embrace
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「はぁ〜、こりゃたまげた。噂通りの別嬪さんだ」
「あらあら本当に。さぁ、遠路遥々お疲れでしょう。奥様ももう腰を下ろされて」
旅籠料亭、浮桜。
奈良時代より湯治場として人々に親しまれて来た箱根の温泉街、その中央に堂々佇む老舗の現当主とその妻を前に、ルイはおずおずと隣の雲雀の顔を伺う。通された広い座敷、既に着座済みの彼が一つ頷いたのを確認してから、失礼しますと膝を折った。
「祝言にも顔を出せず申し訳ない。来てくれて嬉しいよ」
「構わないさ。商売人が店を空けては本末転倒だ」
「そう言って頂けると有難い。しかし君がついに身を固めると聞いた時はそりゃあ飛び上がって驚いたもんさ。そうか、あれからもう一年か…」
ッコン!春の木漏れ日が鮮やかに彩る日本庭園の鹿威しの音が雲雀の屋敷のそれとは少し違って響く。どうにも落ち着かぬルイは所在なく俯くばかり。だが。
今後は妻として君を社交の場に連れて行く事も考えてるから——
昨年の夏の言葉、今日がようやくその初まりなのだ。いきなり本格的な仕事に帯同するのは辛かろうと、親睦の深いらしいこの旅籠を手始めにしてくれた雲雀の為にもしゃんとしなければならない。
「それで、奥方…ルイさんと言ったね。そんなに気を張らずに。君の旦那様はうちの恩人なんだから、さぁ、どうぞもう足を崩して寛いでおくれ」
「は…」
恩人。それが何なのかは知らないがそう言われても身の振り方に困ってしまう。再度雲雀を見遣るも彼は優雅な所作で茶を啜り呑気に「ワオ、茶柱」などと呟いている。自分で考えろとの合図か。困惑するルイに当主の妻がにこにこ微笑んで教えてくれる。
「開国して以降ここいらでは外来人の湯治も増え騒動がしょっちゅうでしたのよ。あれは明治になってからすぐだったから、もう八年も前かしら。うちに宿泊していた外国のお客様とかつては攘夷を掲げていたお客様の団体同士が酷くぶつかってしまわれて」
飛び交う殺傷の為の武器に怒号、逃げ惑う他の客、店と従業員と客を守ろうと必死の夫妻。血の海の迫った浮桜を救ったのがその時たまたま店の前を通り掛かった雲雀だったと言うのだ。
「我が目を疑いましたわ。ひょろっとした少年が突然乱入して来たと思えば、銃も刀も何のその、二十人は居た大男を次々に薙ぎ倒して行ったんですもの。それでね、皆様すっかりおねんねされたら、迷惑料だと身ぐるみ引っ剥がして御自身の懐に…」
「ああ…」
それで恩人。あまりにもその様子が想像出来てしまったルイは言葉も無い。夫人は突飛な思い出の中にすっかり入り込んで居るらしく、綺麗にはたかれたおしろいの下に刻まれた眦の皺を大層おかしそうに深める。
「これも御縁とその日はうちでもてなさせて頂きましたの。そうしたら、当時うちで下働きしていた娘がどうしても自分がお世話をと言い出して聞かずに。あの子ったら追い払われても追い払われてもめげずにお部屋を訪ねて、結局戻って来たのは明け方でしたのよ。それがもう、ぽやや〜んとした顔をして…ほんに若いって素晴らし……あっ」
当時を懐かしむあまり気が緩んでしまったか、老舗料亭の女将にあらざる失言に噤まれた口。しかしもう遅い。
先程までとは違う思いで雲雀を見ると、一瞬だけルイを振り向いた彼はついと目を逸らしてしまう。やむなく一旦はルイも視線を戻したが、やはり胸に燻るものは止められず、もう一度。己の瞳が冷淡な色を帯びていると知りながら自制する気は無い。圧力に耐え切れなくなったか渋々ルイに向き直った雲雀も負けじと仏頂面だった。
昔話だろ?怒るなよ。
怒ってはいません。不愉快なだけ。
若夫婦の無言の不穏、妻の非礼を詫びた当主が話題をすり替えるまでに時間は掛からなかった。
「いやいやしかし流石に君の奥方、気丈でおられる。女性ながらにお医者様だったんだってね。今は家に入っているのかい?」
「今はね。医者と言っても無免だったし」
ぎょっとするルイ。幾ら懇意にしている相手であっても外部にそのような話をして良いのだろうか。しかし雲雀は何でも無い事のように続ける。
「今年正規の免許を取り復帰させるつもりで居たんだが、先月末の試験直前から体調を崩して受けられなくてね」
