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「先生、私手空いたから買出しに──」
ひょこり覗いた白い白い顔はやはり息を飲む程に美しい。他者の存在に気付いた赤い瞳がじっと雲雀を凝視する。「ルイ、」師に呼び掛けられた彼女はハッと肩をびくつかせ、小さく一礼した。
「失礼、お客様いらしてたんですね」
すぐに踵を返そうとするのをシャマルの慌て声が呼び止める。
「待て待てルイ!此方があの並盛の秩序様だ。わざわざいらして下さったんだから挨拶を──ってかおめーからも平身低頭お願い申し上げなさい」
え?振り向いた彼女は明らかに驚いた様子。草壁はその理由が良く分かる。誰もこの線の細い物静かに見える男が並盛を恐怖で纏め上げた秩序その人だとは思わないだろう。尤も骸とて同じではあるけれど。
ルイと呼ばれた女は長い睫毛を数度瞬いてから遠慮がちに入室して来た。
「失礼致しました。あの…」
「この子」
ルイの言葉を遮り発される雲雀の声。シャマルに向き直るなりはっきりと。
「嫁に貰うよ。それが条件だ」
瞬間シャマルがガタッと音を立てて立ち上がり、主人の突飛な言動には慣れ切っている草壁ですら驚愕に声を漏らした。
「恭さん、何を…!」
「冗談やめてくれ」
諌めようとした草壁を押し退けシャマルが声を荒げる。当然の反応だ。一気に変わった雰囲気で真っ直ぐに雲雀を睨み付け低く言い放つ。
「こいつは俺の可愛い娘でウチの大事な医者だ。取引の材料にゃちょっと使えねぇな」
即座に事情を飲み込んだのだろうルイは不安気な表情でシャマルを見つめる。じり、僅かに後退る様が草壁には酷く不憫に思えたが「大丈夫ですよ、冗談です」などとは言ってやれない。雲雀恭弥は時折心臓に悪い冗談を吐きはするものの流石にこの状況でそれは無いだろう。どう見ても本気の本気、そして一度言い出した事はまず変えない。
自分より随分大柄なシャマルの明確な怒気に臆することも無くにやり、雲雀は先程と同じ様に口角を吊り上げる。
「イタリアの闇医者シャマル」
シャマルの眉があからさまに顰められる。
「天才の名を欲しいままにした裏社会お抱えの医師…莫大な財はその時に築いた物かな?しかしとんだ女癖の悪さで王妃に手を付け全国指名手配、国外への逃亡を余儀無くされ来日」
「……」
「どういう訳か荒廃した黒曜に腰を落ち着けるとすぐに浅利診療所を立ち上げ、西洋医学に通じた腕利き医師として信頼を集めながら今に至る…素晴らしい経歴だね」
書物を読むかの如くスラスラ並べられる己の半生をシャマルは黙って聞いていたがやがて溜息と共に皮肉交じりの言葉を吐いた。
「流石並盛の秩序様、恐るべき情報網で。…だがそれがどうした。入国した時点でイタリアでの指名手配なんぞ何の効力もねぇんだぜ?」
嘲りを含んだ口調にも雲雀の笑みは崩れぬばかりか寧ろ深くなる。
「来日直後から医師として活動。直後から、だ」
「……」
「いつ取ったんだろうね、医師免許。診察室にその子のと並べて二枚飾ってあるのは確認したけど…さて、本物なのかな?」
ピクリ、シャマルの顔が僅かに引き攣るのを雲雀は見逃さない。せせら笑いに喉を鳴らすと今度はルイに視線を移す。
「君は随分と若いね…試験に合格となれば最近の事だろう。この国では女医の誕生なんてちょっとした事件だしこの近場で僕の耳に入らない筈が無い」
彼女の扁桃型の目が細まり、薄い唇が真一文字に結ばれる。逸らされる事無く雲雀を見据える酷く冷たい瞳に再度胸が妙な感覚に騒ついた。振り払うようにシャマルに向き直る。
「良くて禁固三年──君達は多分強制送還。たった一つの診療所を失った町民はどうなるんだろうね?イタリアでは未だ指名手配も解けていないようだし」
長い沈黙。
欲しい物は何としても手に入れる、雲雀の容赦無い攻めに草壁は瞼を閉じた。こんなやり方はあんまりだと思う。少なくとも此処にいる二人の医師は法を犯したとは言え貧しい町民の為に我が身を削り日々質の良い医療を提供し続けているのだから。そこらの立場に胡座をかいた拝金主義の医師連中より余程立派な心根ではないか。
