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明治七年。幕府崩壊と共に混沌の渦に呑まれた国、日本。明治政府が誕生し時代は移り変わりを迎えていた。行政、金融、産業、国家の全てが改革され奉行所の代わりに国家警察が各地を治める中漸く国民は安定した日々を送れるようになって来てはいる。しかし未だ変遷の渦中、治安の乱れから抜け出せぬ地域も多く存在していた。
そんな日本で最も人々が安心して過ごせる町の一つが此処、並盛──
「失礼します、恭さん 」
屈強な身体つきの強面の男が広い屋敷の一室の襖を開け、中に胡座で座する男に一礼をした。見事に前方に突き出た黒髪が重力に揺れる。
「例のひったくり犯の処罰は…」
恭さんと呼ばれた男は文机に山と積まれた書類の山からちらり、視線だけを振り返らせた。鋭い双眸、灰青がかった黒い瞳。鼻も唇も輪郭も、男にしてはやけに綺麗な作りの男は実に興味無さげな様子ですぐに目線を戻す。
「任せるよ。今忙しいからね」
「へい」
並盛風紀組、それが彼らの所属している若衆組だ。時代の変遷に従い治外法権地帯と化していた並盛を平和な町へと統制した自警団で、そのトップに立つのが現在文机に向かっている線の細い男──雲雀恭弥。当時齢十二いう若さでありながら圧倒的な強さと統制力でこの組織を立ち上げ、荒廃した町を纏め上げた恐るべき風来坊。この並盛では彼が法律であり逆らった者には容赦の無い鉄槌が下される。その玲瓏な容貌に反して彼は並盛の恐怖の象徴でもあった。
「それと恭さん、お忙しい所すみませんが…」
此方にも一応目を通しておいて下さい。遠慮がちな口調で屈強な男──雲雀の腹心の部下である草壁哲矢が脇に抱えていた大きな黒革の冊子らしき物をそっと畳に置く。それを視界の端に捉えた雲雀は露骨に流麗な眉を顰め、零される小さな溜息。
「…またかい。大概気狂いだよね、娘を人身御供に差し出すなんてさ」
「……」
見合いの申し出。今年の五月で齢二十二を数える雲雀の下には数年前からそれが引っ切り無しに訪れていた。各地を飛び回り更には海外にまで足を伸ばした繋がりを持つ雲雀の名は“孤高の浮雲”の通り名と共に並盛のみならず全国に轟いている。何処ぞの華族や豪商やらが婚姻によって家を結び付けようとするのは無理からぬ事ではあったが。
並盛組は危険な所。力によって町を支配する故に当然の如く恨み辛みは浴びてしまう。不届き者による闇討ちだの屋敷の襲撃だのも決して珍しくは無く、妻など標的の最たるものである事は誰の目にも明らかだ。そもそもその二つ名の通り雲雀は独りを好む気質、思いやりに溢れた優しい男では決して無い。彼の無慈悲で冷酷無比な様は並盛の秩序として非常に有名であり彼本人としてもその自覚をはっきり持っている。
そんな男に嫁に出したいだなんて。そこまでして財を築きたいものかと半ば嘲るように人身御供などと皮肉る雲雀に草壁は暫し無言だったが、ややあって重苦しい口を開いた。
「…ですが、恭さん」
咎めを含んだ口調に「分かってるよ」ぞんざいな返事。
「所帯を持ち初めて持ち得る信用もある、だろ。いい加減耳タコだ」
男は妻を娶り子を成してこそ一人前、その風潮は仕事にも大いに影響して来る。齢も二十を過ぎたとなれば尚の事。雲雀が十八を数えた頃から草壁が口を酸っぱくして繰り返していた事実を此処最近の彼は生温い現実味と共に実感して来ている。特に社交相手が大物になればなる程に。だからこそ今迄は突っ撥ねて来た見合いなどという面倒この上無い問題にもそろそろ向き合わねばならぬと態度を軟化させ始めているのだ。
元より自分が自分の為に一代で築いた地位、世継ぎなど更々必要としていないが世間体としての妻子はやはり持たねば難しい状況に雲雀はうんざり息を吐くと、立ち尽くしたままの草壁を見上げ僅かに口角を上げた。
「そうだ、哲。君が決めなよ」
僕の嫁、君が決めれば良い。平常通りの喋り口でとんでもない事を言い出す。
「な、何を仰いますか!とんでもない!」
目を向き両手をぶんぶん振る草壁に雲雀はしれっと返してみせた。
「散々喧しく責っ付いたのは君だろ」
「そ、そんな…!」
この男は性質の悪い事に度々こうして悪い笑みで草壁を揶揄う癖があった。今回のこれは口喧しい──と雲雀は感じているらしい──草壁へのちょっとした意趣返しが多分に含まれている。が、関心の欠片も無い様にあながち冗談では無いのだと伺い知れ草壁は思わず閉口してしまった。
