A tesoro mio
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「もう。どうして今日はそんなに機嫌悪いの」
ファミリー向けホテルのゆったりと大きな一室。ベッドに横たわる雲雀は何をするでもなく隣でぼやく妻の声を聞いていた。傍らのベビーベッドでは息子が小さな両手を投げ出しすやすや寝息を立てている。時刻は午後九時半、乳児連れの夫婦は旅行中と云えど夜の娯楽を楽しむ事も無く就寝も早い。
「悪くないよ。気のせい」
「そう?ねぇ…」
擦り寄って来る柔らかな体。細い指がするりと胸元を撫でる。
「…眠い、今度ね。おやすみ」
その手をやんわり拒み、けれども片腕を背に回してそっと包み込む。それが今の雲雀に出来る精一杯だった。
「……。おやすみなさい」
胸の中で素直に瞼を閉じる潤への一抹の心苦しさ。大事にしてやらなければならない。もう家族なのだから。しかし以前は簡単に持てた筈の関係が、責任を伴う現状になるとこんなにも難しい。
この女が自分をどう思っているのかは知らないが少なくとも息子にとって最善の環境を、その思いだけは一致していると思う。ならば自分達がドライな関係で居て良いわけが無いのだ。潤とてそう感じているからこそ日々乳児の世話で疲れ切っている中わざわざ誘って来るのだろうけど、何だかんだと理由を付けては逃げてばかりではそろそろうんざりさせてしまっている気がする。
「……」
何も知らされないままに我が子を産まれた事、あんなやり方で父親を強要して来られた事、葛藤はすれど恨みつらみは一切無い。妊娠の時点で伝えられていたとしても雲雀はきっと堕ろせとは言えなかったから。育てられない理由も無いのにそこまで人間の屑にはなれない。ただ…。
頭をぐるぐる回る昼間の出来事。
ねぇ、私もどっか泊まりたい──
媚びるような甘たるい声で瞳で男に強請ったルイ。自分には見せた事の無いあんな顔を、あんなに淫靡な真っ赤の唇で。
ふざけるな、今までの姿は何だったのだ。男も性的な事柄も全否定の姿勢でいた癖に。腸が煮えくり返って仕方が無かった。そんな事を思う資格はもう無いというのに。どういう経緯かは知らないが彼らが本当に付き合っているとしたら今頃はゆるりと酒でも飲んで同じベッドに?六道にあの真白い肢体の全てを晒し、与えられる快楽の頂点に喘いでいるのか?ルイが?
胸に腹に、そこから全身に灼熱の毒が巡って指の先まで痺れる。ちらりとでも口を開けたら即座に吐いてしまいそうだ。未だに自分の心はあんなにも憎たらしい女に囚われている。あんなに我儘で奔放で気性の荒い、その上男を見下し切って必要としない、挙句の果てには公衆の面前で下手くそ下手くそと連呼して来た、女としてはとことん最低な部類に入る女に。
「……」
深呼吸を一つ。もう眠っているらしい潤を起こさぬよう傍らのベビーベッドに目をやれば雲雀の守るべき宝物。すやすや良く寝入っている。
もう、忘れなければ。
「ね、雲雀さん」楽しそうに嬉しそうに呼び掛けてくる声も時に消え入りそうな儚い微笑みも毅然とした佇まいも全ては過去の事。ルイの男関係がどうだろうが、これからの自分が見て行くものは家族だけでなければならない。自分の両親がそうしてくれたように。それが一つの生命を生み出した親の責務だろう。
潤には申し訳ないがもう少しだけ待って欲しいと願う。時間が経てばきっと忘れられるから。心に折り合いを付けられるから。今は雑念を払いその為の努力をしなければ──その為に今日はこうして旅行などというものを自ら提案してみせたのだから。
少しずつ、少しずつでも有るべき家族としての形を作って行けたら良い。
静かな二つの寝息の中、沈んだ胸に抱えた決意を一人噛み締める夜だった。
一方パレルモ屈指の五つ星グランドホテルのラウンジバーでは、骸とルイがラグジュアリーな空間を楽しみつつシャンデリアに煌めくグラスを傾けていた。
「おやおや、そんなに飲んで大丈夫ですか?」
「だぁいじょうぶですよー。全然平気ー」
バリスタに薄めにと頼み作って貰ったカクテルを、まるでジュース感覚で煽り続けるルイ。これでもう何杯目だろうか。意識ははっきりしている様だが白い頬はすっかり朱に染まり口元に締まりが無くなって来ている。
彼女がこんな飲み方をするのは珍しいと感じる。昼間の事が関係している?というかもう確定だろう。尋ねてみるには頃合だ。
「まぁどうせ泊まりですし好きなだけ飲むと良い。吐かないで下さいね。…ところで雲雀恭弥の事ですが」
「なぁに?」
「率直に聞きますが、君は彼をどう思っているんです?」
こう言ったデリケートな問いへの答えは概ね最初の反応を観察すべきだと骸は考えている。考えてから開く口よりもずっと正直な感情が出て来るのだ。特に突発的に尋ねた場合は。
「え…」
ルイは瞼を幾度か瞬かせた後、すいっと目を逸らし「何急に、」口元だけで笑う。これは動揺していると判断して良いだろう。
「君達は随分仲が良かったようですからもしかしてと思っていたんですよ。香潤が彼との関係を暴露した時も先程も、君は随分と冷静さを欠いていましたね。君らしくもなく」
「別にそんなんじゃ…」
歯切れの悪い否定とは裏腹に店内を流れる陽気なボサノヴァが小気味良く響く。
「……どうだったとしても、もう今更でしょ?」
親指の先が浮き出た鎖骨の下を押す。ぐりぐり、ぐりぐり。ややこしい思考をしている時のルイのその癖は、今はフラストレーションに塗れた感情の凝縮さながらにヒステリックに見えた。
「まぁ今更ですね。ですがそこは問題ではないんです。君がその感情を持ったかどうか…そうでしょう?」
「……」
「ルイ、君は雲雀恭弥を「ねぇ、」
振り向いたルイの顔は、酷く疲れて見えた。
「考えるとね、なんかこう…すごく嫌な感覚が……。私そんなの要らないの」
「……」
グイとカクテルを飲み干すルイに骸はそれ以上の追撃はしなかった。濁り淀んだ秘密の記憶がルイを苛む内は、曖昧にしておいた方がきっと彼女の為なのだと思ったから。いつか雲雀へ抱いたその想いを素直に認め胸を甘く切ない苦しみに高鳴らせる時が来たとしたならば、骸としては淋しさの反面安堵もするのだろうが…そんな日は永遠に来ないかも知れない。少なくとも自分が促す事では無い。
しかしまあ。
「…全く。何故女性はあんな男が良いのでしょうね」
カラカラグラスの中の氷を揺らしながらぼそりと零した言葉には否定も肯定も返っては来なかった。