A tesoro mio
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「話の分かる方でしたね」
「うん」
財団の新規事業開拓の取引を終え、今雲雀と草壁はナポリを見て死ね、そんな格言をもって広く知られる地に立っていた。歴史的建造物に緩やかな弧を描く海岸線、温暖な気候。世界から賞賛を得るこの街で、しかし雲雀は辺りを見渡しては辟易と足を進める。そこかしこの路上に散乱する廃棄物の山が社会問題にまで発展しているこのゴミだらけの街を雲雀は好まない。草壁の愛車、黒塗りのセンチュリーを目前に今すぐ此処を去りたい気分だった。
「これからどうしましょうか。真っ直ぐ帰っても?」
「久しぶりにローマに寄ろうか。アルフォンソ家」
「…!そうですね!」
珍しく厳つい顔を綻ばせた草壁に、雲雀は思わず喉にこみ上げた笑いを押し殺した。
「なんでそんなに嬉しそうなの。彼女はもう結婚してるのに」
イタリアに渡って来たばかりの頃、暴漢から一人の女性を救った事がある。その女性こそが中部イタリアきっての大富豪アルフォンソ家の一人娘エヴェリーナ・アルフォンソ、草壁哲矢の人生初めての想い人だ。
当主のルカが彼らを大層気に入った為それ以降利益も兼ねて度々その邸宅に立ち寄らせて貰っているのだが、此処最近どうもルカの具合が良くないらしい。雲雀としては何も利潤だけを目的に訪問している訳でも無いので──アルフォンソ邸宅は非常に閑静且つ優雅で居心地が良く、またルカ本人との話も中々胸が踊るものがある──少し気になっては居たのだ。
「き、恭さん!俺は決して決してそのような不埒な気分では!」
顔を赤らめ必死に否定する草壁に、そう、とだけ返すと腕時計に目を遣る。時刻は13時半。着く頃には夕方になっているだろう。鍵、と草壁の方へ手を伸ばす。
「運転は僕がするよ。今君は浮き足立ってるみたいだから」
「は…、面目無いです…」
途中交通事故での渋滞に巻き込まれ思ったよりも時間を食ってしまった。結局着いたのは18時前。辺りはもう暗くなっている。警備の者に会釈をし大きな門扉を潜るとそこには広い敷地にイタリア式庭園を抱える大豪邸。入り口に近めの隅の方に停車させ外へ出ると、たちまち寒気が襲って来た。
厳重なセキュリティを通過しベルを鳴らすと執事のヴィゴールが出迎えてくれる。
「これはこれは雲雀様、草壁様。お久しぶりでございます」
いつも朗らかな初老の男は優し気な目元を微笑ませ深々とお辞儀をする。日本人の彼らに合わせてくれているのだろう、毎度毎度丁寧な人だと草壁も礼を尽くし背を曲げた。が、嬉しそうな表情からは一変、ヴィゴールは僅かに眉を寄せ声を落とす。
「実は、此処だけの話でございますが、…」
こそりと耳打ちをするような微かな声で。
「ルカ様は先日心臓の手術を行ったばかりで、現在は臥せっておいでなのです」
その言葉に雲雀の眉も寄る。
「そんなに悪かったの」
「ええ。今はもう、気力のみで生きていらっしゃる状態で…」
帰るよ。一言言うが早いか雲雀は踵を返そうとした。そんな姿を見られたくは無いだろうと。しかしヴィゴールが引き留める。
「そんな。お夕食だけでも召し上がって行かれて下さいませ。お話をするのは難しいかも知れませんが、ルカ様もきっと喜ばれます」
「……」
少し考えてから雲雀が答えようとした時、玄関ホールの奥から空気に溶け込む薄い声が聴こえて来た。
「雲雀さん?」
聴こえる筈の無い声に驚いて弾かれたようにそちらを向くと、其処には白衣に身を包んだルイの姿。何故、彼女が此処に。
「おや、先生とお知り合いでしたか。ならば先生の息抜きの為にも一層でございます!どうぞお入り下さいませ」
「……」
「恭さん?」
草壁の声にハッと我に返りながら雲雀は一つの結論に達した。それは、病院嫌いのルカが闇医者であるルイに手術の依頼をしたのかも知れないという事。否、そうに違い無い。
物凄い偶然ではあるがこうなってはヴィゴールも引かないだろう。主人の主治医の為、それは結局は大切な主人の為になるのだから。