が、この冷酷な貪欲さがあってこその我が主人なのだ。これだから並盛を統制する事が出来たのだし、その彼に心酔したのは他ならぬ自分自身。である以上草壁には黙って従う他無かった。
「…それでも娘はやれねぇ」
眉間に皺を寄せ固く目を瞑ったシャマル。絞り出した声は苦しげに掠れ。しかし対する雲雀の口調は一欠片の情も込められはしない。
「その子は君の娘では無いだろう。そんな記録は出て来なかった」
「…お前さんはまるで死神だ。救援なんぞ求めたのは人生最大の失敗だよ」
「それはこれからの君達次第だね。で?その子、本当は君の何?」
シャマルが見遣った先のルイは完全な無表情で、只々ぼんやり虚空を見つめるばかり。その細い身体を雲雀の視線から庇うようにしてそっと前に立つ。
「こいつは──…口減しの捨て子だ。イタリアでも貧困地区では珍しくもねえ。饑餓で死に掛けてる所を俺が気紛れで拾い弟子として…娘として育てた。血縁こそねぇが大事な娘そのものだ」
ぎゅ。俯いたルイの拳が握られる。
「頼む。そいつだけは如何あってもやれねぇんだ。もう救援なぞ結構だから見逃してくれ。頼む」
膝を折り床に額を付けた懇願に草壁は思わず「恭さん、」多分に非難を含んだ声を発してしまう。が雲雀は振り向きもせず冷淡な態度が崩れる事は無い。
「町民を見捨てるのかい?」
「無理で元々の頼みだったんだ。共倒れになったらなったで運命だと飲むさ…こいつの人生にゃ変えられねぇ」
スクッと立ち上がったシャマルはルイを安心させるようにニッと笑って小さな背をポンポンと軽く叩く。
「ほらほらルイちゃん、俺の可愛い子猫ちゃん。怖い人とは先生がしっかり話し付けといたげるからそんな死人みたいな顔しないの。さ、買出し行っておいで…」
露骨に変わる雰囲気、とんだ溺愛ぶりだ。もう少女と言える齢を抜け出したと見える娘にはいささか行き過ぎた態度には見えるが、血縁が無いだけに余計いじらしさが募るものなのかも知れない。
雲雀は先日“人身御供”と、そんな言葉を使って我が娘を家の発展の為差し出す親達を皮肉った。今目の前で血の繋がらぬ娘を守らんと土下座までして見せたシャマルは明らかに彼らの対極に居ると言って良いだろう。
無理だと理解しながらも草壁は考えてしまう。誰でも構わないならば何もこの娘で無くとも良いではないか。何故突如このような事を思い立ったのかは見当も付かぬが、これ程に親からの寵愛を受ける娘では無くもっと政略的に無機質に進められる相手は他に数多程も居る筈。
しかし雲雀は容赦無く追い討ちを掛ける。
「残念だけど見逃さないよ。その子寄越さないなら今すぐ政府へ通達させて貰う」
シャマルが何事か言おうと顔を上げた時。
血の気の引いた小さな顔が、すぅと薄い笑みを型取り雲雀の方へ向けられた。落ち着いた声音。
「引き振袖には……是非、四季のお花の綺麗な加賀友禅を」
「なっ…!?」
眉を吊り上げるシャマル。刮目する草壁。
「何言ってんだおめーは!」ガッと肩を掴むシャマルにゆるゆると首を振って穏やかに続ける。
「それと、黒曜に最低後二つの診療所を設備…此処を含め各所に三名ずつの医師と看護人が配属される様手配して頂きたいんです」
雲雀の口角に僅かな笑みが浮かんだ。
「他には?」
「衛生環境の整備に栄養のある食物の配給、後は町民に仕事をお与え下されば──…後、この状況ですので嫁入り道具などはとても…。身一つで嫁がせて頂く旨、如何か御了承下さい」
柔和を繕いつつも感情を移さぬ目に見据えられ雲雀は一つ頷く。
「全てその様にさせて貰うよ」
決まりだね。呆然とやり取りを見守るシャマルに軽い口調で切り上げの合図を送ると彼は怒りを隠そうともせずルイの肩を掴んだ手に力を込める。ワナワナと震える逞しい両の腕。
