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事後処理及び事を二度と起こさぬ為の手配、何やかやで日中殆ど進まなかった作業へ再び向き合えたのは結局もう夜更け。
「⋯⋯」
追い込みをかけなければならないのに頭はちっとも働きはしない。
防げる筈だった事故、引き起こしたのは自分。脳裏に焼き付いた少年の半開きになった双眸が延々と雲雀を責め苛む。平常より穏やかだった川の流れ、速やかな救命を行えた状況。それはまさに奇跡であり今回はたまたま運が味方をしてくれたのだ。一つでも要素が欠けていたならば⋯。
この地に住まう者を守って行く覚悟、その重さの分だけ自分が許せず不安と焦燥に駆られる。他に何か抜かりは無いだろうか、それはとんでもない事態に発展しないだろうか。
本当は分かっている。並盛に黒曜、抱え切れない程の負荷を背負い込んだ現在の自分はもうとっくに限界を超えてしまっているのだと。それでも今更放り出すなぞ出来なければする気も無い。
全てを完璧にこなさなければ。すると決めたのは他ならぬ自分自身で、自分の代わりは何処にも居ないのだから⋯
それは正に見えぬ糸に絡め取られている気分で、食いしばった歯がギシリと嫌な音を立てる。
まんじりともせず文机を睨みつける雲雀の思考を打ち切ったのは、不意に茶を運んで来たルイだった。
時刻はじきに二時を回る。
まだ起きてたの、少しの驚きと共に問えばこくりと頷く。寝付けなくて、と。
膝を折り水差しを傾け茶を注いで行く。カラカラ響く心地良い音。ここまでは昼と同様、違うのは袖から覗く彼女の手が赤く爛れている事。
「⋯それが痛くて眠れないの?」
あの僅かな時間でこんなになってしまうのか。改めて直面したルイの抱える問題に募る不甲斐無さ。今日彼女に救われたのはあの少年だけでは無い、自分もまた⋯
「いえ。⋯今晩も徹夜ですか?」
どこかしら咎めを孕んだ表情に、しかし今は昼間のように高揚した気分にはなれずふいと顔を背ける。
「少し眠って下さい」
「無理」
「倒れますよ」
「倒れない」
「あなた酷い顔されてます。隈が、」
何なのだ。誰の為にしている事だと思っている。やけに食い下がって来るルイについカッとなってしまって。
「君はもう医者じゃない。邪魔だから出て行って」
ああ、何て情けない。労わってくれている妻に八つ当たりだなんて。それでももうここに居て欲しくは無かったのだ。一杯一杯の、今のこんな姿を見られたくは無かった。誰にも、この女には殊更に。
ぐちゃぐちゃの思考で万年筆を握り書類に取り組む振りをする。見つめて来る視線は知らん顔で。
暫しそうしていたけれど、やがてルイがぽつりと呟いた。御免なさい、と。
「⋯⋯は?」
意味が分からない。この女、空気が悪くなったからと言って理不尽に屈する程可愛気のある性分で無い事は折り込み済みなのに。
「草壁さんに聞いたんです。あの川の警備、今年からやめたと」
「⋯そうだよ。僕の不手際でね。どうして君が謝るのかな」
俯く白い顔。低い声音。
「⋯⋯。あなたが黒曜に手を焼いたから組の負担が増え、⋯結果例年ならば滞り無く行えた幾つかの業務を削る必要に迫られた。そして「哲がそう言ったのかい?」
あからさまな怒気を放つ雲雀にルイは違うと首を振る。
「草壁さんは、こうなるとは思わなかったとそれだけ。⋯けれど、私にも行間を読む程度の頭はあるんです」
可愛くない女、ですか?
