ゆっくりと。
「最低男?六道の為にあんな馬鹿みたいな口紅付けてた女が言うの?」
「は?あれは…」
顔と顔はもう後何cm。そんな至近距離でにわかにぶつけられる苛立ち。低くなった声。それがとても心地好いのはどうして。
「骸に合わせたんじゃない…ただ気が滅入ってて、明るい色が…」
呼吸すら気を遣う、後もう数mm。トクントクン、胸は激しく音を立てるのに穏やかでもあり、怖くもあり。
「気が滅入って?」
「だから、肌のせいで外出られなかったから…リフレッシュ出来なくて 」
ダメだ、顔を逸らさなければ。こんな事おかしい。間違っている。自分には男なんて不要、不要なのだ。けれどもう抗えない…魔法に掛けられたように吸い寄せられる。そうだ、これは魔法。海の怪に魅せられた一夜の幻想。だから、大丈夫。この人が何故こんな事をしているのかなんて分からないけれど、きっと彼もどうかしているのだ。
ぎゅっと掌を握って——ゆっくりと触れる唇。
「その癖あんな真昼間からあいつと出掛けるには差し障りない。都合の良い肌だね」
そのまま、唇を軽く軽く触れ合わせたまま吐息を漏らすように囁かれる。瞬く睫毛の感触すら胸を高鳴らせて。
「車、紫外線対策して…」
「で、ホテルまで行って泊まったんだ。君から誘って。その口で並盛の桜見たかったって?」
本当良く言うよ、尻軽。言いながら唇を離してはまた口付けられる。何度も何度も優しく、啄むように。その度にちゅ、と小さなリップノイズ。彼の唇は思っていたのよりずっと温かくて柔らかくて、堪らず震える吐息が零れる。体が感じた事の無い高まりにカッカと火照り行く。ぞくり、全身を支配する酷く甘美な痺れ。
怖い、怖い…なのに、気持ち良い。
もっと欲しい。もっとして。駄目、やめて、気色悪い。私に触らないで!激しく揺らぐ心の奥底、けれど今は…今は言い訳が出来るから。海の魔物のせいに出来るから。夜が明け止まった時間が動き出せば、きっと全てあの波が連れ去ってくれる。今は、今だけは素直になりたい。この人にも、自分自身にも。
熱に浮かされたように男の上着の裾を握る。
「ホテル、泊まっただけだよ」
「大問題だ」
「ちょっと飲んだら私は酔い潰れてトイレで寝て…」
「ちょっと?」
ちゅ、ちゅ。数多の星屑が降って来る様な優しいキスの雨は止まない。
「ちょっとじゃない。10杯は飲んだかも」
「どうしてそんなに?」
ルイが馬鹿みたいに呑んだくれた理由。それに答えるのは、もう一つだけ聞かせて貰ってから。
「…潤さんにも、こんなキスした?」
ふと唇が浮く。まじまじとルイを見つめる雲雀。ゆるりと首を振る。
「いいや、誰にも。……君だけ」
それは嘘か誠か、けれどもうどうでも良い。信じてしまおう。嘘でもこんなに嬉しいと感じてしまったのだから。掠れた声に、とても正直な言葉を乗せる。
「全部、あなたのせいだよ」
突如背に回った腕がギュッと力を込めて腰を引き寄せて来る。
「ほんとはね、あの口紅似合ってたよ」
言葉の意味を理解する前に再び重ねられた唇。今度はずっと深く、噛み付くように。もう言葉は紡げない。全てを愛しい人に委ね瞳を閉じる。
何度も何度も角度を変えては繰り返される男と女の始まり。緩やかな幕開けを見ていたのは、満天の星空と穏やかな夜の海だけ。