「お前…何考えてんだ!強制送還が何だ!ほんのガキだったおめーが大した罪に問われるわきゃねぇだろ!?この町だって無理で元々なんだよ!いいか!?俺とおめーが居なくなった所で何れ来る筈だった滅びの時期がちっと早まるに過ぎねぇんだ!」
先生、痛いよ。こめかみに青筋を立てるシャマルを宥めながらちらりと雲雀に目をやる。
「あの方は並盛の風紀を取り締まられるお立場じゃない…きっと、酷く扱われたりなんてしません」
「んな事…!」
怒声を遮り「それにね、」。伏せられる長い睫毛。
「先生が喜ぶと思ったから医療学んで来たけど…本当はしんどかったの」
「……あ?」
「我が身を感染の危機に晒すのも、汚物の処理も、内蔵掻っ捌くのも…貧乏も寝不足も、嫌で嫌で堪りませんでした。そんなじゃなくて私、もっと…」
切な気な瞳がシャマルを捉え漏れ出るは哀願にも似た声。
「お金持ちのお嬢様みたいに綺麗に着飾って歩いてみたい、愛しい男の人と抱き合ってみたい…その人に大事に大事に守られながら子を産んでマンマになって、ぬくぬく生きて行きたいの」
シャマルの顔が歪む。申し訳無さそうに再び目を伏せるルイ。
「…女だったら誰でも夢見る幸せでしょう?如何して私に限ってはそうでないと思うの?」
「女の幸せ?そいつは事情を知りながら涼しい顔でお前を取引のダシに使ってんだぞ?幸せになんて…なれっこねーだろが…」
血を吐くような悲痛な声にもルイはゆるりと微笑むばかり。
「それ程迄に望んで頂けてるとも言えます。だからこそ行き過ぎた条件も快諾して下さったじゃない…」
ちらり、再び雲雀を見遣ってからシャマルにはにかんで見せる。
「それに、少し怖いけれど…素敵なお方だと思うの。私、さっき病室で一目見て…」
俯いては胸に手を当て気恥しそうに。
親子の成す会話を聞きながら雲雀は内心舌を巻いていた。この女、大した忍耐力ではないか。先程自分を見据えた氷の如き瞳が甦る。あんな顔見せておいて何が女の幸せ、素敵なお方、どの口がそれを言う。大切な父親を安堵させる為とは言え、憎き相手に恰も心を奪われたかの様な大嘘良く吐けるものだ。
恐らくシャマルも隣の草壁も分かっている。彼らは眉を寄せ唇を結び、最早同じ表情で只々柔らかく微笑むルイを見守っていた。
草壁は情の深い男、このようなやり方には大いに不満を持っている事だろう。向けられる咎めの視線に気付かぬ筈も無い。しかし如何しても欲しいと思ってしまったのだ。すれ違った時の堪らぬ芳香、慈愛に満ちた優しい手付き、あの容貌。僅か一刻にも満たぬ時の間で、この女だ。本能がそう叫んだ。
それに──。
結んだ唇を震えさせルイを抱き締めるシャマルをぼんやり見つめながら、現実的な自分が頭の中でこう言う。
これが、女の人生なのだと。
権力と男に人生の全てを捧げ従い仕える。その中で与えられた役割を果たし生きて行く。別に雲雀自身がそうあるべきとの思想を持っているとか言う事では無く、単純にそのような社会構造になっているだけの話。
今親から深い愛情を受けているこの女も、人生の何処かでその現実と直面する時が必ず来る。女が伴侶となる男の助力無くまともな人生を、それも医師として生きて行こうだなどとそれこそ夢物語に過ぎないのだ。どれ程頭が切れようと腕が良かろうと女は女、その時点で振るい落とされる。
だったら自分と居ると良い。充分な甲斐性もある事だし何時何処で暴かれるとも知れぬ偽造免許の罪だって何人にも咎められはしない。彼女にとって雲雀恭弥の妻、その肩書きは非常に都合の良い物ではないか。
強引だとの自覚はあれど、罪悪感などまるで湧きはしない。この容姿ではどの道似たような事が起こるに決まっている。何処ぞの腑抜けた成金御曹司に拉致同然に貰われる羽目になるになるかも知れない。
なればこそ今この時期に。他の者ではちと手に負えぬ、町一つ抱えろと言う法外な要求の受諾を結納代わりに嫁に来ると良い。
不幸なものか。女の身一つで守りたいものが守れ何不自由無い生活を送って行ける。彼女の言う通りこれは立派に女の幸せだろう。
シャマルの腕がルイの体を離した頃合を見計らって告げる。
