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「ルイは、イタリアのフィレンツェという街に生を受けたんですよ」
早くに稼ぎ頭の父親を亡くしたが、遺された母子が路頭に迷う事は無かった。母親は平民ではあったがその美貌を乞われ、街きっての有権者との再婚を果たしたから。
「有権者——マリオという男もまた死別からの再婚で、母に惚れ抜いていた彼はルイにも優しく、当時六つだったルイは上流階級のお嬢様として大層優雅な生活を送らせて貰えたそうです。ただマリオにはルイより十程年上の息子が居て、彼は相当厳しく躾られていたようですが」
どれ程甘やかされど、実の息子には罵声を浴びせ折檻を繰り返す義理の父がルイはどうにも好きになれなかったらしい。しかしその都度「富豪の跡取りとはそういうものよ。人より勉強して立派にならなきゃいけないの。女の子が口を出してはいけないわ」そう窘めて来た母を前に口を噤まざるを得なかった。
そんなだったからいつまで経っても義兄がルイら母子と馴染む筈も無く、彼はいつでも一人自室に篭もり勉学に励み、ルイの目には陰気で惨めったらしく映ったと言う。
「マリオはそれ以外は良き父親でした。母とルイを各地に連れ出し沢山の経験をさせ、ルイの日光に弱い特殊な肌を慮り様々な民間療法も試してくれたと。ですが再婚から一年が経ち、あの事件が起こったんです」
うだるような蒸し暑い夏の午後だった。母親が裕福層の婦人らとのお茶会に出掛けた直後、楽器遊びに興じていたルイは不意にマリオの寝室へ呼ばれた。喉が渇いたから茶を持って来てくれと。
その後起こる事も知らず、幼いルイは従順に茶をグラスに注ぎ部屋まで運んだ。白い薄手のネグリジェを着ていた。
義理の父親の豹変は一瞬だった。
寝室へ一歩踏み込んだルイを突然ベッドに押し倒したのだ。驚き目を見張るルイの首筋に生々しく感じた荒い息。
ああ、綺麗な肌だ、はぁ、
幼子の全身を本能的な嫌悪感が走り抜ける前にネグリジェが酷い音を立てて引き裂かれた。裸に剥かれたルイはこれが何なのか、自分が何をされようとしているのかすら知らぬ。肌を滑る生温い手が、男の匂いと重さがただただ恐ろしく、あらん限りの声で叫んだ。
やだやだ!やめて!助けてマンマ!!
されど母親はつい先程茶会に出て行ったばかり。今家に居るのはこの男と自分と、きっと今日も部屋に篭っているのだろう義兄だけ。助けは来ない。それでもルイは尚も声を上げる。
お兄ちゃん助けて!助けてよ!お兄ちゃん!!マンマ!!やだぁ!!
叫んだって誰も来ないよ、ああ何て美しい肌なんだ…続く悲鳴に卑しく笑ったマリオの手がルイの誰にも見せてはならぬと教育されて来た場所をまさぐり始め、ルイがあまりの恐怖に嘔吐いた時だった。
ゴンッ!鈍い音と共にマリオの頭が傾いだ。顔を上げるとそこには夜叉の顔付きの母親の姿。ゼイゼイ酷い息を上げて両手には大きな厚手の陶器の花瓶。ぽたり、花瓶の底から一滴の赤い雫が垂れ落ちる。すぐに理解した。母親がこの鈍器でマリオを。
「母親は家を出てすぐに忘れ物に気付き引き返して来たそうです。そしてその現場を目撃し全てを悟った。マリオが自分と再婚したのはルイのあの肌が目的だったのだと」
母親は花瓶を放り出し意味も分からずわんわん泣くルイを抱き締めた。ごめんねごめんね、こんな事になるなんて…、そう繰り返しルイの背を摩り続ける母の背後で視界を揺らぐ影。あっと思った時には遅い。死んだかと思われたマリオが起き上がり、憤怒を顕にした形相で母の髪を掴むなり引き摺り倒して激しい殴打を始めたのだ。声も出せずされるがままの母。
マ ン マ が こ ろ さ れ る
「頭が真っ白になったルイは、傍らに転がっていた花瓶を持ち上げ、そして」
一度、二度、三度。何度も何度も殴り付けた。渾身の力で、今度こそ本当にマリオが動かなくなるまで。そして血塗れの母と互いを庇い合うように、悪魔の凄む屋敷から脱走したのだった。
その後身一つで出て来た母子は警察には行かなかった。巷では人格者で通っていた有権者と平民出身の後妻の間で起こった凄惨な事件だ。母親が幼い娘に偽の証言をさせた遺産目的の殺人とされるのは明白だったから。
「母は様々な意味で厄介な肌を持つルイの今後を酷く案じ、今自分が投獄される訳には行かぬとフィレンツェからは遠く離れたナポリのスラムへ移り住みました。流石にここまでは追っ手も来ないだろうと」
しかしその生活も長くは続かなかった。衛生環境の悪いスラムで母親は重い伝染病を患ってしまったのだ。日々病魔に蝕まれ弱り行く母を助けようとルイはあちこち走り回り、ようやく捕まえたのが、指名手配により正に出国寸前だったシャマルだった。
おじさん、マンマを助けて!
必死に白衣の袖を引き縋ってくる痩せきずの娘に引き摺られ母子の住まうボロ家に着いた時は既に母は手遅れの状態。彼女は虫の息でシャマルに全てを告げ「お医者の先生、国を出るのならばどうかこの子を…」そう言い遺して旅立って行った。
シャマルは闇に凄む医者、このような光景は見慣れておりいちいち感情移入などはせぬ。とはいえ今後のつまらぬ旅路を思うと小さな子猫の一匹お供にするのも悪くない、これも何かの縁だとほんの気まぐれを起こしたらしい。
そうして当時八つになっていたルイはシャマルに連れられ日本への密入船に乗り込む事となったのだった。