embrace
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「では恭さん、奥様。すみませんが行って参ります。夜には戻って来ますので」
「ゆっくりして来て構わないよ。数日旅籠にでも泊まってもてなして貰うと良い」
「はっそんな…いや、ではお言葉に甘えて」
草壁が深々腰を折って出掛けて行ったのは四季の中でも一番冷え込みの厳しい二月の初旬。本日は久しぶりに太陽が曇りがちな顔を覗かせているが、夜がどうなるかは分からない。
草壁が仕事以外で屋敷を離れるのは珍しいのだが今日は彼にとって特別な日だった。両親の命日。草壁は毎年この日になると墓前に花を添えに行く。母の愛した白百合と父の好んだ酒を手に。雲雀は組がどれ程忙しくともこの日に草壁を引き留めた事は無い。
縁側から彼の姿が見えなくなるまで見送って、雲雀はぐっと伸びをした。
「今日は君も休みな。お茶煎れるからそれ終わったらもう座って」
布団を陰干ししていたルイは私がしますと言ったけれど、夫は返事も無くスタスタ部屋を出て行ってしまった。申し訳無さの反面実は嬉しい。あの人がたまに煎れてくれるお茶はとても美味しいのだから。
二人で小さな円卓を囲み熱過ぎずぬる過ぎずの玉露を舌で転がしほうっと息を吐く。揃ってこんなにのんびりした休日を過ごすのは滅多にない。意図せず視線が合えば雲雀の鋭い目はほんの少し柔らかくなって、それが嬉しいルイは思わず笑みを零す。和やかな空気が暖かな部屋を包んでいた。
「御両親のお墓参り、ですか…。あなたは良いんですか?」
それは何の気無しの問い掛けだった。たまには墓前に参らなくて良いのか、と。
実は祝言を終えてすぐに草壁が教えてくれていた。雲雀の家族もまた幕末の動乱の中相次いで亡くなり、一人息子だった彼は天涯孤独の身の上なのだと。当時は珍しい話でも無かったし彼との関係が関係だったが故に今まで何も言わずに来たのだけれど、良い機会だと思った。まがりなりにも妻ではある。御両親の眠る墓に挨拶くらいしておかなければ。
しかし雲雀はゆるりと首を振った。横の方に。
「参る墓が無いのさ」
「は…?」
「もしかして大体聞いてるのかな。まぁいいや。一応君の入った家の事だし、僕からきちんと話しておこう」
雲雀は父が稼いで母が家を守る、裕福で無ければ貧乏でも無い至って平凡な家に産まれついたらしい。しかしその数年後に父は攘夷か開国かの争いに巻き込まれ死亡、激動の時代に遺された雲雀と母を守れる程余裕のある者はおらず母子は一気に困窮を極めた。そして父の死から程無くして母も流行病に倒れ帰らぬ人となったのだと。
「病弱だった母は父の遺体を焼く事も出来ず荒廃した町の外れに埋めたんだ。母のは僕が埋めたよ。見様見真似でね。当時の僕は力を持たぬ子供だったから、せめて同じ所に眠らせてやるのだけで精一杯だったんだ。今じゃもう建物の下さ。すっかり街並みも変わってどこだったかすら曖昧だよ」
「…そうでしたか。余計な事聞いてしまって御免なさい」
墓は建てようと思えば建てられるだろう、などとは言わなかった。もう遺骨の一つも取り戻せやしないのにそんな事して何になる、雲雀はそう考えているのかも知れないのだから。が、物思いにふけっている間も無く。
「君は?って聞いて良いのかな?」
「え?」
「捨て子だったんだろ。親の記憶はあるのかい?」
問われてみて少し考えた。雲雀と初めて会った際シャマルはルイを口減らしの捨て子だと説明したが、実はルイにも不明瞭だったのだ。自身の出生が。
「いいえ、全く」
「そう。では産まれてすぐに今の父親に拾われたんだね」
「ええ、赤ん坊の頃にスラムで死にかけていた所を見かねて拾ったと先生にはそう聞いているんですが…けれど不思議なんです」
何が?と急須に湯を注ぐ彼の繊細ながらも節くれ立った手を見つめながら、どう言ったものかと考え考え。