「一週後に迎えを寄越す。明日にも代わりの医師を派遣するから引き継ぎはその間に済ませると良い」
ひょこり覗いた白い白い顔はやはり息を飲む程に美しい。他者の存在に気付いた赤い瞳がじっと雲雀を凝視する。「ルイ、」師に呼び掛けられた彼女はハッと肩をびくつかせ、小さく一礼した。
「失礼、お客様いらしてたんですね」
すぐに踵を返そうとするのをシャマルの慌て声が呼び止める。
「待て待てルイ!此方があの並盛の秩序様だ。わざわざいらして下さったんだから挨拶を──ってかおめーからも平身低頭お願い申し上げなさい」
え?振り向いた彼女は明らかに驚いた様子。草壁はその理由が良く分かる。誰もこの線の細い物静かに見える男が並盛を恐怖で纏め上げた秩序その人だとは思わないだろう。尤も骸とて同じではあるけれど。
ルイと呼ばれた女は長い睫毛を数度瞬いてから遠慮がちに入室して来た。
「失礼致しました。あの…」
「この子」
ルイの言葉を遮り発される雲雀の声。シャマルに向き直るなりはっきりと。
「嫁に貰うよ。それが条件だ」
瞬間シャマルがガタッと音を立てて立ち上がり、主人の突飛な言動には慣れ切っている草壁ですら驚愕に声を漏らした。
「恭さん、何を…!」
「冗談やめてくれ」
諌めようとした草壁を押し退けシャマルが声を荒げる。当然の反応だ。一気に変わった雰囲気で真っ直ぐに雲雀を睨み付け低く言い放つ。
「こいつは俺の可愛い娘でウチの大事な医者だ。取引の材料にゃちょっと使えねぇな」
即座に事情を飲み込んだのだろうルイは不安気な表情でシャマルを見つめる。じり、僅かに後退る様が草壁には酷く不憫に思えたが「大丈夫ですよ、冗談です」などとは言ってやれない。雲雀恭弥は時折心臓に悪い冗談を吐きはするものの流石にこの状況でそれは無いだろう。どう見ても本気の本気、そして一度言い出した事はまず変えない。
自分より随分大柄なシャマルの明確な怒気に臆することも無くにやり、雲雀は先程と同じ様に口角を吊り上げる。
「イタリアの闇医者シャマル」
シャマルの眉があからさまに顰められる。
「天才の名を欲しいままにした裏社会お抱えの医師…莫大な財はその時に築いた物かな?しかしとんだ女癖の悪さで王妃に手を付け全国指名手配、国外への逃亡を余儀無くされ来日」
「……」
「どういう訳か荒廃した黒曜に腰を落ち着けるとすぐに浅利診療所を立ち上げ、西洋医学に通じた腕利き医師として信頼を集めながら今に至る…素晴らしい経歴だね」
書物を読むかの如くスラスラ並べられる己の半生をシャマルは黙って聞いていたがやがて溜息と共に皮肉交じりの言葉を吐いた。
「流石並盛の秩序様、恐るべき情報網で。…だがそれがどうした。入国した時点でイタリアでの指名手配なんぞ何の効力もねぇんだぜ?」
嘲りを含んだ口調にも雲雀の笑みは崩れぬばかりか寧ろ深くなる。
「来日直後から医師として活動。直後から、だ」
「……」
「いつ取ったんだろうね、医師免許。診察室にその子のと並べて二枚飾ってあるのは確認したけど…さて、本物なのかな?」
ピクリ、シャマルの顔が僅かに引き攣るのを雲雀は見逃さない。せせら笑いに喉を鳴らすと今度はルイに視線を移す。
「君は随分と若いね…試験に合格となれば最近の事だろう。この国では女医の誕生なんてちょっとした事件だしこの近場で僕の耳に入らない筈が無い」
彼女の扁桃型の目が細まり、薄い唇が真一文字に結ばれる。逸らされる事無く雲雀を見据える酷く冷たい瞳に再度胸が妙な感覚に騒ついた。振り払うようにシャマルに向き直る。
「良くて禁固三年──君達は多分強制送還。たった一つの診療所を失った町民はどうなるんだろうね?イタリアでは未だ指名手配も解けていないようだし」
長い沈黙。
欲しい物は何としても手に入れる、雲雀の容赦無い攻めに草壁は瞼を閉じた。こんなやり方はあんまりだと思う。少なくとも此処にいる二人の医師は法を犯したとは言え貧しい町民の為に我が身を削り日々質の良い医療を提供し続けているのだから。そこらの立場に胡座をかいた拝金主義の医師連中より余程立派な心根ではないか。