面倒だから此方に丸投げ、所帯持ちという形式が出来ればその中身など知ったこっちゃ無い──そんな内心が見え見えの態度に心境は複雑だ。こんなでは妻となる女が、何れ産まれて来るだろう子が余りに不憫では無いか。政略結婚ならば条件が優先されるのは当然ではあるが興味の無い相手にはとことん無関心なこの男、せめてちらりとでも気持ちのある相手と所帯を持って欲しい。
「…やはりあなたがご自身で選ぶべきかと。お相手の人生も有りますし…生涯の伴侶ですから」
「役割を果たせる女なら何でも良いよ。生活に苦労はさせないし息が詰まると言うなら話し相手の女を雇えば良いさ」
駄目だこりゃ。にべも無い返答に落胆の息を吐き突如振られた嫁探しという責任重大な任務から逃げられそうも無い事実を飲み込んだ。仕様が無い、このままでは我が主人は生涯独身を貫きかねないのだから。
「分かりました。ではお好みを伺わせて下さい」
「連れてて恥ずかしくない程度の女」
嘘吐け。花街に出た時の彼がどんな女を好んでいるのか知っている草壁としては腹の中で毒突くしか無い。素晴らしい美貌に知性品性、教養に溢れた床上手ばかりではないか。政府高官ですら中々相手に出来ぬ程の上玉達と懇意にしている癖に恥ずかしくない程度だと?否、そもそもの基準が自分達平凡な男とは違っているのかも知れない…これは難航しそうだ。
「…努力します。では俺は仕事に戻りますので…一応目を通していて下さいね」
畳に置かれたまま手付かずの冊子を見遣り、どうせ一瞥もくれず数多の見合い写真帖で埋まる戸棚にしまわれるのだろうと期待はせずに付け加えて踵を返す。
「あ、恭さん。夕刻に掃除をしに戻りますから部屋は開けておいて下さいよ…今日を逃すと埃塗れになっちまいますからね」
この屋敷では身の危険を考慮して女中は雇っていない。故に通常は女の仕事である家事も組員である男でこなしている。特に雲雀の身の回りの世話は草壁しか許されておらず、しかし彼もまた事実上の二番手である事から忙しくしておりそこまで手が回らぬ場合も屡々でこうしてわざわざ互いに時間を作り合う羽目になってしまう。それが無くなるのもまた妻を娶る利点でもあるのだ。
今度こそ部屋を出ようとして襖に手を掛けた草壁の背中を雲雀の低く落ち着いた声が追い掛けて来る。
「言い忘れてたよ、哲。無口な女が条件だ」
「はい?」
「ガミガミ喧しい嫁が二人も居ちゃ堪らないからね」
「……。御心配無く。奥様が来られた時点で俺は離縁させていただき単なる組員となりますから」
ぼそりと返された言葉に雲雀は珍しく喉を鳴らして笑った。
そんな日本で最も人々が安心して過ごせる町の一つが此処、並盛──
「失礼します、恭さん 」
屈強な身体つきの強面の男が広い屋敷の一室の襖を開け、中に胡座で座する男に一礼をした。見事に前方に突き出た黒髪が重力に揺れる。
「例のひったくり犯の処罰は…」
恭さんと呼ばれた男は文机に山と積まれた書類の山からちらり、視線だけを振り返らせた。鋭い双眸、灰青がかった黒い瞳。鼻も唇も輪郭も、男にしてはやけに綺麗な作りの男は実に興味無さげな様子ですぐに目線を戻す。
「任せるよ。今忙しいからね」
「へい」
並盛風紀組、それが彼らの所属している若衆組だ。時代の変遷に従い治外法権地帯と化していた並盛を平和な町へと統制した自警団で、そのトップに立つのが現在文机に向かっている線の細い男──雲雀恭弥。当時齢十二いう若さでありながら圧倒的な強さと統制力でこの組織を立ち上げ、荒廃した町を纏め上げた恐るべき風来坊。この並盛では彼が法律であり逆らった者には容赦の無い鉄槌が下される。その玲瓏な容貌に反して彼は並盛の恐怖の象徴でもあった。
「それと恭さん、お忙しい所すみませんが…」
此方にも一応目を通しておいて下さい。遠慮がちな口調で屈強な男──雲雀の腹心の部下である草壁哲矢が脇に抱えていた大きな黒革の冊子らしき物をそっと畳に置く。それを視界の端に捉えた雲雀は露骨に流麗な眉を顰め、零される小さな溜息。
「…またかい。大概気狂いだよね、娘を人身御供に差し出すなんてさ」
「……」
見合いの申し出。今年の五月で齢二十二を数える雲雀の下には数年前からそれが引っ切り無しに訪れていた。各地を飛び回り更には海外にまで足を伸ばした繋がりを持つ雲雀の名は“孤高の浮雲”の通り名と共に並盛のみならず全国に轟いている。何処ぞの華族や豪商やらが婚姻によって家を結び付けようとするのは無理からぬ事ではあったが。
並盛組は危険な所。力によって町を支配する故に当然の如く恨み辛みは浴びてしまう。不届き者による闇討ちだの屋敷の襲撃だのも決して珍しくは無く、妻など標的の最たるものである事は誰の目にも明らかだ。そもそもその二つ名の通り雲雀は独りを好む気質、思いやりに溢れた優しい男では決して無い。彼の無慈悲で冷酷無比な様は並盛の秩序として非常に有名であり彼本人としてもその自覚をはっきり持っている。