「先生が指名手配されたのを機に私達が日本へ渡って来たのが十二年前、私はその時もう八つになっていました。なのにどうしてかそれまでの記憶がさっぱり無くて。イタリアに居た頃の事を何も覚えていないんです」
「……?」
「出国直前には恐ろしい人達に追われたり食料に窮したりと散々な目に遭ったそうで」
師に教えられた過去を思い出しながら続ける。
「命からがら異国行きの船に乗り込み、黒曜に辿り着けば使う言葉も生活も一変して。突然の膨大な出来事を幼い脳は処理し切れずそれまでの全部を吹き飛ばしてしまったんだろうと先生は言っていましたが…そんな事ってあるでしょうか」
雲雀は静かに聞いていた。が、ルイの前に新しい茶を注いだ湯呑みを差し出して一つ頷く。
「事故事件、突如何らかの異常事態に見舞われた民衆が前後の記憶を混乱させるのならば僕も幾度か目にして来たよ。不思議と子供や若い女に多くてね。神経が細かいのかな。とにかく君のもその一種だと考えれば、まぁそういう事も起こり得るんじゃないの」
「……そう、でしょうか」
胸に燻っている一抹の不安。数ヶ月前の襲撃に遭った際感じた霧の向こうの恐怖。欠乏した記憶から這い出すどうしようもない戦慄。雲雀もあの時酷く怯えていたルイを思い出したらしい。
「そう言えばこの間えらく取り乱していたね。どこかで似たような経験をしたと。もしかして父が追われていた時の事だったのでは?だったらもう終わった話だ」
そう。それは何度も考えた。しかしながらその度ルイはどこかに違和感を覚えるのだ。違う、そうではない。そんなのとは違って、もっとずっとおぞましく忌避感に満ちた何かを伴った黒い塊が、記憶が、すぐそこに――一歩踏み込めば掴めそうな所に――ある筈なのに、ああ、どうしても思い出せない。手繰り寄せようと伸ばした腕を拒む忌々しきこの靄は一体なんなのだ。
にわかに硬直したルイの湯呑みの温もりに縋るが如く力の込められた青白い手を柔く解いて包む雲雀の手のひらは、その時のルイにとって酷く安らぎに満ちたものだった。
「聞くだけ馬鹿馬鹿しい話だったね。君はもう死ぬまでここで生きて行くのに。過去なんか掘り返して震えるのは時間と脳味噌の無駄遣いだ」
そしてすくっと立ち上がる。
「そんな事よりたまには外に連れて行ってあげよう」
「え?」
「流石に退屈だからね。もう夕飯も食べて帰るよ。ほら、用意して」
話題をすり替えるようないつもの調子の彼に、もう少しこの事に付いて一緒に考えて欲しい思いとその優しさへの感謝が綯い交ぜになる。少し考えたけれど結局はルイも立ち上がって彼の指先をきゅうと握り、牛鍋が良いです。そんな事を言って甘えてみた。もやもや晴れない心を掻き消す為に。
久しぶりの晴天とあって凍てつく寒さの中でも町は賑わしい。町民達はやいのやいのと騒ぎながら市場の新鮮な食材を求め、大通りでは大道芸人が何やら胡散臭い手品で注目を集める。群れてるな…雲雀は物騒な顔でボヤくけれども。
「あなたが作った平和ではありませんか」
言えば一歩前を歩く彼が振り向く。
「安泰な町では人々が元気なのは必然。ここでは暴虐にも疫病にも怯える必要はありませんもの。力を持たぬ子供が獅子奮迅の活躍で成し遂げた…素晴らしい事ではありませんか」
「僕は住民の元気なんてどうでも良いよ。好きにやってたらいつの間にか草食動物が増えてしまったのさ。動乱の頃は獰猛な牙を持った美味そうな獲物があちこち居たのに残念だ」
「ですが秩序の整った並盛がお好きなんでしょう?」
「勿論。けどエサが居ないと腹が空く」
全くこの人は。呆れ笑いが漏れてしまう。照れているのでも偽悪気取りでもなくきっと全て本心なのだから始末が悪い。ルイにはとんと理解の出来ぬ矛盾を抱えて生きるこの不思議な男の渇望が満たされる日は来るのだろうか。
「難しい人ですねあなたは。それにとても欲張り」