が、この冷酷な貪欲さがあってこその我が主人なのだ。これだから並盛を統制する事が出来たのだし、その彼に心酔したのは他ならぬ自分自身。である以上草壁には黙って従う他無かった。
「…それでも娘はやれねぇ」
眉間に皺を寄せ固く目を瞑ったシャマル。絞り出した声は苦しげに掠れ。しかし対する雲雀の口調は一欠片の情も込められはしない。
「その子は君の娘では無いだろう。そんな記録は出て来なかった」
「…お前さんはまるで死神だ。救援なんぞ求めたのは人生最大の失敗だよ」
「それはこれからの君達次第だね。で?その子、本当は君の何?」
シャマルが見遣った先のルイは完全な無表情で、只々ぼんやり虚空を見つめるばかり。その細い身体を雲雀の視線から庇うようにしてそっと前に立つ。
「こいつは──…口減しの捨て子だ。イタリアでも貧困地区では珍しくもねえ。饑餓で死に掛けてる所を俺が気紛れで拾い弟子として…娘として育てた。血縁こそねぇが大事な娘そのものだ」
ぎゅ。俯いたルイの拳が握られる。
「頼む。そいつだけは如何あってもやれねぇんだ。もう救援なぞ結構だから見逃してくれ。頼む」
膝を折り床に額を付けた懇願に草壁は思わず「恭さん、」多分に非難を含んだ声を発してしまう。が雲雀は振り向きもせず冷淡な態度が崩れる事は無い。
「町民を見捨てるのかい?」
「無理で元々の頼みだったんだ。共倒れになったらなったで運命だと飲むさ…こいつの人生にゃ変えられねぇ」
スクッと立ち上がったシャマルはルイを安心させるようにニッと笑って小さな背をポンポンと軽く叩く。
「ほらほらルイちゃん、俺の可愛い子猫ちゃん。怖い人とは先生がしっかり話し付けといたげるからそんな死人みたいな顔しないの。さ、買出し行っておいで…」
露骨に変わる雰囲気、とんだ溺愛ぶりだ。もう少女と言える齢を抜け出したと見える娘にはいささか行き過ぎた態度には見えるが、血縁が無いだけに余計いじらしさが募るものなのかも知れない。
雲雀は先日“人身御供”と、そんな言葉を使って我が娘を家の発展の為差し出す親達を皮肉った。今目の前で血の繋がらぬ娘を守らんと土下座までして見せたシャマルは明らかに彼らの対極に居ると言って良いだろう。
無理だと理解しながらも草壁は考えてしまう。誰でも構わないならば何もこの娘で無くとも良いではないか。何故突如このような事を思い立ったのかは見当も付かぬが、これ程に親からの寵愛を受ける娘では無くもっと政略的に無機質に進められる相手は他に数多程も居る筈。
しかし雲雀は容赦無く追い討ちを掛ける。
「残念だけど見逃さないよ。その子寄越さないなら今すぐ政府へ通達させて貰う」
シャマルが何事か言おうと顔を上げた時。
血の気の引いた小さな顔が、すぅと薄い笑みを型取り雲雀の方へ向けられた。落ち着いた声音。
「引き振袖には……是非、四季のお花の綺麗な加賀友禅を」
「なっ…!?」
眉を吊り上げるシャマル。刮目する草壁。
「何言ってんだおめーは!」ガッと肩を掴むシャマルにゆるゆると首を振って穏やかに続ける。
「それと、黒曜に最低後二つの診療所を設備…此処を含め各所に三名ずつの医師と看護人が配属される様手配して頂きたいんです」
雲雀の口角に僅かな笑みが浮かんだ。
「他には?」
「衛生環境の整備に栄養のある食物の配給、後は町民に仕事をお与え下されば──…後、この状況ですので嫁入り道具などはとても…。身一つで嫁がせて頂く旨、如何か御了承下さい」
柔和を繕いつつも感情を移さぬ目に見据えられ雲雀は一つ頷く。
「全てその様にさせて貰うよ」
決まりだね。呆然とやり取りを見守るシャマルに軽い口調で切り上げの合図を送ると彼は怒りを隠そうともせずルイの肩を掴んだ手に力を込める。ワナワナと震える逞しい両の腕。
「お前…何考えてんだ!強制送還が何だ!ほんのガキだったおめーが大した罪に問われるわきゃねぇだろ!?この町だって無理で元々なんだよ!いいか!?俺とおめーが居なくなった所で何れ来る筈だった滅びの時期がちっと早まるに過ぎねぇんだ!」