少し躊躇いはしたが、それじゃ邪魔するよと大理石の玄関に足を踏み入れた。
大きなポートレイトがシンメトリーに飾られたフレンチ・ネオクラシカルなダイニングルームで沢山のメイド達が愛想良く二人をもてなす。放っておいて欲しいのは山々だが好意故そういう訳にも行かず、なされるがままにアンティークな椅子に座らされ気付けば目の前にはワイングラス。注がれたのはプロセッコかスプマンテか。考えている間にもプロシュートのサラダ、リコッタチーズとポモドリーニの皿などの軽食が運ばれアペリティーボタイムに突入となる。相変わらず手際の良い事だ。
正面に座るルイが啜っているのは湯気を立てるワインレッドの液体。ヴァン・ブリュレだろうか。今日はノンアルコールなんだ、問えば彼女は無表情に肩を竦めた。
「先日はどうも失礼しました。反省してます」
今は白衣こそ脱いでいるもののきちりとコンサバティブな膝下ワンピースに身を包んだルイは、平時よりきつめのメイクもあって完全に外の顔だ。先日とは違う慇懃な言葉遣い、固い表情。それが雲雀には何となく気に食わない。だからと言って噛み付くような真似はしないけれども。
「今は仕事中?って聞いて良いのかな」
「勿論。たった今シニョール・アルフォンソにあなた方との関係は伺いましたから」
余所行きの態度は崩さずルイは自分が此処に居る理由を話し始めた。実は彼女、ルカが心臓を患った数年前より彼の主治医を務めているらしい。こんな所で接点が有ったとは軽く驚きだったが、何にせよ彼の容体に合わせ数度の手術を行って来たものの今回はもう限界、心臓だけでなく様々な臓器が悲鳴を上げている状態で治療というよりは延命の為の措置をとったのだと言う。
「予定通りに行けば今週末にも孫の顔が見られる。それまで保たせてくれればそれで良い、らしいです」
一人娘のエヴェリーナに子が産まれるという事だろう。それはさて置き淡々と話すルイはどうにもルイらしく無いと感じる。意地でも患者の命を繋げようとする焔の如き情熱は何処へ行ってしまったのか。
「君はそれで良いのかい?つまり、」
「QOL、彼はそれを望みました。彼の人生の終え方を決める権利があるのは彼だけでしょう?」
「……」
「彼はあなた方と話したいと言ってます。最期に頼みたい仕事もあると。今は状態も落ち着いていますからお好きな時に」
ギギ…、広い部屋にアンティークチェアの擦れる音が響く。無言で出て行く雲雀とルイに軽く一礼しそれを追う草壁。一人残されたルイはオリーブの実を白い指で摘み、ふ、と小さく息を吐き出した。
ヴィゴールに付き添われルカの寝室へ。キングサイズの真白いベッドに横たわる彼はすっかり痩せ細っており、前開きの寝衣からは鎖骨がくっきり浮かび上がっていた。所々から生命維持装置に繋がれたチューブが伸びている。
「随分やつれたね」
ベッドサイドの椅子に腰掛ける雲雀に、この今年で齢64を数える老紳士は優し気な風貌で久しぶりだね、とか細い声を発する。皺だらけの顔は酷く青白く、目の下の薄い皮膚にはべったりと隈が張り付いていた。鼻に人工呼吸器を取り付けられていてもその息は苦しそうだ。何時でもぴしりと背筋を伸ばし良く喋る人だったというのに。
この光景は見覚えがある。病魔に蝕まれた者の最期の姿。
不意に思い出される弱々しい笑み。
かつては世界の七不思議を追い地球の隅から隅へと飛び回り、老いても尚活力に溢れていた人間の命の灯火が消えかけようとしているのを今は亡き母に重ね、雲雀は何とも言えない心持ちで只々見つめるしか無かった。
「君達に会えて良かった。渡したい物があるんだ」
目線でベッドサイドテーブルの上を示され振り向くと其処には古ぼけ彼方此方擦り切れた日記帳のような物と、同じく黄ばみ傷だらけの設計図らしき紙。そして小さな小さな箱。これは。
「匣…?」
何の属性も刻まれては居ない只の木箱だが確かにそのように見える。何故こんな物が此処に在るのだろう。
「先日身体が動く内にと身辺整理をしていて随分懐かしい物が出て来た。存在すら忘れていたんだがね」
