A tesoro mio
name change
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
一面に広がる白い砂浜、寄せては返す漣。ザザ…鼓膜に響く生まれて初めての、本物の海の音。
「わぁー…」
海なんて生涯無縁だった筈なのに。太陽の輝きは無い暗く静かな世界。しかしその景色はつい先程までの鬱屈した気持ちを吹き飛ばす程に広大で眩くて。もっと見たい。間近で見てみたい。思わず波打ち際に駆け寄ろうと足を踏み出せばたちまち高いヒールが柔らかな砂に飲まれよろけてしまう。
そんなルイを尻目に雲雀はずんずん海へと向かう。途中で靴を脱ぎ捨て上着まで放り投げてあっという間にジーンズのみの軽装になったかと思うと、そのまま躊躇無く海水に侵入。
「え?泳ぐの?」
「そうだよ」
ジャブジャブ大股に進みながらチラリとルイを振り返る。来ないの?と言わんばかりに。
「だって、着替え…」
「そんな薄っぺらい服すぐ乾くだろ。嫌なら砂遊びしてて」
「えー…海なら海って言ってくれれば良かったのに」
「行く先なんて決めてなかったんだよ」
そしてすいっと泳いで行ってしまう。慌ててサンダルを脱ぎ遠い背中を追うも砂辺にレース模様を描く白波に腰が引ける。ちょっとだけ、ちょっとだけ…。恐る恐る爪先を海水に戯れさせれば、ぬるい潮風より幾分ひんやりした感覚が心地好い。一つの波が引けばまたすぐに次の波が、今度は足首の方まで沈めて来る。
「……」
これが海なのか。皆が色とりどりの水着でエンジョイする夏の象徴。そうか、夜だったら私だって…
何だか凄まじい解放感。すっかり楽しくなってしまって、ワンピースの裾を軽く持ち上げて膝下まで浸かってみる。
「わ、気持ちい…」
ザザ…ザ…
波と風の不思議な混声に潮の香り。視界には無限に広がる海面の揺らめきと自由に泳ぎ回る男の背。雲雀はどうしてここへ来たのだろう。夜の海で一人泳ぐなんてロマンチックな柄でも無い癖に。
「……」
潤さん達が居なくなって寂しい?なんて。
そんな事聞ける筈もなく裾を摘んでいた手が知らず知らずに胸元を握る。その時打ち寄せて来た小波が太ももまで競り上がりあっと言う間に去って行った。ぐっしょり肌に張り付くワンピース。
「どんくさい」
近付いて来た雲雀が小馬鹿にして笑う。器用に顔は浸けず泳いでいたらしく、それでも僅かに濡れた顎先から雫が滴り落ちる。一滴、二滴。
「気持ち良さそうだね」
「入れば?そこまで濡れたら一緒だろ」
それはそうなのだが。
「…泳げない」
「は?」
「……泳げないんだってば。海来たの初めてなんだもん。日焼けできないの」
それだけで肌の事情だと察してくれたらしい雲雀からは、慰めも気まずさも無く「ふぅん」と気の無い返事。実に彼らしいそれに安堵と共に一抹の寂しさを感じた時、不意に此方に背を向けて自分の肩をトントンと指で示す。乗れば、と。
「え…泳ぐの?」
「他に何が?」
早くしろと言わんばかりに後ろ手にルイの腕を掴むとそのまま自分の首へ回させてスイッと波に乗り出す。途端の何とも言えぬ浮遊感。
「わっちょっ…やだ怖い!怖い!!沈む!!」
「君が暴れればね」
「ひっ…!」
「首締めるな」
怖くないよ。いつも通りに落ち着いた声がもたらす安心感。怖々全身を弛緩させて不思議な無重力に身を委ねてみれば、穏やかな波に乗りゆるりと進む広い背の何と心地好い事だろう。
「……」
無言で泳ぐ雲雀の肩に頬を預けて瞳を閉じてみる。
ちゃぷん、ちゃぷん…ザザ…
耳元で戯れる水の音とひんやりした海水。生物の起源は母なる海、だからなのか、こんなにも心安らぐのは。或いは薄い布越しに伝わる体温のせいなのかも知れない。
どれだけそうしていただろう。ねぇ、と声が掛かる。
「上」
「え?」
「上見てみな」
クイと顎先で示されたその先には。
「わぁ…!」
それはそれは見事な満天の星空。にっこり弧を描く半月と散りばめられた煌めく夜のビジュー。今までに見たどんな景色よりも、そう、あのナポリの聖アントニオのテラスよりも。今この人の背に凭れて見上げた夏の夜の空は。
「Che bello…」
キラキラ、零れ落ちそうな星屑を瞳に宿すルイを振り向く雲雀。ふと視線が交錯する。柔らかく細まった雲雀の鋭い眦。無数の光と静寂の海、この閉ざされた世界に二人きり。今ルイの心に居るのは雲雀だけ。…聞きたい。今なら聞ける。きっと今しか聞けない。
「ね、雲雀さん。…寂しい?」
トクン、トクン、緊張が生み出したあえかな心音は彼に伝わってしまうだろうか。少しの沈黙。雲雀はぼんやりとルイを見つめて、ふいと前に向き直ってしまった。
「さあ。良く分からないな」
「…そう」
「ただ…」
「ただ?」
「気が抜けた」
表情は伺えないけれど、それは今まで聞いた彼の言葉の中で一番飾りの無いもののように思えた。いつでも正直な男が、それでも決して踏み込ませる事の無い胸の内の一番深い部分を見せてくれた。どうしてかそんな気分になったから深追いする必要はもう感じない。
もう一度空を眺めて、それから再び肩に凭れる。ルイよりずっと大きく頑強な筈のその肩が今はほんの少しだけ頼りなく思えて、それが酷く愛おしかった。