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「さて、これがルイの本当の記憶です。それなりに醜悪なものでしょう」
話し終えぐっと伸びをした骸が首をポキポキ鳴らす。全く鈍ってしまったものだと悪態を付きながら。
「…ああ、そうだね」
雲雀はそう言うしか無かった。己を強姦しようとした父を殺したのが罪か。格差とは時に必要で時に凶器にもなり得るものだ。初めての夜あのような形でルイの体をこじ開けた自分が言えた義理では無いのかも知れないが。
「それで君はルイの記憶を消したのかい?君にしては慈悲深い」
「慈悲とは少し違いますね。黒曜に来たばかりのルイは笑わず喋らずの人形でしてね。どうにも変だと感じたんですよ。シャマルはルイをあの通り相当可愛がっていたのに。だから僕はこっそり彼女の夢…精神世界にお邪魔したんです」
その中で彼女を夜毎苛む悪夢と対面する事になったらしい。
「精神世界…?他人の夢の中に入ったと言うのかい?君はつくづく人間じゃないな」
「ルイが未だ幼い子供だったから出来た芸当ですよ。自我が確立され他者との境界を明確にされてしまえば簡単には行きません」
答えになっているのかそうでないのか謎の説明をした骸はこう言った。その時のルイを苦しめていたのはマリオへの憎悪よりも、愛する母への罪の意識だったのだと。もしルイがあの日声を上げなければ。暴虐に耐え口を噤んでいれば、母はあれを知ること無く非業の死を遂げる事にはならなかったのに。母を殺したのは結局は自分なのだと。
「だから僕はルイと精神だけで対話をしたんです。彼女にも僕達の記憶に触れさせ現世の醜さを共有し、共に町を作ろうと誘いました。僕達の楽園をね」
「…君達の記憶?」
「それは君には無関係です。卑怯な大人達に碌な扱いを受けて来なかったとだけ言っておきましょう。このような負の遺産を植え付けられる程度にはね」
骸の長い指先が邪悪な赤い目に触れる。あれは生来のものでは無かったようだ。骸の放つ禍々しい気はその過去故だったのか。とにかくそうして雲雀には理解し得ぬ感情を分かち合った彼らは徐々に近付き、いつしか家族同然の存在となって行ったのだと。
「それからはルイにも笑顔が増え、いずれは母の倒れた病を治せる医師になるのだと勉学に励み出しました。ですが数年が経ち丁度体が子供から大人へと変わって行く時分にルイは見てしまったんですよ。町外れの路地で行われていた男と女の情事を」
「…それが?」
「それまでのルイは未だ己のされた事を良く分かっていませんでした。しかし歳を重ねたあの日、生々しいその現場を目撃して…全てを理解したんです。そして一気に激しい憎悪の炎が燃え上がってしまった」
それからのルイは再び酷く魘されるようになったらしい。幼かった頃とは少し違う方向で。自身の肌を、性を憎み、男であるシャマルや骸達をも拒絶するようになり碌に食事も摂らなくなってしまった。そして日々痩せ行き蹲るだけのルイを誰もが見ていられなかった。
「蹂躙された激昂、母親への罪悪感。脆弱になった精神は一方で命を救う医師を志す自らの手が人間を殺めた事実すらもルイを責め苛んだ。だから僕はあれに関する記憶を消したんです。そうしなければ命さえ繋げなかった。…ルイは生来生真面目で愚かしい程に優しい気質を持つ女、様々な事を他者より過敏に捉えてしまったんでしょうね」
「……」
「そして突如別人のように明るくなったルイの記憶がすっかり欠乏しているのに気付いたシャマルは、苦痛に耐えきれなかった脳が防衛本能から全てを消し飛ばしたのだろうと判断し、赤ん坊の頃から自分が育てたのだと偽った。そういう経緯です」
先程のルイの話がすとんと雲雀の胸に落ちた。
記憶を無くしたルイは骸達と共有した感覚を、いつしか実親を知らぬ苦しみとすり替えたのだろう。だから骸達と出会った当時の気持ちはもう良く思い出せぬと言ったのだ。そして血縁でなくば満たされぬのかと雲雀に指摘され酷い葛藤を起こした。それはルイを何より大事に思うシャマルへの罪悪感だ。これ程の愛情を向けてもらい尚、何故自分はこんなふうに思ってしまうのかと。捏造された過去による弊害に他ならない。
「ご理解頂けましたか?」
「まぁね。けど何故君はそれをわざわざ僕に話したんだい?」
その必要は無かった筈だ。知らぬなら知らぬで、ルイとしてもその方が良かったろうに。別れさせたかったのだろうか。この男の意図は読めない。
「…先程の君とルイの雰囲気を見ていて思ったんですよ。本当に真っ当な夫婦となり得ていたんだとね。君の凶悪な目に睨みつけられてもルイは物怖じせず、それどころか自己主張までしていた。大事にされて来た証拠だ」
「……」
はぁ、と骸にしては珍しい溜息を漏らす。
「…疎ましい記憶だったとしてもあれはルイの一部です。それを僕が勝手に奪った。だから僕は贖罪としてあの娘を娶り、生涯僕の箱庭…偽りの世界の中で大切に飼おうと思っていたんです。だが僕の可愛い籠の鳥はいつの間にか勝手に飛び出し、自分の意志で主を選んだ」