世界を飛び回る中、ロシアの朽ち果てた地下研究施設で見つけた物だと言う。君の研究に役立てば良いんだが、そう言って微笑むルカに雲雀は手の中の小箱を僅かに握り締めた。
エヴェリーナを通じ彼を知った際は、イタリア有数の富豪というステータスからあわよくばパトロンとなってはくれまいか、そんな思いだけだった。しかし彼という人間を知るにつれ面白い男だと興味が湧いた。
既に引退済みとは言え裏世界の各方面との繋がりがある事、社交的な人柄である反面静寂を好む事、何より世界の七不思議に今尚魅せられている事。
意志を同じくした者同士腹を割って話し、ルカは雲雀の良き協力者となった。財団の立ち行きに関してもこの男の力添えは随分と助けになったものだ。表も裏側も。
その男の命が直に尽きてしまう。
もっと話したい事は沢山ある筈なのに、いざこうなってみると言葉が出て来ないものだ。彼の冒険譚の手記が綴られた日記帳をパラパラ捲りつつ、雲雀は胸に一抹の寂しさを覚えた。
「あなたの主治医はあなた自身が人生を終わらせようとしているような口振りだったよ。そうしたいと望みさえすればもっと長生き出来るんじゃないの」
少々踏み込んだ問いにもルカは穏やかなまま。
「そうだね…けれど私はもう充分に人生を楽しんだんだ。世界の不思議に胸を躍らせ闇の社会でヤンチャをして財を築き──愛しい妻と可愛い娘に恵まれた。妻の最期も看取れたし娘も無事自立したよ。生命維持装置に繋がれ動かない身体で生き長らえる事には最早意味が無いんだ。…ただ、」
孫の顔は見たくてね、それまでは。笑った血の気の無い顔は、それでも力強く楽しそうで、元気だった頃の彼の面影が甦る。
「Dr.ルイも自由を好む人だ。私の意を尊重してくれたよ。最期余りに苦しむようなら楽に終らせてくれるともね。こういう時闇医者は融通が利いて良い」
安楽死、という事だろう。ルイの命を救う手が命を刈り取る。彼女はどんな気分でその提案をしたのか。どうか悩み葛藤した上での決断であって欲しい、それは個人的感情の押し付けだと分かってはいるのだけれど。
「…ところで何か依頼があるんだって?」
「ああ、そうだった」
ちょっと面倒な話だから断ってくれても構わない、そう前置きした上でルカは話し始めた。
曰く、厳重な箝口令を敷いているルカの病状だが何処からか漏れている可能性も無くは無い。なれば彼の財産やその頭の中の知識情報を欲しがる不届き者が不穏な動きを見せても可笑しく無く、事が起こるならば最早命の尽きる彼自身より彼の大切な存在、例えば一人娘のエヴェリーナやじきに産まれるその赤ん坊が標的にされると考えられる。彼女らを人質にルカからあらゆる物を奪う算段だ。
ルカは死の瞬間その財の全てを慈善団体宛に寄付する声明を執事のヴィゴールを通して発表するつもりらしく、そうなってしまいさえすれば誰がどのような手段を用いようがそれは動かしようが無い。それまでエヴェリーナの警護をして欲しいという事だった。
生前にこっそり寄付してしまえば良いではないかなどという疑問は湧かない。誰が敵なのかも分からぬ状況では大きな金が動けばどこかで感知される可能性がある。ルカが生きている限り相続先は変更可能であり、やはりエヴェリーナ達が脅しの為に使われる恐れがあるのだ。
「Dr.ルイにはお産は専門外だと断られたが幸い此処には分娩経験もある私の優秀なホームドクターやナースも居る。君が引き受けてくれるのであれば娘は此処に呼び寄せて出産して貰うつもりだよ。報酬は私の財の半分だ」
如何かな?柔らかな表情の彼は雲雀が拒否したとしても決して怒りはしないだろう。そういう男だ。自分自身が自由意志を大事にする人間が故他人のそれも慮る。雲雀が彼に好意を持つ理由の一つだ。雲雀にしては珍しく、鋭い目を僅かにだが緩め、受けるさ、と返した。
「報酬は要らない。あなたの足跡が詰まったこの日記帳は僕にとってそれ以上の価値があるからね」
しっかりと視線を合わせる二人の男に、後ろに控えたヴィゴールは温かく濡れる頰をそっと拭った。