いつかの言を持ち出しどこか切なげに漏らすルイに、ささくれ立っていた心が不思議と落ち着いて来るのを感じる。
「⋯賢いのは悪くはないさ。けどその判断をしたのは僕であって、君とは無関係だ」
「⋯⋯」
「ほら、もう遅いから。そんな顔してないで早く寝なよ」
「⋯。私の言う事は聞いて下さらないのに」
口振りとは裏腹に柔らかく細まる目。少し疲れたような表情に、こんな時だと言うのに綺麗だ、そんな事を思う。
「ねぇ、それだけ頭が回る君だったら分かるだろ?そういう状況じゃないんだ。⋯気分も、」
付け足した一言、脆弱な本音の吐露。この女の前では格好を付けていたい、その癖に理解して欲しいなんて感情が湧き上がるのは何故。
ああもう本当に追い出してしまいたい。これ以上この口が余計な言葉を紡ぐ前に。なのに彼女は傍に寄り添っては筆を持つ指に触れて来る。
自分のとは違う折れてしまいそうな頼りない女の手、命を呼び覚ましてみせた力強い手で。
「⋯⋯あなたは、きっと何があっても私の⋯妻のせいになどされはしないのでしょうね」
「君のせいじゃないと言って「ええ、あなたがそう仰るならそれで構いません。⋯⋯けれど、だから」
きゅ、と微かな力を込め握られる指先。
「⋯あの子を救えて良かった。そう思います。あなたの為にも、私の為にも⋯」
澄んだ紅玉から、今にも雫が零れ落ちそうに薄い膜が張って揺らいで自分を映し出す。消え入りそうな声、震える唇。
彼女とて、沢山の感情を抱えては押し殺している。
堪らず腕が長襦袢一枚の身体を抱いた。愛おしい、こんなにも。この熱帯夜に人の温もりを心地良く感じる日が来るだなんて。
馨しい香に包まれ瞼が落ち、漏れ出た声は奇妙に掠れて。
「君で、良かった」
この日、二人は初めて共有した。それは決して甘くなど無い、重く厄介で苦々しい。けれど確かに芽生えた、夫婦だけが分かち合える特別な絆を。
「少し眠って下さい。お願いですから」
「⋯⋯仕事が、」
「お願いします。私の気持ちも、少しは分かって⋯」
私達、夫婦でしょう?
優しく背を撫ぜる腕が、哀願の声が、まるで催眠のようにゆるりと意識を途切れさせて行く。
うん。
幼子のような返事を零して、小さな肩に顎を乗せたまま微睡みに沈んだ。
ありがとう、僕の賢い可愛い奥さん。
そんな胸の内は伝えられないままに。
「⋯⋯」
追い込みをかけなければならないのに頭はちっとも働きはしない。
防げる筈だった事故、引き起こしたのは自分。脳裏に焼き付いた少年の半開きになった双眸が延々と雲雀を責め苛む。平常より穏やかだった川の流れ、速やかな救命を行えた状況。それはまさに奇跡であり今回はたまたま運が味方をしてくれたのだ。一つでも要素が欠けていたならば⋯。
この地に住まう者を守って行く覚悟、その重さの分だけ自分が許せず不安と焦燥に駆られる。他に何か抜かりは無いだろうか、それはとんでもない事態に発展しないだろうか。
本当は分かっている。並盛に黒曜、抱え切れない程の負荷を背負い込んだ現在の自分はもうとっくに限界を超えてしまっているのだと。それでも今更放り出すなぞ出来なければする気も無い。
全てを完璧にこなさなければ。すると決めたのは他ならぬ自分自身で、自分の代わりは何処にも居ないのだから⋯
それは正に見えぬ糸に絡め取られている気分で、食いしばった歯がギシリと嫌な音を立てる。
まんじりともせず文机を睨みつける雲雀の思考を打ち切ったのは、不意に茶を運んで来たルイだった。
時刻はじきに二時を回る。
まだ起きてたの、少しの驚きと共に問えばこくりと頷く。寝付けなくて、と。
膝を折り水差しを傾け茶を注いで行く。カラカラ響く心地良い音。ここまでは昼と同様、違うのは袖から覗く彼女の手が赤く爛れている事。
「⋯それが痛くて眠れないの?」
あの僅かな時間でこんなになってしまうのか。改めて直面したルイの抱える問題に募る不甲斐無さ。今日彼女に救われたのはあの少年だけでは無い、自分もまた⋯