「おやおやそりゃあ災難だ…では試験は」
「残念ながら一年保留だ。えらくタチの悪い風邪だったようでね、やっと回復して来たから療養も兼ねて来させて貰ったんだよ」
そう。年に一度きり春先に行われる試験、合格は確実と踏んでいただけにルイは大変口惜しい思いを噛み締めつつ床に伏せっていたのだ。夏に交わした約束通り、雲雀は屋敷の離れを診療所に使えるよう既に改装してくれていたのに。
「そうだったのかい…ここの湯は体のあらゆる部分に効能が良い。充分に休んで行っておくれ。しかし医者として勤めながら世継ぎを産み育てるとは中々難儀な話だ。私が言う事では無いが自愛を忘れてはいけないよ」
ルイに向けられる当主の眼差しは人情味に満ちておりその人柄を伺わせる。ぺこりと頭を下げながらもルイは別の所を捉えていた。世継ぎ、か。そういえば雲雀とは話した事が無かった。当主からその言葉が至極当然のように出て来た通り、夫婦の契りを交わせばいずれは子を、出来れば男児を成して世継ぎとする。世間ではそれが普通の認識なのだ。
嫁いで来てから一年、そういえば未だ授からぬと考えなかったわけではない。その理由は先日の情交の後理解したのだが、今後はどうだろう。もう暫くは二人きりかも知れないし、もしかすると数ヵ月後には腹に命を宿しているのかも。そうなると医者への復帰は…?雲雀はどう考えているのだろう。そもそも自分はどうしたいのだろう。
変わらぬ顔で茶を啜る雲雀を横目に、今晩少し話してみようか、そんな事を思った。
浮桜自慢の温泉で疲労を癒した後は料亭の心尽くしの御馳走を頂きながら、芸妓の披露する艶やかな舞踏、風雅に爪弾かれる三味線に魅了され、初めてだらけの楽しい夜は更けて行く。敷かれた良質の布団に体を横たえればほろ酔い気分に夢心地、すぐに眠気の到来だ。
枕元の灯を落とした雲雀も上掛けに潜り込んで大欠伸。ルイの療養が主な目的と言えど、彼も疲れているのだろう。
とろとろ重い瞼を瞬きがてら尋ねてみる。
「恭弥さん」
「ん?」
「もし子が産まれたら、診療所はどうなるんです?」
「任せるよ。一旦代理の医者を立てるなり日中は乳母を雇って勤め続けるなり自由にすると良い。君の診療所だからね」
一言申してくれれば都合の良いよう手配はするが取り仕切るのはあくまでルイ、内部への干渉をする気は無いと言う。
「…では、もしずっと出来なければ?」
ふと漏れた問。孤高を好む雲雀が意に反し身を固めた理由、それはルイの耳にも薄々届いていたから。彼には妻子持ちの体裁が必要だったのだ。もしそれが成就しなければ?可能性が無くは無いのだ。しかし振り向いた雲雀の返事は極めてあっさりとしたもの。
「別に良いんじゃないの。授かり物さ。出来なきゃ折を見て養子取れば良い」
呆気に取られ瞬くルイに竦められる首。
「別に珍しい事じゃない。ここだって由緒ある家柄だが息子は養子だし隠してもいないよ」
「え?そうでしたか…」
「まぁどうしても実子をと言うなら、君の足腰立たなくなるまで頑張ってあげても良いけどね」
反応を楽しむような碌でもない軽口にポッと頬が赤らむ。全くこの人は。ルイの思案などついぞ下らぬと言わんばかりにいつでも軽く払拭してくれるのだ。余裕たっぷりとは正にこの事。何にせよ彼は血縁には拘ってはいないらしい。しかしそれでは。
「世襲は養子でも構わないと?それで皆様納得されるでしょうか?」
「僕は実子でも養子でも、家は継いでも組を継がせようとは考えてないよ」
「え?」
「並盛組は僕が僕の為だけに築いたものだし、子だって自分の思う道を行けば良いのさ。並盛の秩序が保たれるならば誰が別の形を取ったって構わないんだ」
薄ら笑みを象っていた雲雀の顔がここでふと真剣みを帯びる。
「ただ六道と同じ轍は踏めない。僕にいつ何があるとも知れないし、並盛を任せられる後釜は早目に見つけとく必要はあるけどね。…君には不満かな?」
「いいえ」
自由を好むこの男らしい考え方だ。ルイもそれで良いと思う。ただ——
六道と同じ轍は踏めない。
それだけは違うと言いたかった。六道骸は決して何も考えていなかった訳ではない。そんなに抜けた男では無い。ルイを含め極僅かな人間しか知らぬ黒曜の荒廃の真相。しかしルイの口がそれを紡ぐ事は無かった。ささやかな秘密を抱え柔らかな毛布に包まる。
