embrace
name change
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
パンッ!
広い庭に軽快な音を響かせて綺麗に洗った洗濯物を干していく。爽やかな早朝、仰いだ空は高く吹き抜ける風は肌寒い程。冬の足音忍び寄る十月末日、朝の家事を済ませたルイの胸はわくわくと躍っていた。
嫁いで来て以来初めての外出。
切っ掛けは些細な事だった。冬支度にと箪笥にしまい込んでいた袢纏を乾干していたら雲雀が苦い顔をしたのだ。来客があった時にそれではみっともないと。これしか手持ちが無いと訴えれば、ならば上等の羽織を買いに出れば良いと言ってくれた。 最近は太陽の強い日差しもすっかりなりを潜めルイが出歩くにも支障は無いので。
首元まで白粉をはたいては頬に唇に紅をさしてゆく。お洒落とはこんなにも楽しいものだっただろうか。浮き立つ胸で長い髪を綺麗に纏め終えた所で、部屋の外より届いたお迎えの声に勢い良く立ち上がった。
「すごい……」
一歩中心街に出れば、ズラリと並ぶ露店に立派な何やらの建物。通りは沢山の人で賑わい活気が溢れている。目を惹く色とりどりのあれやこれに気を取られれば、たちまち少し手前を歩く夫の姿を見失ってしまいそう。
「言う程かい?以前は黒曜もこんなものだったんじゃないの」
すっかり雰囲気に気圧されているルイに雲雀は少し不思議そうだ。
「私買い出しなんていつも診療所の近くで、街中には殆ど出た事無かったので…」
「父親が随分な過重労働を強いていたからね」
「え?そんなんでは」
「ああ、そうだったね。君もそれを楽しんでた」
労働好きだなんてげに変わり者だと、呆れたような少しだけ面白そうな軽口。この人がこんな風に話すようになったのはいつからだっただろう。気付けばいつの間にか会話から緊迫感が消えていた。絶対に必要、というわけでも無い会話が増えていた。
「気に入った物があれば買うと良い、次に来られるのはいつか分からないから」
「はい。あの、」
「何?」
「ありがとうございます。忙しいのに」
返事の代わりに僅かに目元を笑わせて前を向く。いつからか見せてくれるようになったこの人のこの表情がとても好き。あんなにも嫌いだったのに、心とは不思議なものだ。それはこの人が自分を大事にしてくれていると理解出来たからかも知れない。認めてくれたからかも知れない。或いは、頑強に見えるその心の内側に触れさせてくれたからかも知れない。
理由など定かではないけれど、こんな風に思えるようになったのは幸せな事なのだろう。大股でどんどん歩いて行ってしまう彼とはぐれぬよう、凛としたその後ろ背を駆け足で追い掛けた。
呉服屋に寄ると目的の長羽織の反物を選び、ついでに冬用の着物まで数点誂えた後は、どれもこれもを物珍しく眺めるルイの為に沢山の店を巡ってくれて、あっという間に気付けばもう日暮れ時。楽しい時間はいつでもすぐに過ぎてしまう。
今から夕飯の支度も苦になるだろうと人生初の外食というものまで経験させて貰い、こんなに甘えて良いのだろうかと嬉しさの反面僅かな申し訳無さを感じつつ帰宅の途に付こうとした時だった。薄暗がりの中、「あら、こんばんは」不意に背後から掛かるしっとりと艶っぽい声。
「お久しぶりですね」
綺麗な女だった。雲雀に向かい眦を下げ、にっこりと半月を描く赤い唇にしなやかに指を添える様はやけに扇情的で、妙に胸がざわつく。誰だろう、この人は。
「風の噂で祝言あげられたと伺ってはいましたが…こちら、奥様?」
「そうだよ」
さりげなくルイの前に立ち視界を遮りながら雲雀は素っ気ない。「日が暮れてからの女の一人歩きは禁止だよ。帰りな」まるで厄介払いのそれに女はくつくつ面妖に喉を鳴らしては、雲雀の陰で立ち尽くすルイの顔をわざわざ腰を捻り覗き込んで小さく目礼した。はっきりと値踏みをして来る瞳がひどく不快で、いけないと分かりつつも思わず眉根を寄せてしまう。
「もういらしては下さらないのかしら?残念だわ。…ではお幸せに」
ルイの視線など軽くいなし再度雲雀に微笑むと、返事も聞かず女は夕闇に消えて行った。仄かに甘い花の香を残して。
「……」
明確に察しの付く関係性。あれは雲雀が懇意にしていたどこぞの遊郭の女なのだろう。
こんなにも分り易い、だと言うのに何事も無かったかのように歩き出してしまう彼に、膨らんでいた幸せな気持ちがたちまち薄暗い何かに侵食され掻き消えてしまう。
悪いねの一言も無いの?祝言前の話ならば関係無いと思っている?実際関係無いのだが…こんなにも気分が悪いのはどうして。先日彼が浮気をした時は寧ろ有難いとすら思ったのに…
ぐちゃぐちゃな胸の内は言うに言えず、けれど何となく黙ったままでも居られずに。
「…娼妓解放令」
呟けば無言でいた雲雀が足を止め振り向いた。
「並盛にも適応されてはいないのですね。どうして?」
マリア・ルーズ号事件。二昨年程前に起こったこの世界を相手取ったいざこざにより日本における奴隷──この場合は金で買われる娼婦という名の奴隷を、人道に反するという体裁の下廃止する令が下されたのだ。だというのに世には未だ芸者屋だ茶屋だと名を変えた郭が存在している。此処並盛にも。