「いえ。⋯今晩も徹夜ですか?」
どこかしら咎めを孕んだ表情に、しかし今は昼間のように高揚した気分にはなれずふいと顔を背ける。
「少し眠って下さい」
「無理」
「倒れますよ」
「倒れない」
「あなた酷い顔されてます。隈が、」
何なのだ。誰の為にしている事だと思っている。やけに食い下がって来るルイについカッとなってしまって。
「君はもう医者じゃない。邪魔だから出て行って」
ああ、何て情けない。労わってくれている妻に八つ当たりだなんて。それでももうここに居て欲しくは無かったのだ。一杯一杯の、今のこんな姿を見られたくは無かった。誰にも、この女には殊更に。
ぐちゃぐちゃの思考で万年筆を握り書類に取り組む振りをする。見つめて来る視線は知らん顔で。
暫しそうしていたけれど、やがてルイがぽつりと呟いた。御免なさい、と。
「⋯⋯は?」
意味が分からない。この女、空気が悪くなったからと言って理不尽に屈する程可愛気のある性分で無い事は折り込み済みなのに。
「草壁さんに聞いたんです。あの川の警備、今年からやめたと」
「⋯そうだよ。僕の不手際でね。どうして君が謝るのかな」
俯く白い顔。低い声音。
「⋯⋯。あなたが黒曜に手を焼いたから組の負担が増え、⋯結果例年ならば滞り無く行えた幾つかの業務を削る必要に迫られた。そして「哲がそう言ったのかい?」
あからさまな怒気を放つ雲雀にルイは違うと首を振る。
「草壁さんは、こうなるとは思わなかったとそれだけ。⋯けれど、私にも行間を読む程度の頭はあるんです」
可愛くない女、ですか?
いつかの言を持ち出しどこか切なげに漏らすルイに、ささくれ立っていた心が不思議と落ち着いて来るのを感じる。
「⋯賢いのは悪くはないさ。けどその判断をしたのは僕であって、君とは無関係だ」
「⋯⋯」
「ほら、もう遅いから。そんな顔してないで早く寝なよ」
「⋯。私の言う事は聞いて下さらないのに」
口振りとは裏腹に柔らかく細まる目。少し疲れたような表情に、こんな時だと言うのに綺麗だ、そんな事を思う。
「ねぇ、それだけ頭が回る君だったら分かるだろ?そういう状況じゃないんだ。⋯気分も、」
付け足した一言、脆弱な本音の吐露。この女の前では格好を付けていたい、その癖に理解して欲しいなんて感情が湧き上がるのは何故。
ああもう本当に追い出してしまいたい。これ以上この口が余計な言葉を紡ぐ前に。なのに彼女は傍に寄り添っては筆を持つ指に触れて来る。
自分のとは違う折れてしまいそうな頼りない女の手、命を呼び覚ましてみせた力強い手で。
「⋯⋯あなたは、きっと何があっても私の⋯妻のせいになどされはしないのでしょうね」
「君のせいじゃないと言って「ええ、あなたがそう仰るならそれで構いません。⋯⋯けれど、だから」
きゅ、と微かな力を込め握られる指先。
「⋯あの子を救えて良かった。そう思います。あなたの為にも、私の為にも⋯」
澄んだ紅玉から、今にも雫が零れ落ちそうに薄い膜が張って揺らいで自分を映し出す。消え入りそうな声、震える唇。
彼女とて、沢山の感情を抱えては押し殺している。
堪らず腕が長襦袢一枚の身体を抱いた。愛おしい、こんなにも。この熱帯夜に人の温もりを心地良く感じる日が来るだなんて。
馨しい香に包まれ瞼が落ち、漏れ出た声は奇妙に掠れて。
「君で、良かった」
この日、二人は初めて共有した。それは決して甘くなど無い、重く厄介で苦々しい。けれど確かに芽生えた、夫婦だけが分かち合える特別な絆を。
「少し眠って下さい。お願いですから」
「⋯⋯仕事が、」
「お願いします。私の気持ちも、少しは分かって⋯」
私達、夫婦でしょう?
優しく背を撫ぜる腕が、哀願の声が、まるで催眠のようにゆるりと意識を途切れさせて行く。
うん。
幼子のような返事を零して、小さな肩に顎を乗せたまま微睡みに沈んだ。
ありがとう、僕の賢い可愛い奥さん。
そんな胸の内は伝えられないままに。