先生、痛いよ。こめかみに青筋を立てるシャマルを宥めながらちらりと雲雀に目をやる。
「あの方は並盛の風紀を取り締まられるお立場じゃない…きっと、酷く扱われたりなんてしません」
「んな事…!」
怒声を遮り「それにね、」。伏せられる長い睫毛。
「先生が喜ぶと思ったから医療学んで来たけど…本当はしんどかったの」
「……あ?」
「我が身を感染の危機に晒すのも、汚物の処理も、内蔵掻っ捌くのも…貧乏も寝不足も、嫌で嫌で堪りませんでした。そんなじゃなくて私、もっと…」
切な気な瞳がシャマルを捉え漏れ出るは哀願にも似た声。
「お金持ちのお嬢様みたいに綺麗に着飾って歩いてみたい、愛しい男の人と抱き合ってみたい…その人に大事に大事に守られながら子を産んでマンマになって、ぬくぬく生きて行きたいの」
シャマルの顔が歪む。申し訳無さそうに再び目を伏せるルイ。
「…女だったら誰でも夢見る幸せでしょう?如何して私に限ってはそうでないと思うの?」
「女の幸せ?そいつは事情を知りながら涼しい顔でお前を取引のダシに使ってんだぞ?幸せになんて…なれっこねーだろが…」
血を吐くような悲痛な声にもルイはゆるりと微笑むばかり。
「それ程迄に望んで頂けてるとも言えます。だからこそ行き過ぎた条件も快諾して下さったじゃない…」
ちらり、再び雲雀を見遣ってからシャマルにはにかんで見せる。
「それに、少し怖いけれど…素敵なお方だと思うの。私、さっき病室で一目見て…」
俯いては胸に手を当て気恥しそうに。
親子の成す会話を聞きながら雲雀は内心舌を巻いていた。この女、大した忍耐力ではないか。先程自分を見据えた氷の如き瞳が甦る。あんな顔見せておいて何が女の幸せ、素敵なお方、どの口がそれを言う。大切な父親を安堵させる為とは言え、憎き相手に恰も心を奪われたかの様な大嘘良く吐けるものだ。
恐らくシャマルも隣の草壁も分かっている。彼らは眉を寄せ唇を結び、最早同じ表情で只々柔らかく微笑むルイを見守っていた。
草壁は情の深い男、このようなやり方には大いに不満を持っている事だろう。向けられる咎めの視線に気付かぬ筈も無い。しかし如何しても欲しいと思ってしまったのだ。すれ違った時の堪らぬ芳香、慈愛に満ちた優しい手付き、あの容貌。僅か一刻にも満たぬ時の間で、この女だ。本能がそう叫んだ。
それに──。
結んだ唇を震えさせルイを抱き締めるシャマルをぼんやり見つめながら、現実的な自分が頭の中でこう言う。
これが、女の人生なのだと。
権力と男に人生の全てを捧げ従い仕える。その中で与えられた役割を果たし生きて行く。別に雲雀自身がそうあるべきとの思想を持っているとか言う事では無く、単純にそのような社会構造になっているだけの話。
今親から深い愛情を受けているこの女も、人生の何処かでその現実と直面する時が必ず来る。女が伴侶となる男の助力無くまともな人生を、それも医師として生きて行こうだなどとそれこそ夢物語に過ぎないのだ。どれ程頭が切れようと腕が良かろうと女は女、その時点で振るい落とされる。
だったら自分と居ると良い。充分な甲斐性もある事だし何時何処で暴かれるとも知れぬ偽造免許の罪だって何人にも咎められはしない。彼女にとって雲雀恭弥の妻、その肩書きは非常に都合の良い物ではないか。
強引だとの自覚はあれど、罪悪感などまるで湧きはしない。この容姿ではどの道似たような事が起こるに決まっている。何処ぞの腑抜けた成金御曹司に拉致同然に貰われる羽目になるになるかも知れない。
なればこそ今この時期に。他の者ではちと手に負えぬ、町一つ抱えろと言う法外な要求の受諾を結納代わりに嫁に来ると良い。
不幸なものか。女の身一つで守りたいものが守れ何不自由無い生活を送って行ける。彼女の言う通りこれは立派に女の幸せだろう。
シャマルの腕がルイの体を離した頃合を見計らって告げる。
「一週後に迎えを寄越す。明日にも代わりの医師を派遣するから引き継ぎはその間に済ませると良い」