それでしか食い扶持を得られぬ女が溢れている現世では仕方の無い事ではあるが…しかしこの町ではどうだろう。
「あなたがその気になりさえすれば、身売りなどしなくても皆が生きていける町を作れる筈でしょう。あの黒曜を救済して下さったくらいなのですから。なのにあなたはそうはなさらない」
「それとこれとは勝手が違うんだよ」
「何が違うんですか?私にはあなた自身が郭を必要としているからとしか思えません。あなたが酔っ払って帰って来たあの晩のように」
冷ややかな沈黙が落ちる。
本当はこんな事が言いたかったのでは無い。ただ「嫌な思いをさせたね」「悪かったね」と。ほんの少しの気遣いが貰えればそれで良かったのだ。どうしてこのような皮肉な物言いをしてしまうのだろう。あの時とは自分達の関係だって随分変わったのに。今更蒸し返された所で彼とて気分が悪いだけだというのに。
「…すみません。口が過ぎました」
決まりが悪く引き下がると、雲雀は無表情のまま「さっき僕があの女に言った事覚えている?」逆に問うて来た。覚えているけれどもどの言葉を指しているのかは分からずその綺麗なかんばせを眺めるばかり。
「日が暮れてからの女の一人歩きは禁止、と言ったよ。父親は君をそう躾けなかったかい?その意味が大人の君にならもう分かる筈だよ」
「それは勿論」
単純に危険だからだ。女は力が弱いから。暴漢に襲われても太刀打ち出来ず蹂躙されてしまうから。しかしそれがどう関係しているというのだ。
「…分からないかな。男の欲求は君が思ってる以上に衝動的で獰猛で、時に理性で歯止めを効かせられない者も居るんだ」
「だからそれが」
「だから発散する場所が必要なんだよ。絶対にね。誰もが相手に恵まれているわけでは無いしそこまでは僕の手に負えない」
「…そりゃ、…」
理屈は良く分かった。男の性衝動の鞘と言うわけだ。町を統べる者として正当な判断なのだろうが、何となく気分の良い話では無かった。
けれど続いた言葉にルイの強張り顔は解れていく。
「とは言っても並盛の女達は政府が称したような牛馬では無く立派な人間、汚れ仕事を強要は出来ない。望まぬなら逃げ道も用意しているし受け入れるならば待遇も手厚くしてある。詳しく聞きたい?」
つまり心に蓋をして奉公させられている者は居ないのか。
いいえ、とルイは答えた。
この人がこう言うならばその通りなのだろう。それを信じられたのは、きっとこれ迄の雲雀を見てきたから。どれだけ並盛とそこに住まう者を大事にしているのかを知っていたから。自分とて、風潮として男女の区別は付けられながらも決して軽んじられた事などなかった。出会った初めから一度とて。
「すみませんでした」
「良いよ。納得したなら」
その時不意に吹き付けた冷たい夜風がルイの髪を乱しあっという間に通り過ぎて行く。
「もう寒い。帰るよ」
「はい」
つまらぬ意地のせいで論点がずれてしまい言いたい事は言えぬまま、それでも僅かに持ち直した心で一歩踏み出した所で。
「それと、あの晩僕は浮気まではしてないからね」
「へ?」
思いがけぬ一言に間抜けな声が漏れた。雲雀は何処と無く居心地が悪そうにして目を逸らすとぼそり呟く。
「そのつもりで行ったけど…途中で止めたよ。散々詰られた僕に免じて一度限りは見逃してくれると有難いな」
最後の方はもう前を向きルイの顔は見もせずに。薄暗がりの中、心無し耳が赤いのは気のせいだろうか。
「…止めたって。何故…って聞いても良いんですか?」
長い長い沈黙の中ひたすら足を進める雲雀。必死に追いかけるルイ。やがて返って来たのは彼から発されたとは信じ難い、消え入るような掠れ声。
「……勃たなかった。君のせいだよ」
「はい…?」
どういう事だろう。たたなかったって…たたなかった?男の部分が?そういう事、なのか?
それが自分のせいで?良く分からない。分からないけれど…否、彼の態度と場の雰囲気から感覚が察知した。間違いないと確信を持って。
とくり、脈打つ心臓。
聞きたい。彼の口から。
「あの、それは──」
「うるさい黙れ。置いてくよ。早くしな」
これまた彼らしく無い、切羽詰まった声が何だかとてもとても可愛らしくて愛しくて、思わず顔が綻んでしまったのは、今や耳を真っ赤に染めてずんずん歩いて言ってしまう夫には決して言えないルイだけの秘密。
途中で止めたよなんて格好付けて言ってみたって、本当は止めざるを得なかったんでしょう?私じゃなきゃ反応しなくて抱けなくて、怒った女の人に詰られてしまったんでしょう?それで、溜まりに溜まった鬱憤がついに爆発して滅茶苦茶に飲んだくれて…
優越感か何なのかむず痒くて嬉しくて、けれどとんでもなく申し訳無くてこんな気持ちになったのは初めてで、きゅっと握った手が我知らずに喧しい胸を抑える。
あなたは、私を好いてくれているんですか?つんつんしてあなたを振り回して我儘ばかりで、ちっとも可愛い所なんて有りはしないのに。
教えて下さい。私の事どう思っているの?あなたの口から聞かせて欲しいんです。
ねぇ、恭弥さん───