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ちらちら雪の舞い降りる師走。曇天の下めっきり日も短く、日本列島全体身を切る寒さが続いている。東京の方で欧羅巴各国と外交を行っていた雲雀が数週ぶりに帰宅したのは日没には少し早い時間だった。
「雪の日まで庭掃除なんてしなくて良いのに」
大きな荷と共に馬車から降りて一番に目に入ったのは地面を竹箒で熱心に掃いている妻。秋に仕立てたばかりの長羽織が灰色の空気の中鮮やかに映えている。
「お帰りなさい。お疲れ様でした」
「ただいま。ほら中入るよ。落ち葉ももうすってんてんなのに掃く物なんて何もないだろ。荷解き手伝って」
「する事ないんですもの。荷解きは私がしておきますからお風呂に行かれて下さい。ご飯もすぐに炊けますから」
「そう、じゃ荷解きは後にして夕飯頼むよ。質素で良い。洋食ばかりで飽き飽きなんだ」
「ではお魚の塩焼きを」
「いいや湯豆腐だ。漬物とだし巻き付けてね」
何という事も無い会話を繋ぎ屋敷の中へ入って行く二人を眺めながら組員の誰かが呟いた。睦まじくなられたようで何より。ぼちぼちお世継ぎの顔も見られるのかねぇ、と。
良い加減の湯に浸かり注文通りの食事を頂いて、早くも敷いていてくれた布団に寝転がり大欠伸を零す。最近は漸く黒曜の方も落ち着いて来て僅かではあるが心身共に余裕が出て来た。枕元で大量の荷を丁寧に解いてくれているルイをぼんやり眺めながら思う。この女を娶ってからはまるで激動の最中に居るようだと。
しかし悪くはない。
これはどうされます?こちらは?一つ一つ確認して来るルイの、来たばかりの頃は酷く冷たかった目が、今や眦を柔く細めて穏やかに自分を映しているのだから。
本当は家を空けるのに少しの懸念があったのだ。襲撃の件で露呈したルイの意外な脆さを目にして。さして日も置かぬ内にまた留守にしては、雲雀の預かり知らぬ所で不安定になってしまっているのではないかと。今ルイは雲雀が持ち帰った珍しいあれやこれにすっかり気を取られている様子。元気そうで良かったと安堵すれば、ふと大事な事を忘れているのに気付いた。
「ねぇ、そっちの鞄開けて」
「これですか?」
「そう。その中に黒い箱があるだろ?開けてみな。君に土産」
お土産…?小首を傾げたルイが白い手に取った黒漆の小箱を開けるのを固唾を飲んで見守る。喜んでくれるだろうか。
「!わぁ……!え、これ…」
それは予想以上だった。大きな目をもっとずっと見開いて、その手の中の繊細な髪飾りと雲雀を交互に見つめるルイ。
仏蘭西の職人に製作を依頼した、精巧な作りの櫛と揃いの簪。簪の先には数多の宝石が蝶々を象りきらきら煌めいている。
「すごい…駄目、こんな物頂けません…」
「それは残念だね。君が受け取ってくれなきゃ質屋に売るしかないんだけどな」
考えてみれば忙しさにかまけてルイには何一つしてあげていなかった。呉服店に立ち寄った時の彼女のはしゃぎようは、医師として生きて来た彼女でもやはり女らしくお洒落や美しい物が好きである事を如実に示していた。いつも地味な装いばかりで居たから関心が薄いかと思いきや、主張しなかっただけなのだと気付いたのだ。
遠慮せずに受け取って欲しいと願う。そんなに嬉しそうな顔をしているのだから。
ルイは暫し雲雀をじっと見つめて、それから手の中のそれをきゅっと胸に抱いて。
「私、ずっと大切にします。ありがとうございます」
震える声で告げられた礼よりも、伏せた瞳からすぅと頬を伝った一雫の涙が何よりに思えた。そしてもう一つだ。
「それとね、それ取って。そう、それ。貸して」
こちらは厚手の紙の箱。真っ赤の包装を剥がして開ければそこには深い茶色の丸い物が二十粒程並んで箱に収まっている。その内の一つを摘んで取り出した。
「口開けて」
「はい?」
「良いから。はい」
素直に開かれた口に放り込んで、ついでに頬を濡らす涙を拭ってあげてから「噛んで」と催促する。コリッ。微かな音がして、すると——
「……あまぁ〜い…!」
それは蕾の開花だった。
初めて見たルイのとろけるような満面の笑顔。白い歯が零れるその様、みるみる内に綻び咲き乱れる大輪の花の如き。今この瞬間を雲雀はきっと生涯忘れはしないだろう。ああ、やっと見られた。そうだ。自分はこれが見たくてずっと…。
「ちょこれいと、と言うらしい」
「ちょこれいと?」
「西洋の婦人が好んで食べるんだとさ。日本には未だ入っていないが並盛はどうかと貿易商からえらく推されてね。女の好む物ならば女の反応を見てから輸入を検討しようと思ったんだ。良さそうだね」
ルイはそのような説明聞いているのかいないのか、初めて食べる魅惑の菓子にすっかり心を奪われ幸せそうににこにこ笑っている。その様があんまりいじらしくて、本当は町民の女達にも一粒ずつ試食させる筈だったそれは妻への土産として膝に置いてやった。これだけの反応があればもう充分だろうから。
やっと我に返ったルイが慌ててあなたはもうお召し上がりに?と問うからこれで良いとそっと頭を引き寄せる。
ちゅ。
一度軽く触れてみた唇。一体何が起こったのか、ぱちぱち睫毛を瞬かせるルイの体を今度は柔く抱き寄せて、ゆっくり舌を侵入させてみた。ぺろりと口内のあちこちをまさぐり残った甘やかな香りを楽しむ。ん、小さく零された幼い声が可愛らしい。もうすっかり全部を舐め尽くしてからも、柔らかな唇はどうにも離れがたく、ずっと弄び続けていると、ふとルイの手がきゅっと肩を掴んで来た。嫌がられたか。
ちゅぷ、最後に下唇を吸って体を離すと。
「……ワオ」
何たる事だろう。どのような愛撫を持ってしても一切色付く事の無かったルイの頬が眦が、今や真紅の薔薇のそれと化しているではないか。ルイ自身驚きに雲雀を見つめて何も言わない。ただただ雲雀を見つめて…それからカッカと熱を持つ頬を自身の両手で挟んで、しまいにはけらけらと笑い出してしまった。恥ずかしそうに、無邪気な子供のように。その時のルイが何を思ってそうなったのかは知らぬ。けれども雲雀もつられてくつくつ喉を鳴らして、それからもう一度口付けたのだった。
それ以来雲雀がルイの寝室に訪れる事は無くなった。
もう良いのだ。雲雀が欲しかったものは実はその唇にこそ存在していたのだから。形骸化した冷えた体の繋がりよりもそちらの方が余程雲雀を満たす。欲しくて欲しくて堪らなかった彼女の眩い笑顔の方が、ずっと。