赤と青の両眼が雲雀を見据える。初めて目にする六道骸の真面目な顔。
「だから君に委ねます。あの娘の記憶をこのまま封じ続けるのか元に戻すのか。…何より僕もいつどうなるか分からぬ身だ。もし催眠が切れた時ルイがどう豹変しようと変わらず傍に置いてやれますか?その覚悟が無いのなら、今すぐあの娘を僕の手元へ返して頂きたい」
考える時間も要らなかった。
「返すわけないだろ。消したままで良いよそんな記憶。向き合わなければならぬ事ならともかく、ルイはもう生涯僕の隣で生きて行くのに。不要なものを取り戻して無駄に苦しませる理由など無いさ。勿論記憶が戻ったら戻ったで僕はちゃんと前を向かせる自信はあるよ」
「言いましたね。その言葉決して忘れないで下さい。…では、ルイを頼みますよ」
そう言って腰を上げた骸に尋ねる。
「君は君がくたばった後の黒曜の未来は考えていたようだね。けど遺されたルイの記憶はどうなって居たのかな?それは考えなかったのかい?」
「勿論考えていましたよ。しかしその時はどうしようもなかったとか言えません」
「無責任だね」
「…本当ならば催眠などかける事無くあの娘が過去を昇華出来るよう導くのが正しいやり方だったんでしょう。だが…」
言い淀み天を仰ぐ骸。何となく、何となくだが雲雀には伝わって来た。骸はきっと、記憶に喰われてしまいそうなルイを見ているのが辛くて堪らなかったのだ。例えその場だけの安寧だったとしても彼女を解放してあげたかった。自分亡き後、彼女が絶望に突き落とされたとしても。
その気持ちは恐らく、人が愛と呼ぶもの。
しかしこの男は、それを知らぬ育ち故に自身の想いにすら気付けずに居るのだろう。勿論全ては雲雀の推測に他ならず、事実は彼しか知らない。雲雀は追求するつもりも無かった。そこは自分が踏み込んで良い所では無い。
「…君の籠の鳥は受け取った。大事にするよ。もう近付かないでね」
「ええ、他人のものに興味はありませんからね。では」
今度こそ帰ろうとした骸だったが、部屋を出ようとした所で再度呼び止められ嫌そうな顔で振り向く。
「何ですか。僕は疲れているんです」
「ちょっと変な事聞くけど…ルイは夜があまり良くないようだ。君の催眠と関係はあるのかな?」
こんな事他人に、それも骸には決して知られたくない話だったが、雲雀にとってはそれなりに重要事項ではあったのだ。妙な顔で見つめて来る骸との間に微妙な静寂が落ちる。
「…別に僕が下手くそな訳じゃ」
「誰もそんな事言ってませんしそんな情報要りません」
そしてまた沈黙。ややあって骸がふむ、と細顎に手をやった。
「催眠というのは加減の難しいものでね。あまりに強いものを長期に渡り掛け続けると廃人と化してしまう恐れがあるんですよ。ですから僕はルイには様子を見つつ中程度のそれに留めました。充分な効果はあったようですが…深層部分までは消し切れていないのかも知れませんね」
曰くマリオから受けた暴虐への嫌悪、そしてそれ故に母を失った罪の意識が男女のまぐわいにおける呪縛になっているのかも知れない。これは悪い事、快楽など得てはいけない、そんな心理がルイの体から官能を欠乏させている可能性があると。
そう推測した骸は雲雀に向き直り、彼らしい薄笑いを浮かべる。
「…僕から祝言の祝いを差し上げましょう」
「は?」
「一晩だけルイの催眠を強いものに変えてあげます。あの悪夢が深層の意識からも綺麗さっぱり消え去る程のをね」
それはつまり…
「今宵は一生分楽しむと良い。もしそれで何も変わらなければ君の下手くそが立証されて終わりですが」
「僕は下手くそじゃない」
「ですからそんな事興味ありません。…ただ、どれ程幸せでも明日の夜明けと共に今宵の記憶は消させて頂きますよ。ルイのも君のもね」
雲雀の眉が顰まる。何故かと聞くと、人間とは強欲な生き物だからですと返って来た。
「一度蜜の味を知れば必ずまた欲しくなります。今宵の記憶を宿したままでは君はまたルイにそれを求め、応じるに応じられぬルイは苦しむ事になる。繰り返しますが強い催眠は身体に毒だ。何度も掛けてやれるものではありません。互いに何も覚えていない方が君達の為なんですよ」
「……」
「納得したならば、僕の眼を見て下さい」
赤い瞳に刻まれた六の文字が妖しく光る。それを眺めているうちに雲雀の意識は吸い込まれそうにぼんやりして行き…もう良いですよ、と声が掛かればあっという間に催眠の完成だ。明日になれば今晩の事を忘れてしまえるように。
「さて、ルイは未だ眠っていますかね。今のうちに彼女にも施しておきましょう。それでは良い夜を。Arrivederci」
そうして骸は帰って行った。最後に見せたその表情がどこか清々しかったのは、雲雀の気のせいかも知れない。
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