「…恭弥さん。もう一つ良いですか?」
「何?」
「私が無免医師だった事、お話されて良かったんですか?」
「…ん?ああ…」
何故か歯切れ悪くなる雲雀。にわかに目を逸らしてどことなく心地悪そうに。
「…黒曜は六道骸の統治する地で、云わば治外法権。あそこで何が起ころうと政府の令なぞ通用しない。並盛と同様にね。…だから黒曜で君が何をしてようが実は咎められる謂れは無かった」
「……はい?」
意味が分からなかった。だってルイは偽造免許の罪を盾に無理矢理娶られたのだから。あれは罪では無かった、とは…?いよいよバツが悪そうな雲雀はぼそぼそ低い声音で続ける。
「けど六道は実質寝たきりの無力だろ。…そういう事だ」
「……つまりあなたは、骸の状況を良い事に…」
半ば騙す形で脅してルイを嫁にした。言葉を失ったルイを振り向いた雲雀の灰の瞳が真っ直ぐに、しかし微かな揺らぎを宿し見据えて来る。その目が如実に「怒ったかい?」と問い掛けて来る。だがルイはすぐに首を振った。横の方に。あの事故以来骸が動けないのは事実なのだ。卑怯と言えば卑怯なやり方ではあるが仕方が無かったとも思う。…しかしそれよりも。
骸は今どうして居るのだろう。骸と険悪な雲雀の前では決して口にはせずとも、彼の事が気に掛からぬ日は無かった。時折届くシャマルからの便りでは変わらず昏睡状態にあると言うが、どうか後遺症も無く一日も早い目覚めを祈るばかりだ。数年も寝たきりでそのような奇跡は早々起こらぬと分かってはいても。
思案に沈んだルイだったがすぐに隣の雲雀を慮り話をすり替えた。
「それよりあなたは、どうして会ったばかりの私なんかをそんなに?」
ずっと不思議だった。彼ならば様々な良縁もあっただろうに何故自分だったのか。雲雀は少し考えるように天井を仰ぎ見てぽつり答える。
「さぁ。六道の看病してた君を見てどうしてもこの女だと思ったんだ。答えになってないかな」
「いいえ。恭弥さん」
「ん?」
ありがとうございます、選んでくれて。
そう言って懐に頬擦ればそっと抱き寄せてくれる。はてさて彼を惹き付けたのはこの物珍しい容姿だったのか女医という立場だったのか。けれど何だって構わない気もした。今こうして優しく抱いてくれる腕があればそれで満たされる。
実は今でこそ素直にそうだったと認められるのだが、ルイもまたあの日、それは目が合った瞬間の刹那の時、名も何も知らぬ雲雀に酷く強く惹かれたのだ。思わず不躾にまじまじ見つめてしまうくらいには。すぐにどん底に叩き落とされ本気で憎んだ時期もあったとはいえ、所詮は男女を結ぶ思いなど理屈ではなく、それこそが真実なのかも知れない。
ルイの髪を柔く撫ぜる雲雀が呟く。
「…今すぐ診療所を開かせたって本当は構わないんだ。けどあんなやり方で君を貰い受けた以上、それをしちゃ黒曜に向ける顔が無い。後一年堪えて免許は取ってくれ。悪いね」
はいと素直に頷くと、小さな口付けを贈られる。眠かった筈なのに気付けば互いに触れ合っていて、感じる重さが酷く愛しい。「こんな所で、駄目です」高まる熱に身を捩ればわざとに潜めたような声で「隣の部屋じゃ今頃芸妓と客が懇ろさ」だと。この料亭はそういった事も兼ねているらしい。襟元を開かれながら耳元に唇を寄せてうっそり囁いてみる。
「ねぇ恭弥さん。下働きの娘さんとお休みになられたの、このお部屋ではありませんよね?」
「は?」
「もしそうだったら今すぐ離れて、お部屋変えるまで指一本触れないで」
やや間があってから破顔した雲雀はルイをまじまじ見詰めて、それはそれはおかしそうにふふっと声を上げて笑った。初めて見るこのような顔。
「君は相当嫉妬深いね。嫁に来た頃からは考えられない」
「だって私、あなたが」
好きなんですもの。秀麗な彼の目と鼻の先で言いたかったのに深い口付けに飲み込まれてしまう。その後は甘やかに蕩けさせられまた白くなり行く世界の中で「あの時は多分二つ向こうの部屋だったよ、良かったね」そんな言葉を聞いたのは夢か現か定かでは無い。
このような柔らかな日々がきっとずっと続くのだろう、この人とならば。能天気にもルイはそう思っていた。
夜半の月の翳る頃、かの黒曜の地に眠る件の男が目覚めた事を知りもせずに。