そんな男に嫁に出したいだなんて。そこまでして財を築きたいものかと半ば嘲るように人身御供などと皮肉る雲雀に草壁は暫し無言だったが、ややあって重苦しい口を開いた。
「…ですが、恭さん」
咎めを含んだ口調に「分かってるよ」ぞんざいな返事。
「所帯を持ち初めて持ち得る信用もある、だろ。いい加減耳タコだ」
男は妻を娶り子を成してこそ一人前、その風潮は仕事にも大いに影響して来る。齢も二十を過ぎたとなれば尚の事。雲雀が十八を数えた頃から草壁が口を酸っぱくして繰り返していた事実を此処最近の彼は生温い現実味と共に実感して来ている。特に社交相手が大物になればなる程に。だからこそ今迄は突っ撥ねて来た見合いなどという面倒この上無い問題にもそろそろ向き合わねばならぬと態度を軟化させ始めているのだ。
元より自分が自分の為に一代で築いた地位、世継ぎなど更々必要としていないが世間体としての妻子はやはり持たねば難しい状況に雲雀はうんざり息を吐くと、立ち尽くしたままの草壁を見上げ僅かに口角を上げた。
「そうだ、哲。君が決めなよ」
僕の嫁、君が決めれば良い。平常通りの喋り口でとんでもない事を言い出す。
「な、何を仰いますか!とんでもない!」
目を向き両手をぶんぶん振る草壁に雲雀はしれっと返してみせた。
「散々喧しく責っ付いたのは君だろ」
「そ、そんな…!」
この男は性質の悪い事に度々こうして悪い笑みで草壁を揶揄う癖があった。今回のこれは口喧しい──と雲雀は感じているらしい──草壁へのちょっとした意趣返しが多分に含まれている。が、関心の欠片も無い様にあながち冗談では無いのだと伺い知れ草壁は思わず閉口してしまった。
面倒だから此方に丸投げ、所帯持ちという形式が出来ればその中身など知ったこっちゃ無い──そんな内心が見え見えの態度に心境は複雑だ。こんなでは妻となる女が、何れ産まれて来るだろう子が余りに不憫では無いか。政略結婚ならば条件が優先されるのは当然ではあるが興味の無い相手にはとことん無関心なこの男、せめてちらりとでも気持ちのある相手と所帯を持って欲しい。
「…やはりあなたがご自身で選ぶべきかと。お相手の人生も有りますし…生涯の伴侶ですから」
「役割を果たせる女なら何でも良いよ。生活に苦労はさせないし息が詰まると言うなら話し相手の女を雇えば良いさ」
駄目だこりゃ。にべも無い返答に落胆の息を吐き突如振られた嫁探しという責任重大な任務から逃げられそうも無い事実を飲み込んだ。仕様が無い、このままでは我が主人は生涯独身を貫きかねないのだから。
「分かりました。ではお好みを伺わせて下さい」
「連れてて恥ずかしくない程度の女」
嘘吐け。花街に出た時の彼がどんな女を好んでいるのか知っている草壁としては腹の中で毒突くしか無い。素晴らしい美貌に知性品性、教養に溢れた床上手ばかりではないか。政府高官ですら中々相手に出来ぬ程の上玉達と懇意にしている癖に恥ずかしくない程度だと?否、そもそもの基準が自分達平凡な男とは違っているのかも知れない…これは難航しそうだ。
「…努力します。では俺は仕事に戻りますので…一応目を通していて下さいね」
畳に置かれたまま手付かずの冊子を見遣り、どうせ一瞥もくれず数多の見合い写真帖で埋まる戸棚にしまわれるのだろうと期待はせずに付け加えて踵を返す。
「あ、恭さん。夕刻に掃除をしに戻りますから部屋は開けておいて下さいよ…今日を逃すと埃塗れになっちまいますからね」
この屋敷では身の危険を考慮して女中は雇っていない。故に通常は女の仕事である家事も組員である男でこなしている。特に雲雀の身の回りの世話は草壁しか許されておらず、しかし彼もまた事実上の二番手である事から忙しくしておりそこまで手が回らぬ場合も屡々でこうしてわざわざ互いに時間を作り合う羽目になってしまう。それが無くなるのもまた妻を娶る利点でもあるのだ。
今度こそ部屋を出ようとして襖に手を掛けた草壁の背中を雲雀の低く落ち着いた声が追い掛けて来る。
「言い忘れてたよ、哲。無口な女が条件だ」
「はい?」
「ガミガミ喧しい嫁が二人も居ちゃ堪らないからね」
「……。御心配無く。奥様が来られた時点で俺は離縁させていただき単なる組員となりますから」
ぼそりと返された言葉に雲雀は珍しく喉を鳴らして笑った。
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